『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』をスピノザの『エチカ』から読む

スピノザ
当サイトはアフィリエイト広告を利用しています
  1. ――コナトゥス、欲望、受動感情、そして「誰が悪いのか」という問い
    1. 1.まず物語を因果関係として並べてみる
    2. 2.『エチカ』第三部定理6――すべての存在は「生きよう」とする
    3. 3.第三部定理7――コナトゥスは、そのものの現実的本質である
    4. 4.第三部定理9――コナトゥスは「欲望」になる
    5. 5.「善い欲望」と「悪い欲望」を分けるだけでは足りない
    6. 6.受動感情――ヒトハを動かしていたもの
    7. 7.「フタバを救う」という善い欲望が、なぜ暴力になるのか
    8. 8.ここで「善悪」より「力能」が重要になる
    9. 9.セイレーンもまた「悪」ではなく、喪失に反応している
    10. 10.「理解する」と「許す」は違う
    11. 11.そしてフタバもまた欲望する
    12. 12.「愛」が必ずしも能動的とは限らない
    13. 13.『エチカ』第四部――人間の隷属
    14. 14.第四部定理35――理性は「ともに生きる」方向へ向かう
    15. 15.島二郎という存在
    16. 16.ラップ、カレー、ちいかわ――「一人ではできないこと」
    17. 17.では、なぜヒトハとフタバは「共同」できなかったのか
    18. 18.ここで「善」の意味が変わる
    19. 19.ちいかわの「沈黙」はどう考えるべきか
    20. 20.ちいかわは「道徳的正義」より「関係」を選んだのか
    21. 21.『エチカ』第五部定理3――理解することで受動感情は変わる
    22. 22.セイレーンが理解できれば、物語は変わる
    23. 23.ヒトハとフタバについても同じことが言える
    24. 24.「永遠の命」が幸福とは限らない
    25. 25.永遠に生きることと、自由に生きることは違う
    26. 26.エンドロール後のセイレーン
    27. 27.だから「罰」は問題を解決しない
    28. 28.では、この物語の倫理的な出口はどこにあるのか
    29. 29.そして、ちいかわたちは別の関係を作る
    30. 30.「共同体」は自己犠牲ではない
    31. 31.「誰が悪い?」という問いを超えて
    32. 32.『ちいかわ』は「倫理」をかなり物理的に描いている
    33. 33.コナトゥスから自由へ
      1. 第三部
      2. 第四部
      3. 第五部
    34. 34.結論――「生きたい」という同じ欲望が、二つの倫理を生む
  2. おわりに――「願いが叶うこと」よりも「ともに存在できること」

――コナトゥス、欲望、受動感情、そして「誰が悪いのか」という問い

※以下、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』の結末まで完全にネタバレしています。


『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観た。

ただ単純に「悪者を倒す話」ではないことはすぐにわかるだろう。

ではこの映画をどう解釈すればいいのだろう。

島民をさらうセイレーン。

人魚を殺して食べたヒトハとフタバ。

そして、その真実を知りながら最後まで誰にも告げなかったちいかわ。

しかし、物語を最後まで見ると、「では誰が悪いのか」という問いが妙に不安定になる。

セイレーンは、人魚を失ったことによって島民を襲っていた。

ヒトハとフタバは、フタバが瀕死になったことをきっかけに、人魚を殺して食べた。

そして、ちいかわは二人の秘密に気づきながら、その事実を誰にも話さず、赤い鱗を海へ返して島を去る。

誰か一人を「悪」としてしまえば簡単なのだが、そうすると何か腑に落ちない。

むしろここで重要なのは、

ある存在の欲望や苦しみが、別の存在の欲望や苦しみを生み、それがさらに別の行為を引き起こしていく。

という因果関係なのではないだろうか。

この構造を考えるために、スピノザの『エチカ』を使ってみたい。

スピノザの倫理学は、「誰が善人で誰が悪人なのか」を最初から決める倫理学ではない。

彼が問うのは、

なぜ、その存在はそのように行為するのか。

ということだからである。

そして、その問いを『人魚の島のひみつ』に適用すると、物語全体が「善悪」の物語から、「欲望と力能の物語」へと姿を変えていく。


1.まず物語を因果関係として並べてみる

映画の出来事を、人物の善悪ではなく、因果関係として並べてみよう。

  • セイレーンと人魚たちが海で遊んでいる。
  • そこへヒトハとフタバが舟でやって来る。
  • セイレーンによって(事故ではあるが)フタバが瀕死の状態になる。
  • ヒトハはフタバを救おうとする。
  • そこで、人魚の肉を食べれば永遠の命を得られるという知識が利用される。
  • ヒトハは人魚を殺し、その肉をフタバに食べさせる。
  • フタバは助かる。
  • そして今度はフタバが、ヒトハにも人魚の肉を食べさせる。
  • 二人はともに永遠の命を得る。
  • しかし、人魚を失ったセイレーンは怒り、島民をさらい始める。
  • ちいかわたちは島民を助けるため、セイレーンと戦う。
  • 島二郎の協力を得て、激辛カレーによってセイレーンの歌を封じ、どうにか追い払う。
  • ところが、その後に真相が明らかになる。
  • 人魚を食べたのは、島民としてちいかわたちに親切にしていたヒトハとフタバだった。
  • そして、ちいかわはその事実に気づく。
  • それでも告発しない。
  • 赤い鱗を海へ返す。
  • ヒトハとフタバは別の島へ移っていく。
  • しかしエンドロール後、セイレーンが海を進んでいく姿が映される。
  • 映画そのものでは二人のその後を最後まで描かず、不穏な余韻を残して終わる。

この流れを図にすると、

事故

フタバの瀕死

ヒトハの恐怖・焦り

人魚を殺す

フタバを救う

二人が永遠の命を得る

セイレーンの喪失

セイレーンの怒り

島民への暴力

ちいかわたちの討伐

真相の発覚

ちいかわの沈黙

となる。

つまり、この映画の恐ろしさは、「悪が突然現れること」ではない。

一つの行為が、別の行為の原因になることにある。

ここからスピノザが登場する。


2.『エチカ』第三部定理6――すべての存在は「生きよう」とする

スピノザの倫理学を読むうえで、まず押さえておきたいのがコナトゥスである。

『エチカ』第三部定理6。

Unaquæque res, quantum in se est, in suo esse perseverare conatur.

「おのおのの事物はできるかぎりそれ自身としてあり続けようと努める。」

ここでいう conatur が「努める」、perseverare が「持続する」。

これがいわゆるコナトゥス(conatus)である。

コナトゥスとは、単純に「生存本能」という意味ではない。

もっと根本的に、

そのものが、そのものとして存在し続けようとする力

である。

だから、セイレーンにもコナトゥスがある。

人魚にもある。

ヒトハにもフタバにもある。

もちろん、ちいかわにもある。

ここで重要なのは、コナトゥス自体には善悪がないということだ。

フタバが瀕死になったとき、ヒトハがフタバを助けようとする。

これはまさに、自分たちの存在を維持しようとする力として理解できる。

フタバを失いたくない。

自分も失いたくない。

その意味では、ヒトハとフタバの行動の出発点を「悪意」とする必要はない。

むしろ、

生きたい。

大切な相手に生きていてほしい。

という、極めて根源的なコナトゥスから始まっている。

ここがこの映画の倫理を難しくしている。


3.第三部定理7――コナトゥスは、そのものの現実的本質である

さらに第三部定理7では、

Conatus, quo unaquæque res in suo esse perseverare conatur, nihil est præter ipsius rei actualem essentiam.

と述べられる。

「おのおのの事物がそれ自身としてあり続けようとする努力は、その事物の現実的な本質にほかならない。」

つまり、コナトゥスは、その存在の「外側」に付け加えられた欲求ではない。

存在することそのものが、持続しようとすることなのである。

そう考えると、ヒトハの行為を単純に「人魚を殺した悪人」として切り取ることができなくなる。

ヒトハは人魚を殺すこと自体を目的としていたわけではない。

フタバを救いたかった。

そのために人魚を殺した。

ここでは、

フタバを救いたい

というコナトゥスが、

人魚を殺す

という行為を媒介にして現れている。

しかし、ここから悲劇が始まる。


4.第三部定理9――コナトゥスは「欲望」になる

第三部定理9でスピノザは、コナトゥスと欲求を結びつける。

そしてその備考で、

Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus, qui proinde nihil aliud est quam ipsa hominis essentia ex cujus natura ea quæ ipsius conservationi inserviunt, necessario sequuntur atque adeo homo ad eadem agendum determinatus est. 

と述べる。

「この努力(コナトゥス)は精神のみに関係づけられるときは「意志」と呼ばれ、精神と身体とに同時に関係づけられるときは「欲求」と呼ばれる。それゆえ欲求は人間の本質そのもの、すなわちその本性からそれ自身の維持に役立 つ一切が必然的に出てくる人間の本質そのものにほかならず、したがって人間はそうした一切をなすよう決定されているのである。」

人間が何かを欲するということは、コナトゥスが具体的な方向を持ったということである。

さらに以下のように続く

Deinde inter appetitum et cupiditatem nulla est differentia nisi quod cupiditas ad homines plerumque referatur quatenus sui appetitus sunt conscii et propterea sic definiri potest nempe cupiditas est appetitus cum ejusdem conscientia. Constat itaque ex his omnibus nihil nos conari, velle, appetere neque cupere quia id bonum esse judicamus sed contra nos propterea aliquid bonum esse judicare quia id conamur, volumus, appetimus atque cupimus.

「次に欲求と欲望の違いは、欲望は人間が自分の欲求を意識する限りでたいていは人間に関係づけられるという点だけである。それゆえ『欲望とは、それ自身についての意識を伴う欲求のことである』と定義できる。これらすべてから明らかとなるように、われわれはそれがよいと判断するがゆえに努め、意志し、欲求し、欲するのではない。反対に、努め、意志し、欲求し、欲するがゆえにそれをよいと判断するのである。」

スピノザの定義する欲求と欲望の違いも一応挙げておいたが、ややこしいので以下では「欲望」とする。

ヒトハは、

「人魚を殺したい」

と思っていたわけではない。

そうではなく、

「フタバに生きていてほしい」

という欲望を持っていた。

ところが、その欲望を実現するための手段として、人魚を殺すことが選ばれる。

つまり、

目的としての欲望

フタバを救う

手段

人魚を殺す

という構造になる。

ここで倫理的な問題が発生する。


5.「善い欲望」と「悪い欲望」を分けるだけでは足りない

ここで普通の道徳なら、

フタバを助けたい

でも人魚を殺すのは悪い

だからヒトハが悪い

と整理できる。

もちろん、それは一つの倫理的判断として成立する。

しかし、スピノザなら、さらに一歩進む。

なぜ「フタバを救うためには人魚を殺すしかない」と思ったのか。

と問うだろう。

ここで重要になるのが、認識の問題である。

ヒトハの欲望そのものより、

その欲望を実現するために、どのような手段しか見えなくなっていたのか

が問題になる。

つまり、

欲望 × 認識

の問題である。


6.受動感情――ヒトハを動かしていたもの

スピノザにとって、人間が何かを激しく欲望していることと、その人間が自由に行為していることは同じではない。

むしろ、強烈な感情に支配されているとき、人間は受動的になる。

ここでヒトハに注目してみると

  • フタバが瀕死になる。
  • 恐怖。
  • 「このままではフタバが死ぬ」という切迫感。
  • 何としてでも助けなければならない。
  • 人魚を食べれば助かるという知識。
  • 人魚を殺す。

このときヒトハは、冷静にいくつもの可能性を比較検討しているわけではない。

彼女の認識可能な世界が、

「フタバを救うために人魚を殺す」

という一点に収縮している。

これこそ、受動感情の力である。


7.「フタバを救う」という善い欲望が、なぜ暴力になるのか

ここがこの映画の恐ろしいところである。

ヒトハの欲望自体は、非常に理解しやすい。

  • 友達を助けたい。
  • 死なせたくない。

これは一見すると「善い欲望」である。

しかし、スピノザ的に言えば、欲望の「内容」だけを見て善悪を判断することはできない。

重要なのは、その欲望がどのような原因と結びついて、どのような行為を生み出しているかである。

ヒトハの場合、

フタバを救いたい

という欲望が、

人魚を殺す

という行為を生み、

その結果、

セイレーンから人魚を奪う

ことになる。

そしてセイレーンのコナトゥス、欲望、喪失、怒りが新たな行為を生み出す。

つまり、一人の「生きたい」が、別の存在の「生きたい」と衝突している。


8.ここで「善悪」より「力能」が重要になる

スピノザの倫理学では、善と悪は絶対的な価値として存在するわけではない。

第四部定義1では、

Per bonum id omne intelligemus, quod certo scimus nobis esse utile.

「『よい』によって私は、自分に有益であるとわれわれが確実に知っているもののことと解するであろう。」

と定義される。

ここでいう「有益」は、単なる便利さではない。

自分の存在能力を増大させるものという方向で考えることができる。

すると、人魚を殺すという行為はどうなるだろう。

短期的にはフタバの存在能力を回復させる。

しかし同時に、

  • 人魚を殺す
  • セイレーンから大切な存在を奪う
  • セイレーンの活動能力を暴力的な方向へ向ける
  • 島民を危険にさらす
  • ちいかわたちを戦闘へ巻き込む

という結果を生む。

つまり、

局所的には一つの存在の力能を増大させる行為が、より大きな関係の中では複数の存在の力能を減少させることがある。

これが、この映画の倫理を考えるうえでかなり重要なポイントになる。


9.セイレーンもまた「悪」ではなく、喪失に反応している

ここでセイレーンに注目してみる。

セイレーンは人魚を失う。

そして、その犯人を探して島民をさらう。

普通なら、

セイレーン=悪役

となる。

しかしスピノザ的には、ここでも原因をたどる。

セイレーンの行為の直前には、

喪失

がある。

その喪失によって悲しみが生じる。

そして悲しみが怒りへと変わる。

怒りによって、セイレーンは他者へ攻撃する。

セイレーンの行為は正当化されない。

しかし、

理解可能ではある。

ここがスピノザ的である。


10.「理解する」と「許す」は違う

ここは非常に重要なので分けておきたい。

スピノザ的にセイレーンを理解することは、

「セイレーンは悪くない」

と言うことではない。

そうではなく、

セイレーンの行為が、どのような原因から必然的に生じているのかを見る

ということである。

人魚を失った。

悲しんだ。

その悲しみが怒りへ変化した。

その怒りによって他者を攻撃した。

こうした因果関係を理解することによって、

「セイレーンは怪物だから怖い」

という認識から離れることができる。

セイレーンもまた、

他者から影響を受け、感情を生じ、その感情によって行為する存在

なのである。

つまり、セイレーンも自然の外側にいる怪物ではない。


11.そしてフタバもまた欲望する

ヒトハが人魚を殺してフタバに食べさせる。

するとフタバは生き返る。

ここでフタバにも、次の欲望が生まれる。

孤独になる未来をなんとか避けたいという欲望である。

ヒトハにも食べさせたい。

なぜなら、自分だけが永遠の命を持つことは、いつか他の島の住人やヒトハとの関係が終わりを迎え、孤独になる未来が想像されるからだ。

そこに欲望の連鎖が生まれる。

フタバは自分のコナトゥスだけでなく、

ヒトハとの関係そのものを維持しようとしている。

とも読める。

つまり、

私が生きたい

だけではなく、

私たちが一緒に生きたい

という欲望になっている。

この点では、フタバの行為は単純な自己保存を超えている。

しかし、そのためにヒトハもまた人魚を食べる。

そこには、

他者との関係を維持するために、その他者をさえ道連れ(犠牲)にする。

というフタバの欲望まで絡んでくる。

ここには、スピノザ的な倫理の難しさが凝縮されている。


12.「愛」が必ずしも能動的とは限らない

ここで一つ重要なことがある。

ヒトハとフタバの関係を「友情」や「愛」と呼ぶことはできる。

しかし、

愛しているから、その行為は善い

とは限らない。

スピノザにとって、愛もまた感情である。

そして感情には能動的なものもあれば、受動的なものもある。

つまり、

愛していることそのものが、自由を意味するわけではない。

むしろ、

「この人を失いたくない」

という強烈な感情によって、他の可能性が見えなくなることもある。

そう考えると、ヒトハとフタバの関係は非常に複雑である。

二人は互いを大切にしている。

しかし、その大切にしたいという感情が、人魚という第三者への暴力を生み出してしまった。

ここには、

愛と暴力が同じ欲望の中から生まれる

という逆説がある。そこがおもしろい。


13.『エチカ』第四部――人間の隷属

ここで映画の構造は、第三部から第四部へ移っていく。

第三部では、

なぜ人間はそのように欲望するのか。

という問題が中心になる。

第四部では、

なぜ人間は、自分の欲望によって自分自身を支配されるのか。

という問題になる。

ヒトハもフタバも、セイレーンも、強烈な欲望によって行為している。

しかし、その欲望が他の可能性を見えなくしている。

ここに「隷属」がある。

隷属とは、何もできないことではない。

むしろ、

自分が激しく活動しているのに、その活動を決定している原因を十分に理解していないこと

である。

セイレーンは島民をさらう。

ヒトハとフタバは逃げる。

ちいかわたちは戦う。

みんな激しく動いている。

しかし、だれもその動きの原因を理解していない。


14.第四部定理35――理性は「ともに生きる」方向へ向かう

ここで重要なのが第四部定理35。

Quatenus homines ex ductu rationis vivunt, eatenus tantum natura semper necessario conveniunt.

「人間たちは理性の導きから生きるただその限りで、本性において常に必然的に、一致する。」

これは、「人間は本来みんな仲良し」という意味ではない。

むしろ、感情に振り回されている限り、人間同士は簡単に対立する。

セイレーンは島民を襲う。

ヒトハとフタバは人魚を犠牲にする。

島民はセイレーンを恐れる。

それぞれが自分の存在を守ろうとしているのに、そのコナトゥス同士が衝突する。

しかし、理性によって「何が本当に自分にとって有用なのか」を理解すると、他者との協力が可能になる。

なぜなら、

他者の力能を増大させることが、自分自身の力能を増大させる場合がある

からである。


15.島二郎という存在

ここで島二郎が非常に面白い。

島二郎は、単純に「強い味方キャラ」として見ることもできる。

しかしスピノザ的に見ると、彼は共同による力能の増大を象徴する存在として読める。

ちいかわたちはセイレーンに単独では対抗できない。

ラッコでも苦戦する。

しかし、島二郎が加わることで状況が変わる。

そして最終的には、激辛カレーという、複数の存在の能力と知識が組み合わされ戦いに利用される。

ここで起きているのは、

「強い者が弱い者を助ける」

だけではない。

異なる能力が結合することで、新しい力が生まれている。

スピノザの言葉で言えば、複数の身体が一定の関係を保ちながら結合することで、一つのより大きな個体として機能する、という発想に近い。


16.ラップ、カレー、ちいかわ――「一人ではできないこと」

セイレーンとの最終決戦では、ちいかわたちだけではなく、うさぎのラップや島二郎のカレーなど、複数の存在の能力が組み合わされる。

そして、セイレーンの歌を封じることに成功する。

ここに、

個体の力能を単純に足し算するのではなく、関係そのものが新しい力能を生み出す

という構造がある。

これはスピノザ的な「共同」のかなり面白い具体例だと思う。

「みんなで頑張ったから勝てた」という道徳的な話ではない。

もっと物理的である。

Aの能力とBの能力とCの能力が、適切な関係に置かれることで、それぞれ単独では存在しなかった行為能力が成立する。

これがスピノザ的な共同性のネットワークである。


17.では、なぜヒトハとフタバは「共同」できなかったのか

ここでヒトハとフタバとの対比が出てくる。

二人も強く結びついている。

しかし、その関係は人魚の力能を奪うことによって成立した。

つまり、

二人の力能の増大

第三者の力能の破壊

がセットになっている。

ここがちいかわたちとの決定的な違いである。

ちいかわたちは、

自分たちの力能が増大する

他者の力能も増大する

という方向へ進む。

ヒトハとフタバの場合、

自分たちの力能が増大する

他者の力能が破壊される

という構造になっている。


18.ここで「善」の意味が変わる

この違いから、スピノザ的な善をもう一度考えることができる。

善とは、

「道徳的にきれいな行為」

ではない。

むしろ、

存在するものの活動能力を増大させるもの

として考えられる。

すると、倫理的な問いは、

「人魚を殺すことは悪いか?」

というだけではなく、

「その行為によって、どのような存在の力能が増大し、どのような存在の力能が減少したのか?」

となる。

ヒトハとフタバにとっては、フタバが生き返る。

二人が永遠の命を得る。

しかし、その代わりに人魚が死ぬ。

セイレーンが苦しむ。

島民が襲われる。

ちいかわたちが危険にさらされる。

一つの力能の増大が、巨大な力能の減少を生んでいる。

だから、それはスピノザ的な意味で「本当に有用なもの」と言えるのか、という問題になる。

だが、ちいかわたちがセイレーンをラップやカレー作戦で追い払ったことは、最終的には人魚を食べた真犯人をセイレーンに知らせることにもつながり、そこからエンドロール後の、セイレーンがヒトハとフタバを追って海を進んでいく姿につながることを考えると、ヒトハとフタバにとってはちいかわたちの行動が力能の減少につながったとも言える。


19.ちいかわの「沈黙」はどう考えるべきか

そして、この映画で最も面白い倫理的選択が、実は最後のちいかわなのではないかと思う。

ちいかわは、ヒトハとフタバの秘密に気づく。

しかし、告発しない。

二人を追及しない。

赤い鱗を海へ返す。

そして島を去る。

これは一見すると、

「ちいかわは優しい」

で終わる。

しかしスピノザ的には、もっと複雑だ。

ちいかわは、真実を知っている。

しかし、その真実を誰かに伝えることで何が起きるのかまでは確定していない。

ヒトハとフタバが罰せられる。

セイレーンがさらに怒る。

新しい暴力が生じる。

あるいは、二人が別の場所で生き続ける。

どの選択が最も多くの存在の力能を増大させるのか。

それは簡単には分からない。


20.ちいかわは「道徳的正義」より「関係」を選んだのか

ここは解釈の分かれるところかもしれない。

ちいかわは、

「悪いことをした人間は罰せられるべきだ」

という道徳的原則を選択しなかった。

むしろ、

これ以上、この関係の中に暴力を増やさない

という方向へ進んだようにも見える。

もちろん、これはちいかわの内面が明示されているわけではないので、あくまで解釈である。

しかし赤い鱗を海へ返すという行為は象徴的だ。

人魚の死によって生じたものを、

これ以上、自分たちの側に所有し続けない。

そういう行為としても読める。

しかし、人として倫理的な選択とはこのようなものだと定義することができるのだろうか。

つまり、単純に『どの選択が最も多くの存在の力能を増大させるのかのみによって行動を決定することが最も倫理的に正しい態度である』とは言い切れないものがあるのではないか。


21.『エチカ』第五部定理3――理解することで受動感情は変わる

ここから第五部へ進む。

スピノザの第五部定理3には、非常に重要な一文がある。

Affectus, qui passio est, desinit esse passio, simulac ejus claram et distinctam formamus ideam.

「受動としての感情は、われわれがそれについて明晰判明な観念を形成すると同時に受動であることをやめる。」

ここにはスピノザ倫理学の核心がある。

感情を「抑え込む」のではない。

感情を「悪いもの」として排除するのでもない。

理解する。

なぜ私は怒っているのか。

なぜ私は恐れているのか。

なぜ私はこの人を憎んでいるのか。

なぜ私はこの対象を欲望しているのか。

その原因を理解する。

すると、感情はそのままでも、その感情との関係が変わる。


22.セイレーンが理解できれば、物語は変わる

セイレーンが、

「人魚を奪った奴らを苦しめたい」

と思っているとする。

その欲望をただ抑えるのではなく、

「私はなぜこんなに怒っているのか」

を理解する。

そこには、

「人魚を失った」

という喪失がある。

さらに、

「私は人魚を守れなかった」

という感情があるかもしれない。

さらに、

「失ったものを取り戻したい」

というコナトゥスがある。

そうやって原因をたどっていけば、

「島民を苦しめること」そのものが、本当に自分の望んでいたことなのか

という問いが生じる。

ここに受動から能動への転換の可能性がある。


23.ヒトハとフタバについても同じことが言える

ヒトハとフタバも、

「永遠に生きたい」

という欲望だけを考えていたのではない。

その根底には、

「フタバを失いたくない」

「ヒトハと離れたくない」

「二人で生きたい」

という欲望がある。

しかし、その欲望の実現方法が、人魚を殺すことだった。

もし二人が自分たちの欲望の構造を理解できていたら、

「私たちは本当に永遠に生きたいのか?」

「それとも、ただ互いを失いたくないだけなのか?」

という区別が可能になったかもしれない。

これはかなり重要な問いである。


24.「永遠の命」が幸福とは限らない

そして、この映画における「永遠の命」は、スピノザから読むと非常に興味深い。

普通なら、

永遠に生きられる
=最高の幸福

と考えそうになる。

しかしスピノザは、「長く存在すること」と「より完全に存在すること」を同一視しない。

存在の時間的な長さが、そのまま力能の大きさを意味するわけではない。

もし永遠の命を持っていても、

  • 恐怖に支配されている
  • 他者から逃げ続ける
  • 自分の過去を隠し続ける
  • 他者の復讐を恐れる
  • 他者を犠牲にしなければ生きられない

という状態なら、それは本当に「より大きな存在」なのだろうか。

ここに、この映画の「永遠の命」の皮肉がある。


25.永遠に生きることと、自由に生きることは違う

これはスピノザの「自由」とも接続できる。

自由とは、単に長く生きることではない。

また、好きなことを何でもできることでもない。

自分がなぜそう欲望し、なぜそう行為するのかを理解し、自分自身の本性から能動的に行為すること。

そう考えると、

人魚を食べて永遠の命を得る

という出来事は、

生命の時間的な延長

ではあっても、

自由の獲得

ではない。

むしろ二人は、永遠の命を得た後も、過去の行為から逃れることができない。

そして最後には、セイレーンの影が追ってくる。

永遠に生きることと、過去から自由になることは別なのである。


26.エンドロール後のセイレーン

そして映画の最後。

ヒトハとフタバは別の島へ行く。

一見すると、新しい生活が始まる。

ところがエンドロール後、セイレーンが海を進む姿が映る。

映画は二人が実際に捕まるところまでは描かないが、「逃げ切った」とも断言できない終わり方になっている。

このラストをスピノザ的に見ると、非常に象徴的だと思う。

なぜなら、

過去の原因から逃げるだけでは、その原因から自由になったことにはならない

からである。

場所を変えても、身体が永遠の命を持っていても、原因の連鎖そのものからは逃れられない。

二人が別の島へ移動したことは、

地理的な逃走

ではある。

しかし、

倫理的な自由

とは違う。


27.だから「罰」は問題を解決しない

ここまで来ると、セイレーンが二人を追うことについても考え直せる。

二人が罰を受ければ、すべて解決するのだろうか。

スピノザ的には、そう簡単ではない。

セイレーンが二人を罰したとしても、

人魚が戻ってくるわけではない。

セイレーンの喪失が消えるわけでもない。

島民が受けた恐怖が消えるわけでもない。

二人がなぜ人魚を殺したのかという原因も変わらない。

つまり、

復讐は原因を消去しない。

むしろ新たな悲しみと憎しみを生み出す可能性がある。

ここに、スピノザが受動感情の連鎖を問題にする理由がある。


28.では、この物語の倫理的な出口はどこにあるのか

スピノザ的に言えば、出口は「誰かを罰すること」だけではない。

必要なのは、

それぞれの存在を、その行為を生じさせた原因の中で理解すること

である。

ヒトハの恐怖。

フタバの死への恐怖。

セイレーンの喪失。

島民の恐怖。

ちいかわたちの友情。

それぞれの欲望。

それぞれのコナトゥス。

それぞれの力能。

これらを一つの因果関係として見る。

すると、

「悪い奴がいた」

という物語ではなく、

「複数の存在が、それぞれ自分の存在を維持しようとする中で、互いの力能を奪い合う関係が形成されてしまった」

という物語になる。


29.そして、ちいかわたちは別の関係を作る

ここで、ちいかわたちの存在が効いてくる。

ちいかわたちは、誰かを犠牲にして自分たちだけを救おうとするのではない。

もちろん、彼らも恐怖する。

でも、仲間を助ける。

島二郎と協力する。

ラッコと協力する。

うさぎの力を利用する。

それぞれの能力を組み合わせる。

つまり、

他者の力能を奪うことで自分を強くするのではなく、他者の力能と自分の力能を結合することで、ともに強くなる。

この違いが重要である。


30.「共同体」は自己犠牲ではない

ここでスピノザの共同性について、もう一度見てみよう。

他者とともに生きるというと、

「自分を犠牲にして他人を助ける」

という道徳を想像しやすい。

しかし、スピノザではそうではない。

本当に自分にとって有用な他者とは、

自分の活動能力を増大させてくれる他者

である。

そして自分もまた、

相手の活動能力を増大させる存在

になる。

だから理想的な共同体では、

私が強くなる

あなたも強くなる

あなたが強くなる

私もさらに強くなる

という循環が成立する。

これが、ちいかわたちの関係である。

そしてこのような関係性は「相互理解」なしにはありえない。


31.「誰が悪い?」という問いを超えて

結局、この映画を観た後に残る問いは、

「ヒトハとフタバが悪いのか?」

「セイレーンが悪いのか?」

「ちいかわが告発しなかったのは悪いのか?」

ではないのかもしれない。

むしろ、

「どうして、それぞれの存在が、自分を守ろうとすることによって他者を傷つける関係に入ってしまったのか?」

という問いのほうが重要だと思う。

  • なぜそういうルートに入ってしまったのか?
  • そこにはだれのどのような欲望が作用しているのか?

物事を「俯瞰してみる」と言って仕舞えばそれまでだが、そういうことだと思う。

普段の生活で意識できると私が思うのは

  • 自分自身についても他者に対するのと同じように観察者に徹する。
  • 鳥になったつもりで常に自分自身を上空から見下ろしてメタ的に観察・分析しているようなイメージを持つ。

ということを心がけたい。

スピノザなら、

「誰が悪い?」

と問う前に、

「何が何を原因として生じたのか?」

と問うだろう。

そして、

「その関係を変えるには、何を理解すればよいのか?」

と続ける。

『理解することで物事は変わっていく』と言う発想自体が大切なんだと思う。


32.『ちいかわ』は「倫理」をかなり物理的に描いている

ここまで考えると、『人魚の島のひみつ』における倫理は、かなりスピノザ的な意味で「物理的」だと思う。

善悪という観念を上から独善的に与えるのではない。

存在するものが、

  • 何を欲望するか
  • 何を恐れるか
  • 何と結びつくか
  • 何と衝突するか
  • その結果としてどの程度の力能を持つか

を見る。

だから倫理とは、

「こうしなければならない」という命令

ではなく、

「どうすれば、われわれはより多く存在できるのか」という問い

になる。

だからこそ安直な答えがなくて難しいとも言える。


33.コナトゥスから自由へ

この映画を『エチカ』の流れに沿ってまとめるなら、こうなる。

第三部

コナトゥス

「私は存在し続けたい。」

欲望

「これを手に入れたい。」

受動感情

「これがなければ生きられない。」

行為

「だから他者を犠牲にしてでも手に入れる。」

第四部

隷属

「私は自分の欲望に動かされている。」

理性

「しかし、この行為は本当に私の力能を増大させているのか?」

共同

「他者と結びつくことで、もっと大きな力能を持てるのではないか。」

第五部

理解

「私はなぜ、このように欲望していたのか。」

能動性

「その原因を理解し、自分自身の本性から行為する。」

自由

「私は、自分の欲望に振り回されるのではなく、自分の力能をより大きく発揮できる。」

こうして見ると、『人魚の島のひみつ』は、まるで小さな寓話として、

『エチカ』第三部から第五部までの問題を一つの物語に圧縮している

ようにも見える。


34.結論――「生きたい」という同じ欲望が、二つの倫理を生む

最後に、この映画で最も重要なのは、

ヒトハとフタバも、セイレーンも、ちいかわたちも、根本的には「生きたい」としている

ということではないだろうか。

ヒトハはフタバを生かしたい。

フタバはヒトハと生きたい。

セイレーンは人魚を失いたくない。

ちいかわたちは仲間を助けたい。

誰も、

「私は悪いことをしてやろう」

というところから出発していない。

それぞれが、自分にとって大切なものを維持しようとしている。

しかし、その「生きたい」が他者の「生きたい」と衝突する。

そのとき、

他者を破壊することで自分を維持するのか。

それとも、他者との関係そのものを組み替えることで、ともに力能を増大させるのか。

という二つの道が現れる。

ヒトハとフタバは前者へ進んだ。

セイレーンもまた、喪失の後に前者へ進んだ。

ちいかわたちは後者へ進んだ。

だから、この映画における「善」と「悪」は、人物の内面に最初から刻み込まれているものではない。

むしろ、

どのような関係を形成しているか

の中に現れる。

そして、これこそスピノザの倫理学からこの映画を見るときに、最も面白いところだと感じた。


おわりに――「願いが叶うこと」よりも「ともに存在できること」

映画を観終わったあとに残るのは、「人魚を食べて永遠の命を得た二人は、その後どうなるのか」という不穏さだけではない。

もっと根本的な問いが残る。

永遠に生きることは、本当に「生きること」なのか。

自分の欲望を満たすために他者を犠牲にして、その結果として長く存在できたとして、それを「幸福」と呼べるのか。

スピノザなら、おそらく「存在している時間の長さ」だけでは答えない。

重要なのは、

どれだけ自分の力能を発揮できるのか。

そして、

他者との関係によって、その力能をどれだけ増大させられるのか。

ということだからである。

そう考えると、ちいかわたちの「弱さ」は、実は重要な意味を持っている。

彼らは一人では弱い。

だから他者を必要とする。

他者を必要とするから、他者と結びつく。

そして、結びつくことによって、一人ではできなかったことができるようになる。

弱さが共同を生み、共同が力能を増大させる。

これはスピノザの倫理学から見ると、決して単なる「友情の美談」ではない。

そこには、

人間は他者なしには自らの力能を十分に発揮できない

という、かなり厳密な存在論がある。

だから『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、「悪い怪物を退治する話」として終わらせるより、

「自分が生きようとすること」と「他者もまた生きようとすること」を、どうすれば両立できるのか

という倫理の物語として読むほうが、ずっと深くなる。

そしてその問いに対して、スピノザが与える答えは、おそらくこうだ。

他者を支配することによって強くなるのではなく、他者との適切な結合によって、自分と他者の力能をともに増大させること。

それが、受動から能動へ、隷属から自由へ向かう一つの道なのだろう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました