『エチカ』第五部を読み直して、自分の生き方について考えたこと

スピノザ
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スピノザの『エチカ』第五部をあらためて読み直した。

第五部の定理21以降は、私にとってはまだまだ難しい。とりわけ精神と身体の関係や、永遠の相のもとで精神が自分自身を認識するという問題については、解釈者によってもかなり読み方が分かれるところで、現時点の私には簡単に何かを断定できるようなものではないと思っている。

ただ、第五部の定理20までを読み返していて、以前とは少し違ったものが見えてきた。

それは、ここでスピノザが語っていることが、単なる「哲学上の難しい議論」ではなく、一人の人間が自分の人生をどう生きるのかという問題に、かなり直接的に関わっているのではないかということだった。

そして、それを考えていくうちに、自分自身のここ数年の生き方について、少し考え直すことになった。


1.『エチカ』を読みながら、自分の人生を振り返る

ここ数日、いくつかの出来事が重なった。

『ちいかわ』の映画を観て、その内容についてブログを書いた。

YouTubeでスピノザについて解説している動画をいくつか観た。

その中では、上野修先生によるスピノザ全集版『エチカ』の翻訳について、ある訳語をかなり強く批判しているものもあった。それに対して、別の人が疑問を呈しているコメントを読んだりもした。

そういうものを見ながら、あらためてスピノザの文章そのものを読みたくなった。

そして今日は、第五部を最初から最後まで通して読み直した。

そうしているうちに、ここ数年の自分自身の人生に対する態度を、少し距離を置いて眺めてみることになった。

すると、あることに気づいた。

自分は、人生に起きる出来事を、かなり否定的な方向に解釈してきたのではないか。


2.「理解する」ということ

『エチカ』第五部の定理20までを読んでいて、私が改めて重要だと思ったのが、「理解する」ということだった。

自分がいまどういう状態にあるのか。

何を感じているのか。

身体はどういう状態なのか。

どんな感情が生じているのか。

そして、自分に何が起こっているのか。

そういうものを理解する。

もちろん、スピノザにおける「理解」は、単に自分の気持ちを内省して「分かったつもりになる」ということではない。

スピノザにとって、ものを理解するということは、そのものがなぜそうなっているのか、その原因や必然性を認識することでもある。

だから、本当の意味で理解するということは、単純な自己分析とは違う。

むしろ、自分自身を含めた出来事を、より大きな自然の因果関係の中に位置づけていくことなのだと思う。

ここは、私自身がまだまだ考えていかなければならないところだ。

ただ、今回この「理解する」ということについて考えていて、自分の中にもう一つ気づいたことがあった。

それは、

同じ出来事を理解する場合でも、その理解の仕方には違いがあるのではないか

ということだった。


3.「自己流の解釈」という問題

たとえば、何か嫌なことが起きたとする。

その出来事自体は、単なる出来事だ。

しかし私たちは、その出来事に対してすぐに意味を与える。

「これは自分が駄目だから起きたんだ」

「自分はどうせこういう人間なんだ」

「こんなことが起こるということは、自分の人生はうまくいっていない」

そんなふうに、自分なりの物語を付け加えていく。

私自身、ここ数年そういうことがかなり多かったように思う。

起こった出来事そのものよりも、その出来事について自分が作り出した解釈によって苦しんでいる

そういうことが、かなりあったのではないかと思う。

もちろん、だからといって「嫌な出来事も全部ポジティブに考えればいい」という話ではない。

スピノザは、現実を無視して「何でも良いことだ」と思い込め、と言っているわけではない。

むしろ逆だ。

現実を、その原因と必然性において理解する。

その結果として、私たちが受動的な感情に振り回される度合いが減り、自分自身の活動能力を増大させる。

ここにスピノザの倫理学の核心がある。

だから、「肯定的に生きる」ということを、単純なポジティブ思考として理解してしまうと、スピノザからかなり離れてしまう。

スピノザにとって重要なのは、

現実を都合よく肯定することではなく、現実をよりよく理解することによって、そこからより能動的な状態へ移行すること

なのだと思う。


4.喜びとは何なのか

『エチカ』第三部・第四部を読み返してみても、そこには「喜び」の問題が何度も出てくる。

スピノザにとって喜びは、単なる「楽しい気分」ではない。

身体と精神の活動能力が、より大きな完全性へと移行すること。

つまり、自分の存在する力が増大していくこと。

逆に悲しみとは、その活動能力が減少することだ。

そう考えると、「人生を肯定的に解釈する」という言葉も、少し違った意味に見えてくる。

何が起きても、

「最高だ!」

「全部ポジティブ!」

と考えることではない。

そうではなく、

この出来事を理解することで、自分の活動能力を増大させることができるだろうか。

という問いを持つことなのではないか。

これは、自分にとってかなり重要な発見だった。


5.「嫌なこと」をどう扱うのか

嫌なことが起きたとき、私はこれまで、その出来事そのものよりも、その出来事に対して自分が抱いた感情や解釈に囚われていたように思う。

「なぜこんなことが起きたんだ」

「どうして自分ばかり」

「こんなことが起きたということは、自分は不幸なんだ」

そうやって、自分の中で何度も出来事を再生してしまう。

すると、出来事は終わっているのに、自分の中では終わらない。

その出来事に対する感情が、さらに別の感情を生み、それについてまた考え、また苦しくなる。

スピノザ的に考えるなら、ここには「受動」の問題がある。

私は出来事そのものに動かされているだけではなく、出来事について自分が形成した観念によって、さらに動かされている。

だからこそ、理解する必要がある。

「自分はいま、何によってこの感情を抱いているのか」

「この感情は、どのような原因から生じているのか」

「自分は何を理解しておらず、何を誤って結びつけているのか」

そうやって考えていくことで、少しずつ受動的な状態から抜け出していく。

それがスピノザのいう倫理的な実践の一つなのではないかと思う。


6.沖正弘の言葉

そして今回、これを考えているときに、大学時代に読んだ沖正弘さんの本に書かれていた言葉を思い出した。

当時、私はその一節をジャーナリングのノートに書き写していた。

今になって読み返してみると、そこには、今回『エチカ』第五部を読み直して感じたことと重なる部分があるように思えた。

人間的な当たり前の心とは、どんな環境や立場に置かれても、朗らかにしていられることだ。そうできる知恵を持った心なのだ。

嫌な時に嫌な顔をし、恐ろしい時に不安な状態になり、腹の立った時に怒るのは動物にもできることだ。

しかし、困った時にも笑っていたり、嫌なことにも平気でいたり、自分にひどい仕打ちをした人でも愛する心を持つには修行をしなくてはならない。

人間心とは、そういう練習を通じて身につけるものなんだ。

一切を笑いと喜びと感謝とで受け取る知恵のことを信仰というのだ。

どんなこともどんなものも拒まない。なるようになって結構と任せきる感謝心で生きる。現実はそのままに見て、それを喜ぶことだよ。

第一は、とにかく笑い、とにかく感謝すること。

第二は、自己流の解釈を捨てること。

ただ無条件に、どんなことでも喜びなさい。

この中で、今の私が特に引っかかったのは、

「自己流の解釈を捨てること」

という言葉だった。

これは、スピノザの哲学とそのまま同じだと言いたいわけではない。

スピノザは「自己流の解釈を捨てて、何でも喜べ」と言っているわけではないからだ。

むしろスピノザは、ものごとを自分の感情や想像だけで判断するのではなく、その原因と必然性を理解しようとする。

その意味では、両者の間にはかなり大きな違いもある。

それでも、私自身の実践という観点から見ると、この言葉は妙に響いた。


7.「自己流の解釈を捨てる」とは何か

「自己流の解釈を捨てる」というのは、私の場合、

「何も考えない」

ということではない。

むしろ逆なのだと思う。

自分が勝手に付け加えてしまった意味を、一度疑ってみる。

「本当にそうなのか?」

「自分はいま、何を根拠にそう考えているのか?」

「これは事実なのか、それとも自分の感情によって作られた解釈なのか?」

そうやって、一度立ち止まる。

そして、できるだけ事実そのものを見る。

そこから、なぜそうなったのかを考える。

これは、私にとってはかなりスピノザ的な実践に思える。

スピノザの倫理学は、感情を否定する哲学ではない。

怒りや悲しみや恐怖を、「そんな感情を持つな」と言っているわけではない。

そうではなく、

なぜ自分はそう感じているのかを理解することによって、その感情に完全に支配される状態から抜け出していく。

そのための哲学なのだと思う。


8.「喜ぶ」ということ

だから、私が今回『エチカ』を読み直して感じた「肯定的に生きる」ということも、少し意味が変わってきた。

以前なら、

「嫌なことがあっても前向きに考えよう」

くらいに考えていたかもしれない。

でも今は、もう少し違う。

嫌なことが起きたなら、まずその嫌なことを嫌なこととして認識する。

悲しいなら、悲しい。

腹が立つなら、腹が立っている。

苦しいなら、苦しい。

そこを無理に消そうとはしない。

ただ、その感情に自分の判断を全部明け渡さない。

「自分はいま、なぜこう感じているのか」

「何が自分の活動能力を低下させているのか」

「どうすれば、この状況をより正確に理解できるのか」

と考えていく。

その理解の中から、少しでも自分の活動能力を増大させるものを見つけていく。

私にとっては、これが今のところ、スピノザのいう「喜び」に近い。


9.『エチカ』は人生の外側にある本ではない

『エチカ』を読んでいると、どうしても「神」「属性」「様態」「必然性」「永遠性」「精神」「身体」といった抽象的な概念に目が向いてしまう。

もちろん、それらを理解することは重要だ。

私自身も、ラテン語の原文を読みながら、文法や語彙を一つずつ確認している。

けれど、今回第五部を読み直していて思った。

これを一体、自分の人生のどこで使うのか。

スピノザの哲学を理解するということは、スピノザについて詳しくなることだけではない。

むしろ、

「では、自分は明日からどう生きるのか」

というところまで戻ってこなければならないのではないか。

そう考えると、『エチカ』という本は、研究対象として自分の人生の外側に置いておくものではなくなる。

自分が怒ったとき。

落ち込んだとき。

誰かに傷つけられたとき。

何かを恐れているとき。

あるいは、嬉しいことがあったとき。

その一つ一つの場面で、

「自分はいま、何を理解しているのか」

と問い直す。

そういうところに、スピノザの倫理学の実践があるのではないかと思う。


10.これからの自分の課題

今回『エチカ』第五部を読み直して、私自身の中で一つ課題ができた。

それは、

自分の人生に対する「自己流の否定的な解釈」を、少しずつ手放していくこと。

ただし、それは「何でもポジティブに考える」という意味ではない。

現実を美化することでもない。

むしろ、現実をもっと正確に見る。

自分の感情をもっと正確に見る。

身体の状態も、置かれている環境も、自分と他者との関係も、できるだけそのまま見る。

そのうえで、

「この状況を理解することで、自分の活動能力を増大させることはできないか」

と考える。

そういう生き方を、少しずつ練習してみたいと思う。

『エチカ』を読んでいると、哲学というものは、結局のところ「正しい世界観を持つこと」だけでは終わらないのだと思わされる。

世界をどう理解するかによって、自分自身の生き方が変わる。

そして、自分の生き方が変われば、自分が世界に対して持つ観念もまた変わっていく。

その循環の中に、スピノザのいう「自由」への道があるのかもしれない。

第五部の定理21以降については、まだ私には難しすぎる。

でも、少なくとも定理20までを読んで、今の自分に必要なことは少し見えてきた。

それは、

現実を拒絶することではなく、現実を理解すること。

感情を否定することではなく、感情がなぜ生じているのかを理解すること。

自分を責め続けることではなく、自分の活動能力を増大させる方向へ考えること。

そして、

自分が勝手に作り上げた「人生についての物語」を、ときどき疑ってみること。

『エチカ』第五部を読み終えて、今の私が考えているのは、そんなことだった。

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