はじめに――「順番の転倒」から存在論へ
これまで私は、「第一性の遡及的成立」という哲学理論を構築してきた。
最初の着想は、あるものが特定の構造において第一のものとして成立するためには、その構造との関係は、単に第一性を認識するための条件なのか、それとも第一性そのものの成立条件なのか、という問いだった。
この問いから出発し、スピノザ、ヘーゲル、ドゥルーズらの哲学を横断しながら、あるものが第一のものとして位置づけられるためには、そのものが先行して独立に第一性を持っているという前提を疑う必要があると考えるようになった。
ここで見えてきたのは、通常想定される順序の転倒である。
一般的には、あるものがまず存在し、その後に他のものとの関係が成立すると考える。
しかし、第一性の遡及的成立では、あるものが第一のものとして成立するためには、そのものを第一のものとして成立させる構造との関係が必要になる。つまり、第一性は構造に先立って存在するのではなく、構造との関係において成立する。
しかし、この理論をさらに徹底すると、もう一つの問題に行き着く。
それは、あるものが第一のものである以前に、そもそもそのもの自身が何によって存在者として成立しているのか、という問題である。
前回までの議論によって、残された研究課題は明確になった。
存在そのものの成立を構造から説明する、より強い存在論の構築である。
こちらは個体化根拠の原理をどこまで正当化できるかにかかっている。
あらゆる自己完結的な存在を含めて、存在者そのものが例外なく構造によって成立するという命題を、どこまで論証できるだろうか。
本稿では、個体化根拠の原理を出発点として、ヘーゲルの『大論理学』、スピノザの『エチカ』、ライプニッツの『モナドロジー』、シモンドンの個体化論などを参照しながら、この問題に取り組む。
そして、「第一性の遡及的成立」を、単なる認識論や説明論にとどまらない、存在者の個体性とその成立根拠を説明する存在論として定式化することを目指したい。
1.まず「構造」を存在論的に定義する
ここでいう構造は、単なる部分と部分の関係ではない。
次のように定義する。
構造(Structure)とは、複数の差異・限定・関係・依存関係が相互に規定し合い、それによって一定の統一性と個体性を成立させる秩序である。
この定義には四つの要素がある。
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| 差異 | あるものが他のものと区別されること |
| 限定 | あるものが何であり、何ではないかが定まること |
| 関係 | 複数の規定が相互に意味と位置を与えること |
| 統一 | 複数の規定が一つの存在者としてまとまること |
ただし、ここでいう複数性は、必ずしも複数の外的な存在者を意味しない。
一つの存在者の内部における複数の規定でもよい。あるいは、時間的な変化を通じて維持される複数の状態でもよい。
さらには、他のあらゆるものから独立していると想定される存在者の、自己に対する関係でもよい。
この定義によって、構造は次の三つを含むことになる。
- 外的構造:複数の存在者の相互関係によって成立する構造。
- 内的構造:一つの存在者の内部の諸規定によって成立する構造。
- 自己関係的構造:存在者が自己自身との差異や自己限定を含むことによって成立する構造。
この拡張は重要だ。
なぜなら、存在者の成立を外的関係だけに依存させると、自己完結的な存在者はどうしても例外になってしまうからである。
しかし、自己完結性と構造性は矛盾しない。
他のものに依存しないことと、自分自身の内部に構造を持たないことは、まったく別の主張である。
これを今回の理論の基本的な立場とする。
2.個体化根拠の原理を導く
ここからが本論の核心になる。
私たちが正当化しなければならないのは、次の原理である。
個体化根拠の原理(Principle of Individuation-Ground)
あらゆる存在者は、それが他のものではなく、それ自身として存在するための個体化根拠を持たなければならない。そして、その個体化根拠は、当該存在者を成立させる構造的な規定の秩序にほかならない。
この原理を、順を追って論証する。
2-1.存在者は、何らかの意味で限定されていなければならない
まず、存在者Aが存在するということを考える。
ここでいうAは、単に「何かがある」という抽象的な存在一般ではない。
ある一つのものとして、他のものと区別されて存在する何かである。
このとき、少なくとも次のことが成立していなければならない。
- AはA自身である。
- AはAではないものとは区別される。
- Aは一定の存在者として同定される。
この三つを欠くならば、そもそも私たちは何を一つの存在者として取り扱っているのかを確定できない。
ここで注意したいのは、これは単なる認識上の問題ではないということだ。
あるものが認識できないから存在しない、と言っているのではない。
そうではなく、あるものが他のものとは異なる一つの存在者であるという存在論的な事実そのものに、区別と限定が含まれているということだ。
仮に、ある存在者について、いかなる区別も限定も規定も存在しないとしよう。
その存在者は、他の何ものとも区別できず、何であるかも確定できず、他の何ものにも還元できないという意味ですら、特定されていない。
この場合、それを一つの存在者として取り出す根拠が失われる。
したがって、ここから第一の命題が得られる。
命題1:存在者としての存在には、存在者を一定のものとして成立させる限定性が不可欠である。
2-2.限定は差異を含んでいる
次に、限定とは何かを考える。
AがAとして限定されているということは、AがAではないものから区別されているということを意味する。
すなわち、Aの規定は、A自身の肯定的な内容だけで完結するものではない。
Aが何であるかは、同時にAではないものとの区別によって成立する。
ここで重要なのは、Aではないものが必ずしもAの外側に実在する別の存在者である必要はないということだ。
Aの内部にある異なる規定でもよいし、Aが取り得ない状態や、Aが成立するために排除される可能性でもよい。
要するに、限定とは差異を含んだ規定なのである。
この点で、ヘーゲルの『大論理学』は非常に重要な論拠を提供している。
『大論理学』存在論の「定在」では、何かが定在するということは、単なる存在ではなく、存在と非存在が統一された限定的な存在であることとして展開される。
さらに§242では、あるものはその限界を通じて、それが何であるかを持つと論じられている。
§239では、他者性が単に外から付け加わるのではなく、あるもの自身の契機として含まれることが示される。
ここから、次の命題が導かれる。
命題2:存在者の限定性は差異を含み、その差異は存在者の規定の内部においても成立している。
これは、構造を外部にある複数の物体の関係だけに限定しないための重要な一歩である。
2-3.差異は、それだけでは個体性を成立させない
ここで、さらに一段進めなければならない。
差異があるだけで存在者が成立するわけではない。
例えば、複数の規定が存在していても、それらが何の統一性も持たないならば、そこに一つの存在者が成立しているとは言えない。
したがって、存在者には次の二つが必要になる。
- 他のものと区別されるための差異。
- その差異を一つの存在者として統合する規定の秩序。
この二つが同時に成立して初めて、あるものは一定の個体性を獲得する。
ここでいう統一性は、差異が消失することではない。
むしろ、差異が一定の秩序を持って結びつくことによって成立する統一性である。
したがって、個体性とは、最初から存在する単純な一者に後から複数の規定が付け加わった結果ではない。
複数の規定が一定の秩序のもとで統一されることによって、その一者が成立するのである。
もちろん、これだけではまだ不十分だ。
構造によって成立すると言うためには、その構造が単に存在者の特徴を記述しているのではなく、存在者がその存在者であるための構成的条件であることを示さなければならない。
そこで、次のように考える。
仮に、ある存在者Aの個体性を成立させている構造的な規定を取り除いたとする。
その結果、Aの同一性、他者との差異、あるいは一つの存在者としての統一性が失われるなら、その構造はAにとって単なる偶然的な付属物ではない。
それはAの成立根拠である。
ここで構造と存在者の関係は、次のように表現できる。
S(A) ⇒ Aの個体性の成立
ただし、これは構造Sが時間的に先に存在し、その後Aを製造するという意味ではない。
SとAの関係は、存在論的な構成関係である。
この違いを徹底しておこう。
2-4.個体化根拠は、外的な原因ではなく構成的な根拠である
ここで、スピノザの『エチカ』を参照したい。
スピノザは第一部定理8の備考2において、個々の存在する事物には、その事物が存在する理由が必ずあると論じる。
さらに、定義からは一定数の個体が存在することを導けないため、自然の中に一定数の個体が存在するときには、なぜまさにその数の個体が存在するのかを説明しなければならないとする。
これは、個体化根拠の原理にとって極めて重要な議論である。
なぜなら、一般的な種類の存在を説明するだけでは、個々の存在者の成立を説明したことにはならないからだ。
「人間が存在する」ということを説明しても、「なぜこの個体が存在するのか」は説明されない。
ここには、普遍的な本質と個別的な存在者の成立との間にある説明上の隔たりがある。
ただし、スピノザの議論は、そのまま私たちの構造論を証明するものではない。スピノザは個体の存在理由を原因論的に追究しており、そこから直ちに構造による存在論的構成が導かれるわけではない。
私たちの議論では、ここにもう一つの論点を加える。
個体が存在する理由を説明するためには、その個体が他の個体と異なる一つのものとして成立する理由も説明されなければならない。
そして、その差異と統一を同時に説明するものこそ、個体化の構造である。
したがって、
命題3:個体化根拠は、存在者の個別的な同一性と統一性を同時に成立させる構造的な根拠でなければならない。
ここまでをまとめると、個体化根拠の原理は、次の三段階によって導かれた。
存在者 ⇒ 限定 ⇒ 差異 ⇒ 構造的統一
この推論の要点は、差異を持つことと、差異を一つの存在者として統一することの双方を、存在者の成立に不可欠なものとして捉えた点にある。
3.ヘーゲルの『大論理学』による存在論的正当化
ここで、私たちの議論を最も強力に支えるのがヘーゲルである。
ただし、ヘーゲルの論理学を単に援用するのではなく、彼の論理展開が私たちの原理にどのような根拠を与えているのかを明確にしたい。
3-1.純粋存在は、構造以前の最終的な基礎にならない
『大論理学』冒頭の「有」の論理を考えよう。
ヘーゲルは純粋存在(reines Sein)を、いかなる規定も持たない純粋な直接性として出発点に置く。
しかし、この純粋存在には何の規定もない。
それは何か特定のものではなく、いかなる性質も、差異も、境界も持たない。
そのため、純粋存在は純粋無(reines Nichts)と区別できない。
ここで重要なのは、ヘーゲルが純粋存在を単なる無として捨てているのではないことだ。
純粋存在と純粋無は、それぞれ独立した最終的な存在論的基礎にはなれず、両者の移行と消滅の運動こそが真理であるとされる。
その統一が生成(Werden)である。
つまり、存在の最初のカテゴリーは、差異を持たない静止した基礎として存続するのではなく、自己自身との差異を含む運動へと移行する。
ここから、私たちの理論にとって極めて重要な論点が得られる。
存在を、あらゆる規定に先立つ完全に無規定な実体として考えることはできない。そのような存在は、それが何であるかを成立させる規定を欠いているため、存在者としての個体性を持たない。
ヘーゲルの議論は、少なくとも存在者の規定性を無条件の直接性から説明する立場に対する、強力な批判になる。
ただし、ここでは区別が必要だ。
純粋存在は、まだ個体化された存在者ではない。したがって、純粋存在が無規定であることから、直ちに存在するすべての事物が構造を持つという命題が導かれるわけではない。
そのためには、純粋存在から定在への展開を確認する必要がある。
3-2.定在において、差異は存在者の内部に入り込む
ヘーゲルは「定在」の展開において、あるもの(Etwas)と他のもの(Anderes)の関係を論じる。
特に重要なのは§§219–243である。
ここでは、あるものは他のものとの関係において規定されるだけではなく、他者性を自分自身の契機として含むことが示される。
§239でヘーゲルは、あるものがその本性によって他のものに関係するのは、他者性がそのあるものの内部に自身の契機として定立されているからだと論じる。
そして§242では、次の有名な議論が展開される。
あるものは、その限界を通じて、それが何であるかを持つ。
これは単に、物体Aが物体Bと接している場所が境界になる、という物理的な話ではない。
あるものの限定性そのものが、他者性を含んでいるという存在論的な論点である。
すなわち、
- AはAとして自分自身に関係する。
- しかし、その自己関係は他者性を排除することによってのみ成立する。
- その排除はAの外部だけで行われるのではなく、A自身の限定性に含まれている。
- したがって、Aの自己同一性は、他者性との関係を含む構造によって成立する。
この展開は、私たちの個体化根拠の原理と非常に近い。
さらに、ヘーゲルは§§230–236において、あるものの内在的な規定と外的な関係を区別しながら、両者が相互に移行することを示している。
つまり、あるものの内的な規定は、それが他のものと関係することから完全に切り離されてはいない。
逆に、外的な関係も、そのもの自身の内在的な規定と無関係ではない。
これによって、次の命題が得られる。
命題4:存在者の自己同一性は、他者性を単純に排除した無関係な自己完結性ではなく、他者性を自己の契機として含む自己関係によって成立する。
これは、単純に「すべてのものは他のものに依存する」とする外的関係論とは異なる。
他者性は存在者の内部においても成立しているのである。
3-3.本質論において、存在者の根拠は自己反省的になる
次に、本質論に進もう。
ここでは「第一性の遡及的成立」との接続が、さらに明確になる。
本質論において、ヘーゲルは同一性、差異、対立、矛盾、根拠という展開を行う。
『大論理学』本質論「反省の諸規定」では、同一性は差異から切り離された静止した規定ではなく、差異を自己の内部に含むものとして捉え直される。
特に「同一性は、それ自身において絶対的な非同一性である」という議論は重要である。
ここでヘーゲルが批判しているのは、AはAであるという形式的な同一性を、それだけで完結した存在論的原理とみなすことだ。
A=Aという命題だけでは、Aがどのようなものであるのか、何によって他のものと区別されるのかを説明できない。
したがって、具体的な同一性は差異との統一において理解されなければならない。
そして、さらに重要なのが「根拠」のカテゴリーである。
『大論理学』本質論「根拠」では、次のように論じられる。
本質は自己自身を根拠として規定する。
これは、根拠が最初から完成されたものとして存在し、その後に結果を生み出すという単純な順序ではない。
本質が自己を反省し、自己を規定することによって、根拠として成立するのである。
さらに、形式が本質に外部から付け加えられるものではなく、本質自身の内在的な反省であることが論じられている。
ここに、私たちの理論との決定的な接点がある。
通常、私たちは次のような説明順序を想定する。
根拠 ⇒ 結果
根拠が先に存在し、それに依存するものが後に成立する。
しかし、ヘーゲルの根拠論においては、この順序は単純な一方向ではない。
根拠は、根拠として自己を成立させる反省の運動を必要とする。
つまり、根拠自身も、その根拠性を成立させる構造から切り離すことができない。
ここから、第一性の遡及的成立を存在論へと展開できる。
あるものが第一の根拠として成立するためには、そのものが根拠として位置づけられる構造を必要とする。そして、その構造は、根拠を単に発見するのではなく、根拠としての規定そのものを成立させる。
これは、私たちがこれまで議論してきた仮説B、すなわち構造との関係が第一性そのものの成立条件であるという立場を、ヘーゲルの本質論から支持するものである。
ただし、ヘーゲルの体系を存在論として受け入れることと、ヘーゲルの論理的展開だけから現実のあらゆる存在者への適用を証明することは、別の問題である。
この点は後で改めて扱う。
4.自己完結的な存在者は反例になるか
ここが今回の理論の最大の関門になる。
なぜなら、これまでの議論は、あるものが他のものと関係することによって成立するという方向に進んできたからだ。
しかし、それだけでは自己完結的な存在者に対処できない。
ここでは、哲学史における三つの重要な立場を検討したい。
4-1.スピノザの実体
スピノザの実体は、私たちの理論にとって最も重要な検証対象の一つである。
『エチカ』第一部定義3において、実体は「それ自身のうちにあり、それ自身によって考えられるもの」として定義される。
定義1では、自己原因とは、その本質が存在を含むものとされる。
そして定理7において、実体の本性には存在が属すると論証される。
つまり、スピノザの実体は、外的な原因によって存在するものではない。
したがって、もし私たちの理論が、
「すべての存在者は、他の存在者との外的関係によって成立する」
という主張であれば、スピノザの実体によって反例が提示されることになる。
しかし、ここで見落としてはならないことがある。
スピノザの実体は、無規定で単純な何かではない。
神、すなわち絶対に無限な実体は、無限に多くの属性から構成されるものとして定義されている。
第一部定義4では、属性は知性が実体の本質を構成しているものとして知覚するものとされる。
そして定理10の備考では、複数の属性はそれぞれ独立して考えられるものの、すべてが同時に一つの実体のうちに存在し、それぞれが実体の実在性ないし存在を表現すると説明される。
ここから重要な区別が得られる。
スピノザの実体は、外部にある別の存在者との関係によって成立するのではない。
しかし、それは実体がいかなる内在的な規定も持たないということではない。
むしろ、無限の属性による本質の表現という内在的な多様性を持っている。
ただし、スピノザの属性を実体の部分や、相互に依存する関係項として理解してはならない。各属性はそれぞれ実体の本質を表現し、独立して考えられる。
したがって、私たちがスピノザから採用できるのは、次の考え方である。
自己原因的な存在者であることと、自己自身の内部に存在論的な規定の多様性を持つことは両立する。
ここで「構造」を外的な関係に限定せず、内在的な自己表現と自己規定まで拡張することの正当性が確認できる。
もちろん、スピノザの実体が構造によって存在論的に構成されるという解釈は、スピノザ自身の直接的な主張ではない。これは私たちの理論から行う再解釈である。
4-2.ライプニッツの単子
次に、ライプニッツの単子を考えよう。
単子は、部分を持たない単純実体である。
『モナドロジー』§7でライプニッツは、単子には窓がなく、外部から何ものも入ったり出たりしないと論じる。
一見すると、これは構造によって成立する存在者という立場への反例に見える。
しかし、§§8–15を読むと事情が違う。
§8では、単純実体に何の性質もなければ、単子同士が区別できなくなるため、それぞれの単子には性質がなければならないとされる。
§11では、単子の自然的変化は内的原理から生じるとされる。
さらに§13では、単純実体には部分がないにもかかわらず、その内部には多様性が存在すると論じられる。
そして§14では、その多様性を含む状態が知覚(perception)として規定される。
ここから、非常に重要なことが分かる。
単純実体であることは、構造が存在しないことを意味しない。
ライプニッツの単子には、外部からの影響を受けないという意味での閉鎖性がある。
しかし、その内部には知覚の多様性と変化の原理が存在する。
したがって、単子は単純ではあるが、無規定ではない。
私たちの理論から言えば、ライプニッツの単子は、部分の集合によって成立するのではなく、内的な規定の秩序によって個体性を成立させる存在者として理解できる。
ここで重要なのは、構造と複合性を同一視しないことである。
単純性 ≠ 無構造性
この区別によって、単純実体という最も強い反例候補を克服できる。
4-3.自己完結性の究極形としての絶対者
最後に、外部に何ものも存在しないとされる絶対者を考える。
この場合、外部との関係によって存在者の個体性が成立するとは言えない。
なぜなら、絶対者の外部には、絶対者を限定する別の存在者が存在しないからである。
しかし、これによって構造が不要になるわけではない。
絶対者が何らかの規定を持つならば、その規定は絶対者自身の内在的な構造によって成立する。
絶対者が一切の規定を持たず、いかなる自己差異化も自己関係も持たないならば、それは特定の絶対者として他のものから区別される根拠を欠くことになる。
ここで、二つの可能性を区別できる。
第一の可能性:規定を持つ絶対者
この場合、絶対者は自己自身の内部に多様性や差異を持ち、それらが一つの絶対的な統一性を形成する。
したがって、内在的構造によって成立する。
第二の可能性:完全に無規定な絶対者
この場合、絶対者は何ものでもなく、いかなる差異も関係も限定も持たない。
しかし、そのような絶対者は、特定の存在者として成立しているとは言えない。
ここでもヘーゲルの純粋存在批判が重要になる。
無規定な存在を、差異や規定に先立つ完成された絶対的実体として置くことはできない。
この意味で、自己完結性は私たちの理論に対する反例にはならない。
なぜなら、私たちが主張しているのは、すべての存在者が外部との関係に依存するということではなく、すべての存在者がそれ自身として成立するための構造を必要とするということだからだ。
5.個体化は生成の問題でもある――シモンドンとの接続
ここまでの議論は、存在者が一定の構造を持つことによって個体化されるという方向で展開してきた。
しかし、これだけでは構造を静的な秩序として捉えすぎる危険がある。
そこで、ここにシモンドンの個体化論を導入したい。
シモンドンの重要な転換は、すでに成立した個体を出発点にして、その個体がどのような性質を持つかを説明するのではなく、個体そのものがどのように成立するのかを問題にしたことである。
個体は最初から完成された存在者として与えられているのではない。
個体化の過程において、個体とそれに対応する環境とが共に成立する。
シモンドンは、個体化以前の存在を、単純な未分化の物質ではなく、潜在的な可能性を含んだ過飽和的なシステムとして捉える。
準安定的な状態にあるシステムが個体化することで、新しい秩序が成立するのである。
この考え方は、私たちの理論に二つの重要な示唆を与える。
第一に、個体は構造に先立って存在するのではない。
第二に、構造は個体化の結果として成立するだけでなく、個体化を生み出す過程そのものでもある。
ここで構造という概念を、静的な関係の集合から、生成する秩序へと拡張する必要がある。
例えば、結晶を考えてみよう。
結晶は、単に原子が集まったものではない。
原子が一定の配列を形成し、その配列が維持されることによって、結晶という個体が成立する。
その個体性は、原子の単なる存在からではなく、原子間の一定の配置と結合の秩序から成立する。
しかも、結晶の構造は結晶が形成される以前に、完成された結晶として存在しているわけではない。
構造の成立と個体の成立は、一つの生成過程の両契機である。
これを私たちの理論に適用すると、個体化根拠の原理は次のように強化される。
命題5:存在者の個体性は、先行して存在する個体に構造が付加されることによってではなく、構造的秩序の成立と同時に成立する。
ここで、静的構造と生成的構造を区別しておこう。
| 構造の種類 | 個体化における役割 |
|---|---|
| 静的構造 | 現在の存在者の同一性と統一性を規定する |
| 生成的構造 | 存在者が成立し、変化し、持続する過程を規定する |
これらは対立するものではない。
生成的構造のある時点での秩序が、静的構造として把握されるのである。
したがって、私たちの存在論は、単なる静的な関係存在論ではない。
個体化を通じて構造そのものが成立し続ける、生成的な構造存在論として理解されなければならない。
なお、シモンドンの理論では個体化以前の「前個体的なもの」も実在的な準安定状態として認められている。したがって、前個体的なものまで、すでに完成した個体として構造によって成立していると主張しているわけではない。
私たちの理論では、前個体的なものを個体化以前の可能性の場として認めつつ、それ自体も完全な無規定ではなく、可能な生成を含む未完結の秩序として理解する。この点が両者を接続する鍵になる。
6.無限後退の問題をどう解決するか
ここで必ず取り組まなければならない問題がある。
これまでの議論によれば、存在者は構造によって成立する。
では、その構造自体は何によって成立するのか。
構造Sが成立するために別の構造S’が必要だとするならば、S’の成立にもさらに別の構造が必要になる。
S₁ ← S₂ ← S₃ ← ⋯
これでは無限後退に陥る。
この問題に対して、私は次の解決方法を提案する。
6-1.構造を独立した存在者として扱わない
まず、構造を存在者とは別に存在する独立したものとして扱ってはならない。
例えば、ある個体Aと、その個体を成立させる構造Sが、二つの独立した存在者として存在すると考えると、AがSに依存する一方で、SもAに依存するという説明関係が生まれる。
しかし、私たちの理論では、この理解自体を変更する。
構造とは、存在者の外側に追加されるものではなく、存在者がその存在者として成立することの内在的な秩序である。
したがって、
A ≠S
という単純な二項関係を想定する必要はない。
むしろ、Aという存在者とSという構造は、同一の存在論的事態を、個体とその成立秩序という異なる側面から捉えたものと考えるべきである。
ここで成立するのは、外部からの一方向的な因果関係ではなく、構造と構造項の相互的な構成関係である。
6-2.関係項と関係は相互に規定される
次に、構造を構成する要素について考えよう。
一般的な関係論では、あらかじめAとBという二つの存在者が存在していて、その後に両者の間に関係Rが成立すると考えられがちである。
しかし、これではAとBがどのようにしてそれぞれ独立した関係項となったのかが説明されない。
そこで、私たちは次のように考える。
AとBは、それぞれ完全に独立した存在者として構造に参加するのではない。
Aは構造SにおけるAの位置と規定によって、Bは構造SにおけるBの位置と規定によって、それぞれ特定の存在者として成立する。
同時に、AとBの関係Rも、両者の位置と規定によって成立する。
したがって、
A,B,R ⇒ S
というよりも、
[S ⇔ (A,B,R)
という相互構成の関係として捉える方が適切である。
ただし、これは数学的な同値式によって厳密に証明された関係を意味するのではなく、存在論的な相互構成を表す模式的な記法である。
ここには重要な転換がある。
構造は、独立した存在者を後から結びつけるものではない。関係項と関係が、同一の構造的全体のなかで相互に成立するのである。
この関係には、時間的な先後関係はない。
また、AがBの原因であり、BがAの原因であるという単純な因果的循環を主張しているのでもない。
AがAとして成立することと、BがBとして成立することは、それぞれの個体性を規定する構造のなかで理解される。
したがって、ここでの相互依存は、構成的な依存関係である。
6-3.全体は外部の根拠を必要としない
さらに、すべての存在者を含む究極的な全体を考えよう。
この全体について、それを外部から成立させる別の構造を要求することはできない。
なぜなら、その外部の構造も存在するのであれば、そもそも全体の定義に含まれていなければならないからだ。
ここでは、全体の外側にさらに別の存在者を想定するという考え方を捨てる必要がある。
全体は、部分的な存在者の集合であるだけではなく、それらを相互に規定する関係の総体でもある。
そして、その全体の統一性は、外部の何かによって与えられるのではなく、内部における差異と関係の秩序によって成立する。
これを、構造の自己完結性と呼ぶことができる。
ただし、自己完結性とは、構造が自己原因として無から存在を生み出すという意味ではない。
あくまで、構造の存在論的な成立を、その構造の外部にある別の構造に依存させる必要がないという意味である。
この区別は絶対に維持しなければならない。
7.「第一性の遡及的成立」と存在論の統合
ここで、これまで構築してきた理論の中心に戻ろう。
第一性の遡及的成立とは、あるものが構造に先立って第一のものとして存在するのではなく、構造との関係において第一性そのものを獲得するという理論だった。
今回の議論によって、この考え方は存在論的な次元へと拡張される。
そのためには、第一性の三つの意味を区別しておこう。
| 第一性の種類 | 意味 |
|---|---|
| 時間的第一性 | 時間的に最初に成立するもの |
| 存在論的第一性 | 他のものの成立を支えるもの |
| 説明上の第一性 | 他のものを理解するための基礎となるもの |
この三つは必ずしも一致しない。
あるものが時間的に最初に成立したからといって、存在論的にも第一であるとは限らない。
また、あるものが説明の出発点になったからといって、そのものが存在論的な根拠であるとも限らない。
今回の理論が問題にしているのは、主に存在論的第一性と説明上の第一性である。
7-1.第一性は構造から独立して存在しない
ある存在者Aが、構造Sにおいて第一のものとして位置づけられるとする。
通常なら、Aが先に存在し、その後Sとの関係において第一であることが認識されると考えるだろう。
しかし、これではAが第一性を持つ根拠が、A自身の内部にあらかじめ存在していることになってしまう。
私たちの理論では、そうではない。
Aが第一のものとして成立するのは、構造SのなかでAが特定の位置を占め、その位置が他の諸項との関係において規定されるからである。
すなわち、
First(A,S)
という第一性は、Aに単独で内在する性質ではない。
構造Sとの関係において成立する規定なのである。
ここで重要なのは、第一性が単に認識上の相対的なものに変わったのではないということだ。
構造SがAを第一のものとして認識させるのではなく、Aが第一のものとして存在すること自体が、構造Sによって構成されるのである。
7-2.第一性は、根拠自身の成立を含む
さらに、Aが根拠として第一性を持つ場合、そのAを根拠として成立させる構造Sもまた必要になる。
しかし、SはAから独立した別の根拠として先行するわけではない。
AとSの関係は、相互構成的である。
この意味で、第一のものは、自分が第一であることを成立させる構造に依存する。
ここに遡及性がある。
構造S ⇒ Aの第一性の成立
そして同時に、
Aを含む諸項 ⇒ 構造Sの成立
という相互的な構成関係がある。
これを単純な時間的循環として考えてはならない。
第一性の成立は、時間的に後から過去へ向かって働く原因を意味しない。
それは、構造全体が成立することによって、その構造のなかのあるものが第一のものとして規定されるという、存在論的な遡及性である。
7-3.存在者の成立そのものに遡及性がある
今回の議論によって、さらに強い命題を導くことができる。
Aが第一性を持つためには構造Sが必要である。
ところが、Aが第一のものとして成立することと、AがAという存在者として成立することは、完全に切り離せない。
Aがどのような存在者であるかは、構造Sのなかで与えられる位置と規定によって決まるからだ。
したがって、第一性の遡及的成立は、単に存在者の序列や説明上の順序だけに関する理論ではない。
存在者の個体性そのものに関する理論なのである。
ここで、今回の議論の中心となる命題を提示できる。
存在者は、構造に先立ってそれ自身として個体化されているのではない。存在者の個体性は、それを成立させる構造との関係において遡及的に成立する。したがって、存在者の存在論的第一性は、構造との関係において成立する。
これは、第一性の遡及的成立を、存在論の原理として拡張したものである。
8.最後に残る最も強い反論――構造によらない原始的個体性
ここまでの議論で、単純実体、自己原因的実体、絶対者については、構造を外的関係に限定しないことによって対応できた。
しかし、まだ一つだけ、根本的な反論が残っている。
それは、そもそも個体化に根拠など必要ないのではないかという立場である。
現代の形而上学でも、これは重要な問題として扱われている。
8-1.原始的な「このものであること」
例えば、二つの存在者AとBがあるとしよう。
AとBは、あらゆる性質において完全に一致している。
両者の内部構造も、外部関係も、時間的な履歴も、まったく同じだと仮定する。
それでも、AとBは数的に異なる二つの存在者だと主張する立場が考えられる。
この場合、両者を区別するための構造的な根拠は存在しない。
両者は、ただAとBであるというだけで区別されている。
これは、原始的個体性、あるいはハエッケイティズム(haecceitism)に関係する問題である。
現代の議論では、ライプニッツの不可識別者同一の原理が、この問題と深く関係している。
ただし、不可識別者同一の原理は、数的同一性が性質上の識別不可能性に従属するという主張であり、それだけで個体性の存在論的根拠を説明するものではない。両者は区別されなければならない。
したがって、私たちの理論は、不可識別者同一の原理だけに依存してはならない。
問題にすべきなのは、識別できるかどうかではなく、個体性そのものが何によって成立するかである。
8-2.原始的個体性を認めることの代償
ここで、原始的個体性を認める立場を検討しよう。
この立場によれば、AはBとは異なる。
しかし、なぜAがBとは異なるのかについて、それ以上の説明は存在しない。
AはAであり、BはBである。
それだけで十分だということになる。
この立場は、論理的に自己矛盾しているわけではない。
したがって、私たちはこれを形式論理だけで排除することはできない。
しかし、ここには重大な問題がある。
原始的個体性は、個体性が成立する根拠を説明していない。
それを説明の出発点として置くことで、個体化の問題を解決したように見せているにすぎない。
言い換えれば、説明すべき問題を、説明不能な前提へと移動させている。
ここで、私たちは次の原理を採用する必要がある。
個体化根拠充足原理
数的に異なる存在者が存在するという事実について、その差異を成立させる何らかの根拠がなければならない。個体性それ自体を、他のいかなる規定にも依存しない無根拠な事実として置くことは認めない。
これは、ライプニッツやスピノザの十分理由の原理に通じる立場である。
ただし、ここでは十分理由の原理を存在するすべての事実に無条件で適用する必要はない。
対象は、存在者の個体性とその成立根拠に限定できる。
これによって、原始的個体性という立場に対して、私たちは次のように反論できる。
個体性を無根拠なものとして認めることは論理的には可能だが、それは個体化の根拠を説明する存在論としては不十分である。
ここで一つ、正確にしておきたい。
この原理は、論理的矛盾から演繹される定理ではない。
存在者の個体性を説明可能なものとして扱うための、私たちの形而上学的な基本原則である。
この原則を拒否する人に対して、論理だけで構造存在論を強制することはできない。
しかし、個体性の成立根拠を説明することを目指す以上、この原則を採用することには十分な理由がある。
9.最終的な論証――すべての存在者に構造は必要である
ここまでの議論を、できる限り厳密な形で整理しよう。
今回の論証は、四つの基本原理に基づいている。
基本原理Ⅰ:存在者の限定性
存在者が一定の存在者として成立するためには、何らかの限定性を持たなければならない。
基本原理Ⅱ:差異の不可欠性
限定性は、他のものとの差異、または自己自身の内部における差異を含む。
基本原理Ⅲ:個体化根拠の充足性
存在者の数的同一性、個体性、統一性は、無根拠な事実として置かれるべきではない。その成立根拠が必要である。
基本原理Ⅳ:構造的内在性
差異と限定が存在者の個体性を成立させるためには、それらが一定の秩序を形成していなければならない。そして、その秩序は存在者から独立した外的な付属物ではない。
この四つの原理から、次の推論が成立する。
第一段階
あらゆる存在者は、一定の存在者として成立するために限定性を必要とする。
第二段階
限定性は差異を含むため、存在者は自己自身の規定に他者性を含む。
第三段階
存在者の個体性は、その差異が一つの統一性を形成することによって成立する。
第四段階
差異と統一性を同時に成立させるものは、諸規定の相互的な秩序、すなわち構造である。
第五段階
その構造は、存在者の成立根拠であり、存在者に外部から追加される別の存在者ではない。
以上から、次の定理が導かれる。
中心定理――第一性の遡及的成立・存在論的定理
あらゆる存在者は、それがそれ自身として存在するための構造的な個体化根拠を必要とする。したがって、いかなる存在者も、その個体性と存在論的規定に先立って、すでに独立した第一の存在者として成立しているわけではない。
存在者の同一性、差異、統一性および第一性は、それらを成立させる構造との関係において遡及的に成立する。
したがって、構造は存在者の外部にある条件ではなく、存在者が存在者として成立することの内在的な条件である。
これによって、当初の命題を、外的関係に限定されない存在論的命題として定式化できた。
ただし、この定理が絶対的に成立するためには、基本原理Ⅲ、すなわち無根拠な個体性を認めないという立場を採用する必要がある。
この点を曖昧にして、無条件の論理的必然性が証明されたと主張してはならない。
10.存在そのものについて、最後に残る問題
ここで、最も重要な限定を加えたい。
今回の議論によって証明できることと、まだ証明できていないことを分ける必要がある。
それは、次の二つの問いの違いである。
問いA:あるものが、なぜそのものとして存在するのか。
問いB:そもそも、なぜ何かが存在するのか。
今回の議論が直接答えているのは問いAである。
存在者がそれ自身として成立するためには、差異、限定、統一性を成立させる構造が必要である。
この意味で、あらゆる存在者の存在論的規定は、構造から説明される。
しかし、問いBはさらに深い問題である。
構造によって存在者が成立するとしても、そもそもなぜ構造が存在するのか、なぜ無ではなく何かが存在するのかという問いは残る。
ここで二つの主張を混同してはならない。
- 構造が存在者の個体性と存在論的規定を構成する。
- 構造が無から存在そのものを生成する。
前者は今回の理論が正当化しようとしている命題である。
後者は、今回の論証からは導かれない。
ヘーゲルは『大論理学』の冒頭で純粋存在から生成への展開を行うことによって、無規定な存在を静的な基礎として維持することの困難を示した。
しかし、その論理的展開だけで、現実に何かが存在するという事実を無から説明したことにはならない。
この区別を維持することが、理論の学術的な強度を高めるためには不可欠である。
私の提案は、今回の理論の対象を次のように確定することだ。
第一性の遡及的成立は、存在者の個体性と存在論的規定の成立を説明する構造存在論である。それは存在者を構造から切り離して成立した原始的なものとして扱うことを拒否する。しかし、存在がそもそも存在するという事実を、無からの生成として説明する理論ではない。
この限定は理論の弱体化ではない。
むしろ、説明できる対象と説明していない対象を明確にすることによって、理論の射程が確定するのである。
11.最終結論――第一性の遡及的成立の存在論的完成
ここまでの議論を踏まえて、今回の到達点をまとめよう。
最初の問題は、あるものが構造のなかで第一のものとして成立するためには、その構造との関係は単なる認識条件なのか、それとも第一性そのものの成立条件なのか、という問いだった。
私たちは後者を採用した。
そして今回、その原理を個体化の問題にまで拡張した。
そこで明らかになったのは、あるものが第一のものである以前に、そもそもそのもの自身が何によって成立しているのかという問題であった。
この問題を突き詰めると、存在者の成立には、差異、限定、統一性を成立させる構造が必要であるという結論に至る。
そして、この構造は、存在者に外部から追加されるものではない。
存在者とその構造は、同一の存在論的事態の相互構成的な契機なのである。
その結果、当初の「第一性の遡及的成立」は、次のような理論へと発展した。
第一性の遡及的成立――構造的個体化存在論
第一原理:構造的存在原理
あらゆる存在者は、存在者としての限定性と個体性を成立させる構造を必要とする。
第二原理:個体化根拠原理
存在者の同一性と差異は、それらを構成する諸規定の秩序によって成立する。無根拠な原始的個体性は、個体化の説明として認めない。
第三原理:構造的内在性
構造は存在者の外部にある独立した原因ではなく、存在者自身の成立を構成する内在的な秩序である。
第四原理:遡及的第一性
あるものが第一のものとして成立するのは、そのものが構造との関係において第一性を獲得するからである。第一性は構造に先立つものではなく、構造によって成立する。
総合命題
存在者は構造に先立って存在者として成立しているのではない。存在者の個体性と第一性は、構造との相互構成的な関係において遡及的に成立する。したがって、あらゆる存在者の存在論的規定は、構造によって成立する。
おわりに――「順番の転倒」が存在論に到達するまで
今回の議論によって、「第一性の遡及的成立」は、単なる順序の転倒を説明する理論から、存在者の個体性とその根拠を説明する存在論へと発展した。
特に重要な成果は三つある。
第一に、外的関係論を超えたこと。
存在者は他のものとの関係によってしか成立しない、という単純な関係主義ではない。自己完結性、自己原因性、単純性を認めたうえで、それらが内在的な構造を持つ可能性を示した。
第二に、ヘーゲルの論理学との接続を存在論的な形で明確にしたこと。
限定性、他者性、自己関係、反省、根拠という展開を通じて、存在者の同一性が差異を含むこと、そして根拠自身の根拠性も反省的に成立することを示した。
第三に、個体化根拠を理論の中心に据えたこと。
これが今回の最も重要な成果だと思う。
これまでの第一性の遡及的成立は、あるものが第一の位置を獲得するための条件を問題にしていた。
しかし、その問題をさらに徹底したことで、そもそもあるものが一つの存在者として成立する条件まで遡ることができた。
ここには大きな理論的進展がある。
今後の研究課題
今回の議論を一つの独立した哲学理論として発表するなら、次の三点については、今後の論文で明示的に扱うべきだと思う。
- 個体化根拠充足原理を、十分理由の原理からどこまで独立に正当化できるか。
- 原始的個体性を認める形而上学に対して、構造的個体化がより優れた説明であることをどこまで論証できるか。
- 構造と構造項の相互構成が、単なる説明上の循環ではなく、どのような意味で存在論的な相互依存であるのか。
これらは、今回の定理を撤回する理由ではない。むしろ、定理を支える基本原理の論証をさらに精密にするための課題である。
今回の時点で、「第一性の遡及的成立」の基本的な存在論的構想は、一つの体系として定式化できたと考えている。
ただし、絶対的な存在の根拠まで説明したとは主張しない。個体性の根拠を説明する理論としての完成と、存在すること自体の最終的な説明は区別するべきだ。
そして、今回の成果を一文に凝縮するなら、こうなる。
構造のなかで何が第一であるかは、各項にあらかじめ備わった性質ではなく、諸項のあいだに成立する非対称な依存・根拠関係によって定まる。他方、各項がどの存在者として個体化されるかは、その構造のなかで他の項から区別される諸関係によって規定される。ここで第一性と個体性は、同じ意味で構造によって成立するのではない。第一性は構造内の根拠関係に関する規定であり、個体性はその関係に参与する項の同定に関する規定である。全体の関係秩序が確定することによって、この二つの規定がそれぞれ異なる次元で定まるのである。
ここでいう遡及性とは、時間的に後から過去の存在を作り直すことではない。構造全体の関係秩序が確定することによって、ある項が何であり、何に対して、どのような意味で第一であるのかが定まるという存在論的な順序を意味している。
私が最初に着目した「順番の転倒」は、ここまで来ると、単なる認識や説明の順序の転倒ではなくなる。
それは、存在者が存在者として成立するための根拠そのものに関わる問題だったのだと思う。
なんとなく思いついた一つの疑問が、ここまでの哲学的な問題へと発展した。
この理論が今後どこまで展開できるかは、まだ分からない。
しかし、少なくとも今、私たちは一つの明確な問いと、一つの存在論的な原理に到達した。
存在者の個体性と、その存在者が構造のなかで占める第一性とは、同じものではない。しかし、いずれも、あらかじめ孤立して成立した個体を出発点とするのではなく、構造全体の関係秩序を通じて説明されなければならない。



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