『理解する』だけでは足りない――『エチカ』第五部定理10から考える生活信条

スピノザ
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前回の記事で、私はスピノザ『エチカ』第五部を読み直したことをきっかけに、自分自身の生き方について考えた。

そのとき私が特に強く感じたのは、「理解する」ということの大切さだった。

  • 自分はいま何を感じているのか。
  • なぜ、そう感じているのか。
  • 自分に何が起こっているのか。
  • そして、自分はその出来事にどんな意味を付け加えているのか。

そうしたことを理解していくことで、受動的な感情に振り回される状態から少しずつ抜け出し、自分の活動能力を増大させていく。

それがスピノザの倫理学の重要な部分なのではないか、と考えた。

そして前回の記事では、そこから「スピノザの肯定性は、単なるポジティブシンキングではない」ということも書いた。

嫌な出来事があったら、無理やり「これは良いことだ」と思い込めばいいわけではない。

現実を都合よく解釈し直せばいいわけでもない。

むしろ、現実をそのまま見て、その原因や必然性を理解することが大切なのだ、と。

ところが、前回の記事を書いたあと、私は『エチカ』第五部の定理10をもう一度読み返してみた。

すると、そこには少し違った問題が書かれていることに気づいた。

スピノザは、単に「理解しなさい」と言っているわけではない。

むしろ、「自分の感情について完全な認識を持たないあいだ、われわれにできる最善のこと」として、

「正しい生き方ないし一定の生活信条」を考えてそれを日常生活の中で繰り返し適用すること

を勧めている。

「ただ理解すること」と「正しい生き方ないし一定の生活信条を日常生活の中で繰り返し適用する」こと、両者の間には矛盾というか隔たりがあるように思った。

前回の記事で紹介した、沖正弘さんの言葉は大学時代からずっと常に心のどこかにひっかかってきた私にとって大切な言葉である。

それについてもう一度考えてみたので共有してみようと思う。


「理解する」だけでは足りない

第五部定理10の備考には、非常に興味深いことが書かれている。

スピノザは、自分の感情について完全な認識を持たないときには、

「正しい生き方ないし一定の生活信条を考えて記憶にゆだね」

それを、

「生の途上でたびたび遭遇する個々の具体的な事物に絶えず適用」

するように言っている。

前回の記事では、私は「理解する」ということをかなり強調した。

しかし、考えてみれば、人間はいつでも理解できるわけではない。

  • 怒っているとき。
  • 不安なとき。
  • 悲しいとき。
  • 何かに強く執着しているとき。

そういうときには、そもそも物事を冷静に理解するための知性そのものが十分に働かなくなっている。

だからこそ、「理解しろ」と言われても、それだけではどうにもならない。

スピノザもそのことを分かっていたのではないか。

だから、

理解できないときのために、あらかじめ「生活信条」を持っておく。

そして、それを繰り返し使う。

その結果、自分の思惟や表象のあり方そのものを変えていく。

そう考えると、「生活信条」というものが急に重要なものに思えてきた。


私には、すでに一つの言葉があった

そして、そのとき思い出したのが、前回の記事でも紹介した沖正弘さんの言葉だった。

私は大学時代に沖正弘さんの本を読んで、その中の一節をジャーナリングのノートに書き写していた。

当時はから今までこの言葉は私の中で大切なものであり続けた。

今まさに『エチカ』を読んでいる自分があらためて読み返してみると、そこには妙に強く響くものがあった。

それは、次の言葉である。

人間的な当たり前の心とは、どんな環境や立場に置かれても、朗らかにしていられることだ。そうできる知恵を持った心なのだ。

嫌な時に嫌な顔をし、恐ろしい時に不安な状態になり、腹の立った時に怒るのは動物にもできることだ。

しかし、困った時にも笑っていたり、嫌なことにも平気でいたり、自分にひどい仕打ちをした人でも愛する心を持つには修行をしなくてはならない。

人間心とは、そういう練習を通じて身につけるものなんだ。

一切を笑いと喜びと感謝とで受け取る知恵のことを信仰というのだ。

どんなこともどんなものも拒まない。なるようになって結構と任せきる感謝心で生きる。現実をそのままに見て、それを喜ぶことだよ。

第一は、とにかく笑い、とにかく感謝すること。

第二は、自己流の解釈を捨てること。

ただ無条件に、どんなことでも喜びなさい。

これを第五部定理10でいわれる生活信条として採用することができるのではないか。

そう思った。



「人間的な当たり前の心とは、どんな環境や立場に置かれても、朗らかにしていられることだ。そうできる知恵を持った心なのだ。」

まず、

人間的な当たり前の心とは、どんな環境や立場に置かれても、朗らかにしていられることだ。そうできる知恵を持った心なのだ。

という言葉。

単純である。

だからこそ難しい。

嫌なことがあったときに、朗らかにしている。

何かが思い通りにならないときにも朗らかに。

これを生活信条として持ってみる。

例えば、朝起きたとき。

何か嫌なことが起きたとき。

仕事や勉強が思い通りに進まないとき。

誰かの言葉に腹が立ったとき。

身体の調子が悪いとき。

そういう具体的な場面で、

この言葉を思い出してみる。

そして以下の一節はその根拠となる部分である。

嫌な時に嫌な顔をし、恐ろしい時に不安な状態になり、腹の立った時に怒るのは動物にもできることだ。

しかし、困った時にも笑っていたり、嫌なことにも平気でいたり、自分にひどい仕打ちをした人でも愛する心を持つには修行をしなくてはならない。

人間心とは、そういう練習を通じて身につけるものなんだ。

この生活信条をあらかじめ記憶にゆだねておき、具体的な出来事に遭遇したときに、それを適用する。



「ただ無条件に、どんなことでも喜びなさい」

そして、最後の言葉。

ただ無条件に、どんなことでも喜びなさい。

かなり強い。

そして、かなり無茶にも聞こえる。

  • 嫌なことがあった。
  • 悲しいことが起きた。
  • 腹の立つことがあった。

それでも「喜びなさい」と言う。

普通に考えれば、

「そんなことできるわけがない」

と思ってしまう。

しかし、本当にそうだろうか。

これまでの自分を思い返すと、全てその逆をしてきたように思う。

つまり、すべての物事を悲観的に見ようと思えば際限なくどこまでもどんな些細な出来事にも「悲しむ」ことができる。

私は極端にしか生きられない。

ある立場を取ったらその反対の立場を同時に取ることができない。

それならば全てを悲観する代わりに、

すべてをただ喜べばいいのではないか。

そして、全てを喜びで解釈する仕方がまさに「エチカ」そのものではないのだろうか。

これは言いすぎだろうか。

少なくとも私は言いすぎではないと思う。


「喜ぶ」と「ポジティブに考える」は違う

ここで、前回の記事とのつながりが出てくる。

私は前回、

「嫌な出来事も全部ポジティブに考えればいい、という話ではない。」

と書いた。

今回も、その考え自体を撤回するつもりはない。物事の因果性や必然性への理解は不可欠であると思っている。

しかし、第五部定理10を読んでみると、スピノザは確かに、

「それぞれの事物のよい点に注目し」

そして、

「常に喜びの感情から活動へと決定されるよう心がけておく」

ように言っている。

スピノザは、単純なポジティブシンキングを説いているわけではない。

しかし、だからといって、

「現実を冷静に理解するだけでよい」

というわけでもない。

むしろスピノザは、理解できない状態にある自分を前提として、そのときにどう生きるかまで考えている。

そのために「生活信条」が必要になる。

そしてその生活信条とは、

「常に喜びの感情から活動するよう心がける」

という方向を持っている。

そう考えると、沖正弘さんの、

「とにかく笑い、とにかく感謝すること。」

「自己流の解釈を捨てること。」

「ただ無条件に、どんなことでも喜びなさい。」

という言葉たちにもスピノザ哲学との親和性を見出してみてもいいのではないかと、私は思う。


この言葉をしばらく実践してみよう

これらの言葉を実際に、自分の生活信条にしてみようと思う。

  • 何か嫌なことが起きたとき。
  • 腹の立つことがあったとき。
  • 不安になったとき。
  • 思い通りにならないことがあったとき。
  • あるいは、自分自身について否定的な考えが浮かんできたとき。

そのときに、できるだけこれらの言葉を思い出す。

もちろん、毎回うまくはできないだろう。

怒ることもあるだろう。

落ち込むこともあるだろう。

自分のことを嫌になることもあるだろう。

それでもいい。

大切なのは、完璧に実践することではなく、その言葉を思い出すことを繰り返すことなのではないかと思う。

スピノザ自身も第五部定理10で、生活信条を「生の途上でたびたび遭遇する個々の具体的な事物に絶えず適用」するように言っている。

つまり、一回理解して終わりではない。

何度も使う。

何度も思い出す。

何度も失敗する。

そしてまた思い出す。

そうやって、少しずつ自分の思惟や表象のあり方を変えていくイメージを持っている。

普段『エチカ』を読むときは、どうしても「この命題は何を意味しているのか」「このラテン語はどう訳すべきなのか」「前の定理とどうつながっているのか」ということに集中してしまう。

それはもちろん必要なことだ。

しかし、スピノザの『エチカ』という本は、そういう研究だけで終わらせてしまうには、あまりにも実践的な本なのではないかと思う。

哲学を実際に生きてみるとは、こういう小さな実験をしてみることなのかもしれない。


おわりに――『エチカ』を読むことから、『エチカ』を生きることへ

前回の記事では、私は「理解する」ということについて考えた。

自分の感情を理解する。

自分の置かれている状況を理解する。

自分が出来事に付け加えている解釈を理解する。

そして、そこから少しずつ受動的な状態から抜け出していく。

今回、第五部定理10を読み直して、私はそこにもう一つのものが必要なのだと気づいた。

それが、生活信条である。

私たちはいつでも理解できるわけではない。

だからこそ、理解できないときにも、自分をよりよい方向へ向けるための言葉をあらかじめ持っておく。

そして、それを何度も思い出し、具体的な生活の中で使う。

その意味で、沖正弘さんの言葉は、これまでもこれからも私にとって大切な生活信条であった。

これはあくまで、私がスピノザを読んだ結果として、自分自身のために選んだ生活信条である。

『エチカ』を読むことから、『エチカ』を生きることへ。

その小さな一歩になればいい。

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