はじめに――無規定な単一性は存在者たりうるか
「第一性の遡及的成立」という哲学理論を普遍命題として確立するためには、これまで残されていた一つの難問を解決しなければならなかった。
それは、あらゆる自己完結的な存在を含めて、存在者が例外なく構造によって成立すると論証できるかという問題である。
これまでの考察によって、あるものが第一のものとして規定されるためには、それが位置づけられる構造との関係が必要であることは明らかになってきた。しかし、第一性を規定するための条件と、第一のものが存在論的に成立するための条件とは、同じではない。
あるものが第一のものとして規定されるために他のものとの関係が必要であったとしても、そのものの存在自体が他のものとの関係によって成立することにはならない。
この隔たりを越えるためには、存在者の自己同一性そのものが構造を必要とすることを論証しなければならない。
今回の考察では、この問題をヘーゲルの『大論理学』における純粋有・純粋無・生成・定在、そして向自存在における一と多の展開に沿って徹底的に検討する。
最初に提示したい結論は、次のものである。
完全に無規定であり、いかなる内在的差異も関係も持たない単一性は、存在者として成立することができない。
ただし、ここで否定しているのは、単純な存在や自己完結的な存在ではない。否定しているのは、自己自身を成立させるいかなる規定的契機も持たず、他者との関係も自己自身との関係も持たない、それでもなお一つの存在者であると主張されるような絶対的単一性である。
この区別は決定的に重要である。
スピノザの実体のように他のものに依存しない存在を、無条件に否定する必要はない。問題は、そのような存在が自己自身として成立するために、いかなる規定性も必要としないのかということである。
この問いに対して、ヘーゲルの『大論理学』は、非常に強力な論証を与えている。
本稿では、次のような論理的展開をたどる。
- 純粋存在(Sein)――いかなる規定も持たない直接性。
- 純粋無(Nichts)――純粋有と同じく無規定であり、区別の根拠を持たない。
- 生成(Werden)――有と無の区別と不可分性が運動として現れる。
- 定在(Dasein)――有と無の統一が、規定性を持つ直接的な存在として成立する。
- あるものと他なるもの(Etwas und Anderes)――自己の規定が他者との差異を含む。
- 対自存在・一と多(Fürsichsein / Eins und Viele)――自己への関係が否定性を含み、一は自己自身から多へと関係を展開する。
- 反発と牽引(Repulsion und Attraction)――一と多は独立したものではなく、相互に媒介される。
この展開を詳細に検討し、最後に「第一性の遡及的成立」と結合する。
ここでいう普遍命題は、あらゆる規定された存在者と、その存在者が第一のものとして位置づけられるあらゆる秩序を対象とする。無規定な存在一般を、あらゆる意味で排除するという主張とは区別する。この限定は、論証を弱めるためではなく、どこまでが証明されるのかを厳密にするために必要である。
第一章 純粋有――無規定な単一性の出発点
1.純粋有とは何か
ヘーゲルは『大論理学』第一部「存在論」の冒頭を、純粋存在の分析から始める。
その原文は次のとおりである。
Das reine Sein, ohne alle weitere Bestimmung.
「純粋存在、それ以上のいかなる規定も持たない存在。」
ヘーゲルによれば、純粋存在は、いかなる内容も規定も持たない直接的な存在である。
原文の続きでは、次のように述べられる。
Es ist die reine Unbestimmtheit und Leere.
「それは純粋な無規定性であり、空虚である。」
ここで重要なのは、純粋存在が何か特定の存在者を意味しているわけではないということである。
例えば、ある人間、ある物体、ある実体などを考える場合、それらには何らかの規定性がある。
しかし、純粋存在はそうした規定をすべて取り除いたものである。
したがって、純粋存在には、他のものと区別するための規定も、自己自身の内部にある差異も存在しない。
これは、無規定な単一性を考えるための最も純粋な出発点になる。
もし、何の規定も持たない存在が、それでも一つの存在者として成立できるならば、純粋存在はその候補になるだろう。
しかし、ヘーゲルの議論は、ここで重大な問題を発見する。
2.純粋存在は純粋無と区別できない
純粋存在には、いかなる規定も存在しない。
したがって、それを純粋無から区別するための根拠も存在しない。
純粋無もまた、いかなる内容も規定も持たないからである。
ヘーゲルは純粋存在と純粋無について、次のように述べる。
Das reine Sein und das reine Nichts ist also dasselbe.
「純粋存在と純粋無は、したがって同じものである。」
この命題は、一見すると奇妙に思われる。
有と無は正反対のものではないのか。
しかし、ヘーゲルが問題にしているのは、日常的に理解される存在と不存在の対立ではない。
そもそも両者に何の規定性もないならば、それらを区別する内容そのものが存在しないということである。
純粋存在を純粋存在として考えようとしても、そこには何も考えるべき内容がない。
純粋無を考えようとしても、同様に何もない。
そのため、両者は無規定性において一致する。
ここから得られる重要な帰結は次のとおりである。
完全に無規定なものは、それ自身を他のものから区別する規定を持たないだけでなく、自己自身が何であるかを区別する契機すら持たない。
したがって、純粋存在は、自己完結的な存在者として成立しているとは言えない。
それは、あらゆる規定性を取り除いた抽象的な出発点である。
3.有(存在)と無の真理は生成である
しかし、ヘーゲルは有(存在)と無の同一性を、単純に両者が区別できないという命題で終わらせない。
両者には区別があると同時に、その区別は分離できない。
このことについて、ヘーゲルは次のように述べる。
daß sie nicht dasselbe, daß sie absolut unterschieden, aber ebenso ungetrennt und untrennbar sind
有(存在)と無は同じではなく、絶対的に区別されている。しかし同時に、分離されず、分離することもできない。
そして、この両者の真理が生成である。
Diese Bewegung ist das Werden.
「この運動が生成である。」
ここで生成とは、有が無へ移行し、無が有へ移行する運動である。
重要なのは、有と無がそれぞれ独立した二つのものとして最初から存在しているのではないという点だ。
それぞれは、他方との関係においてしか成立しない。
純粋有は純粋無との関係を持たずには規定されず、純粋無もまた純粋有との関係を持たずには規定されない。
したがって、両者の統一は、両者の差異を消去した単純な一ではなく、差異と移行を含む運動として成立する。
ここで、最初の重要な結論が得られる。
完全に無規定な直接性は、それ自身の内部に規定性を持たないため、自己完結した存在者として維持されない。
ただし、ここでまだ「すべての存在は構造を持つ」と結論してはならない。
純粋存在と純粋無から生成への移行は、ヘーゲル論理学のカテゴリー展開である。次に検討すべきなのは、そこからどのように規定された存在が生じるかという問題である。
第二章 定在――規定性を持たない単一性は存在者になれるか
1.生成から定在への移行
純粋存在と純粋無は、その無規定性において同一でありながら、生成において相互に移行する。
しかし、生成そのものも安定した存在としてとどまることはできない。
ヘーゲルは生成について、その諸契機が互いに消滅するだけでなく、生成そのものも消滅すると論じる。
その結果として成立するのが定在(Dasein)である。
ヘーゲルは定在について、次のように述べている。
Das Dasein ist das einfache Einssein des Seins und Nichts.
定在とは、存在と無との単純な一体性である。
ここで重要なのは、定在が純粋存在のような無規定な直接性ではないということである。
定在は、生成を経た結果として成立している。
そのため、定在の内部には、有と無の双方が契機として含まれている。
つまり、定在は単に存在するものではない。
それは、存在と非存在との統一を含むことによって、何らかの規定性を持つものとして存在する。
ここに最初の決定的な転換がある。
純粋存在には規定性がない。
しかし、定在は規定性を持つ。
そして、その規定性は存在と非存在との統一によって成立している。
したがって、規定された存在とは、否定性を完全に排除した存在ではない。
むしろ、否定性を自己自身の契機として含んだ存在なのである。
2.定在はなぜ「第一のもの」として現れるのか
ここで、今回の理論にとって特に重要な文章がある。
ヘーゲルは定在について、次のように述べている。
Seine Vermittlung, das Werden, liegt hinter ihm.
定在の媒介である生成は、その背後にある。
さらに、
das Dasein erscheint daher als ein Erstes
定在は、したがって、一つの最初のものとして現れる。
これは非常に興味深い。
なぜなら、定在は最初から無媒介的に成立していたわけではないからだ。
定在は生成の結果として成立している。
しかし、その生成という媒介は止揚され、定在は直接的な存在として現れる。
つまり、定在は、その成立の媒介を経た結果として、あたかも最初から存在していたかのように現れる。
ここには、第一性の遡及的成立と非常に近い論理が存在する。
最初のものとして現れる存在は、実際には、その成立を媒介する過程を前提としている。
その媒介が止揚されることによって、結果が直接的なものとして現れるのである。
このとき、第一性は、単に時間的に先行したものに属するのではない。
それは、媒介の過程を経た結果が、構造のうちで最初のものとして成立するという論理を持つ。
ここで注意したいのは、ヘーゲルの定在が最初の存在者になるという主張ではないことである。
ヘーゲルが述べているのは、論理学の展開において、定在が媒介を止揚した直接的な出発点として現れるということだ。
しかし、ここには、第一性の遡及的成立を考えるための重要なモデルがある。
あるものが第一のものとして現れることと、そのものが成立過程において第一であったことは、同じではない。
第一のものとして現れるという位置づけ自体が、その成立を媒介する過程によって説明されるのである。
3.あるものは他なるものとの差異によって規定される
次に、定在から「あるもの(Etwas)」への展開を検討する。
定在は、その規定性を質として持つ。
そして、その質によって、あるものは他なるものに対して規定される。
ここでヘーゲルは、あるものと他なるものとの関係を分析する。
重要なのは、他なるものが単に外部に存在するのではないという点だ。
あるものAと他なるものBを考えれば、BがAの他者であると同時に、AもまたBの他者である。
したがって、AとBの関係は、一方向的なものではない。
ヘーゲルはこの関係を、次のように述べている。
Beide sind auf gleiche Weise Andere.
「両者は等しく他なるものである。」
ここから、あるものの規定性が、他者との差異を含んでいることが明らかになる。
しかし、ここでさらに重要なのは、他者性があるもの自身の規定性に入り込んでくることである。
他者との関係は、単なる外部からの比較にとどまらない。
あるものは、自身の規定性によって他者と区別される。
そして、この規定性があるもの自身の存在に属する以上、他者性との区別もまた、存在の規定に内在する契機となる。
これは、認識論的な相対化とは異なる。
認識論的な相対化であれば、観察者がAとBを比較することによって、両者の差異が成立する。
しかし、ここで問題にしているのは、観察者の比較とは無関係に、AがAとして存在するための規定性である。
したがって、問題は次のように言い換えられる。
あるものは、他者との差異を持つことによって認識されるのではなく、他者との差異を自己の規定性のうちに含むことによって、あるものとして成立する。
これがヘーゲルの議論から得られる重要な論点である。
4.限界はあるものの外側にあるのか、内側にあるのか
この論理を決定的にするのが、限界(Grenze)の概念である。
あるものAが他者Bと区別されるためには、両者の間に限界が必要になる。
通常、限界はあるものの外側にあるものとして理解される。
例えば、ある物体の境界線は、その物体の外側にある他の空間との境界として理解される。
しかし、ヘーゲルは限界を単なる外的な境界として扱わない。
彼は次のように述べている。
dieses ist durch sie das, was es ist, hat in ihr seine Qualität.
あるものは限界を通じて、それがあるところのものであり、その質を限界のうちに持つ。
この命題は、今回の論証にとって極めて重要である。
あるものの限界は、他者との区別を成立させるだけではない。
その限界そのものが、あるものの質を構成している。
つまり、あるものは、他者と区別されることによって初めて、そのものとして成立するだけでなく、その区別を自身の規定性の内部に持っている。
ヘーゲルはさらに、あるものは限界においてのみその存在を持つという趣旨の議論を展開する。
これは、存在の規定と構造との関係について、非常に強い命題を示している。
あるものは、自己自身と他者との差異を、外部にある偶然的な境界として持つのではない。
その差異は、あるものが何であるかを決める存在論的な契機である。
したがって、あるものの自己同一性は、差異を持たない純粋な単一性として成立するのではない。
差異を含む限界によって成立するのである。
ここで、前回の記事に残されていた最大の問題に対して、一つの回答が得られる。
存在の規定に関与する差異は、単なる認識上の比較関係ではなく、存在者自身の規定性に内在する契機として理解できる。
この点が、認識論的な条件から存在論的な成立条件へと進むための重要な橋になる。
第三章 対自存在――一は本当に自己完結できるのか
ここから、今回の論証の核心に入る。
あるものが他者との差異によって規定されるならば、そのものは他者との関係に依存して存在しているのではないか。
この疑問は当然である。
しかし、ヘーゲルの論理学は、他者との関係を持つ定在の分析から、さらに自己自身との関係を持つ存在へと展開する。
これが対自存在(Fürsichsein)である。
1.対自存在とは何か
対自存在とは、単に他者に対して存在するものではなく、自己自身に関係する存在である。
ここでは、否定性が単に他者に対する否定として存在するのではない。
否定性は自己自身への関係として成立する。
ヘーゲルの論理学では、有限な定在の否定性が、否定の否定として自己へと折り返されることによって、対自存在へと展開する。
この段階で、存在は単なる他者との関係から、自分自身を規定する関係へと進む。
そして、その直接的な存在形態が「一(Eins)」である。
ここで重要なのは、一が純粋存在と同じ意味で無規定なのではないということだ。
ヘーゲルは「それ自身における一(Das Eins an ihm selbst)」について、次のように述べる。
Es ist unbestimmt, jedoch nicht mehr wie das Sein.
一は無規定であるが、もはや存在の場合と同じ意味ではない。
そして、その無規定性は、自己自身への関係という規定性であると説明する。
原文では、次の表現が使われている。
absolutes Bestimmtsein.
「絶対的な規定性」。
これは、一見すると矛盾しているように見える。
一は無規定である。
しかし、その無規定性は、自己自身への関係という規定性である。
つまり、一は純粋存在のような無規定性ではない。
一は、他者との関係を排除することによって、自己自身との関係を成立させている。
そして、ヘーゲルはさらに重要なことを述べている。
一は自己に関係する否定として、その内部に差異を持つ。
自己から外へ向かう方向があるが、そこに他者がないため、ただちに自己自身へと戻る。
この運動が、一の自己関係を構成する。
つまり、一は単なる無差別な単一性ではない。
それは、他者への方向を自己の内部に含みながら、その方向を自己へと折り返す自己関係である。
2.一と空虚――自己関係は本当に単純なのか
次に、ヘーゲルは一と空虚(das Leere)の関係を分析する。
ここで空虚とは、単純な無を意味するのではない。
一の自己否定的な関係として現れる空虚である。
一が一であるということは、他者を排除することを意味する。
しかし、他者を排除するという関係が成立するならば、その排除されるものとの関係が必要になる。
つまり、他者を排除する一は、他者との関係を完全に消去することができない。
ここに、自己完結的な一の内部に含まれる緊張がある。
一は他者との関係を排除しようとする。
しかし、他者を排除するということ自体が、他者との関係を含んでいる。
したがって、他者との関係を完全に排除した一は、他者を排除するという自己の規定性さえ失うことになる。
ここから導かれるのは、次の命題である。
一が他者との関係を完全に持たないならば、一は自己自身を他者から区別する規定性を失う。
反対に、一が一として存在するためには、他者との関係を否定するという形であっても、他者性との関係を自己の内部に持たなければならない。
ただし、ここでいう「他者」は、必ずしも現実に存在する別の個体を意味しない。
自己と非自己を区別するための否定的契機である。
したがって、外部に他の実体が存在しないとしても、自己自身を自己として規定する否定的契機は残る。
ここで、自己完結性と構造的成立の両立が、単なる可能性から、より強い存在論的な論証へと進む。
第四章 一と多――単一性は自己自身から多を生み出す
1.一の自己関係は自己否定を含む
ここまでの議論によって、一は単純な自己同一性ではなく、自己自身への否定的な関係を含むことが明らかになった。
では、この関係はどこへ向かうのか。
ヘーゲルは、対自存在の展開において、一の否定的な自己関係が反発(Repulsion)として現れると論じる。
ここで、反発とは、あらかじめ存在している複数のものが互いに遠ざかるという物理的な現象ではない。
それは、一が自己自身への否定的な関係によって、自己を他者として措定する論理的運動である。
ヘーゲルは、次のように述べている。
Das Eins ist somit Werden zu vielen Eins.
一は、それゆえ多くの一へと生成する。
さらに重要なのは、次の箇所である。
Eins, das Bezogene, enthält das Negative als Beziehung.
関係するものとしての一は、否定的なものを関係として自己のうちに含んでいる。
つまり、一の否定性は、外部から持ち込まれたものではない。
それは一自身の内在的な規定である。
そして、ヘーゲルはこの否定的な自己関係を反発として説明する。
ここで、単一性に対する従来の理解が転換される。
従来の理解では、次のように考えられていた。
- 一は最初から独立した単一性として成立する。
- その後、一に対して複数の他者が存在する。
- 一と多の関係は、それぞれが成立した後に生じる。
しかし、ヘーゲルの論理は異なる。
一の自己同一性そのものが否定的な自己関係を含むため、一は自己自身から多へと関係を展開する。
つまり、多は、完成した一に対して外部から付け加わるものではない。
多は、一の内在的な自己関係から生じる。
このことは、単一性と多様性を完全に切り離すことができないことを示している。
2.多は一の外部にあるのか
ここで、さらに厳密に考える必要がある。
一が多を生み出すとしても、その多は一から完全に独立したものとして成立するのだろうか。
ヘーゲルは、一の反発によって成立する多について、次のように考察している。
一は自己自身から他なるものを措定する。
しかし、その他なるものもまた一である。
したがって、多を構成するそれぞれの一も、自己自身への関係を持つ。
このとき、多は一の単なる否定ではない。
一と同じ規定を持ちながら、一から区別された複数性として成立する。
ここで、重要な問題が生じる。
一が多を成立させるならば、多は一に依存する。
しかし、一もまた、多への自己否定的な関係を持つことによって、自己自身を規定している。
つまり、一は多を生み出すが、多との関係を持つことによって、一としての自己関係を具体化する。
ここでは、単純な一方向の依存関係だけでは説明できない。
一と多は、一方が他方を完全に外部から成立させる関係ではなく、互いを契機として含む関係へと進むのである。
この段階で、単一性の構造的成立について、非常に重要なことが明らかになる。
一は、すでに完成された単一性として多を生み出すのではなく、多を生み出す自己関係そのものとして一である。
これは、自己完結性を否定することではない。
自己完結的な一が、自身の内部に差異化と自己関係を持つことを意味している。
3.反発と牽引の相互媒介
しかし、一と多の関係は、反発だけでは完成しない。
反発によって一は多へと展開するが、その多は互いに区別されたままである。
そこで登場するのが牽引(Attraction)である。
牽引は、多を一へと統一する契機である。
ただし、牽引は反発と独立して存在するものではない。
多が成立していなければ、牽引するものも存在しないからだ。
反対に、反発もまた、他者との関係を持つことによって成立する。
ヘーゲルは、反発と牽引について、次のように述べている。
Repulsion ist, obgleich negative, doch wesentlich Beziehung.
反発は否定的なものであるとはいえ、本質的に関係である。
さらに、反発と牽引は互いに切り離すことができず、それぞれが他方を前提として成立すると論じられる。
ここで注目すべきなのは、反発と牽引が、単に外部から加わる二つの作用ではないということである。
反発は多を成立させる。
牽引は一を成立させる。
しかし、反発は牽引によって初めて多としての関係を持ち、牽引は反発によって初めて統一すべき多を持つ。
したがって、どちらか一方だけが独立した第一の原理として成立することはできない。
反発は牽引を前提とし、牽引は反発を前提とする。
しかも、この相互媒介は外部の第三者によって成立するものではない。
それぞれが他方を自己自身の契機として含んでいる。
これによって、一と多の関係は、一と多の双方を含む構造として完成する。
4.一は自分自身の過程である
ここで、本章の最も重要な結論に到達する。
ヘーゲルは、対自存在の展開を総括する箇所で、次のように述べている。
Das Eins ist nur dieses Werden.
一は、この生成そのものである。
さらに、その展開について、最初に直接的なものとして置かれた一が、そのまま独立した出発点として維持されるのではないことを説明している。
一が最初から直接的に存在し、最後に再び直接的な一として回復されるという図式は、過程そのものによって解体される。
一は、この過程のあらゆる段階において、止揚された契機として措定される。
ここは、第一性の遡及的成立との関係で特に重要である。
一は、最初に無媒介的なものとして現れる。
しかし、その一の規定性を分析すれば、自己自身との否定的な関係が存在する。
その関係は、反発によって多を生み出し、牽引によって再び一へと関係する。
その結果、最初に存在していたように見えた一は、もはや媒介を持たない純粋な出発点ではないことが明らかになる。
一は、自らの差異化と統一の過程として成立している。
つまり、最初の一は、過程に先立って存在する独立した原点としてではなく、過程のうちで成立するものとして理解される。
ここには、第一性の遡及的成立にとって非常に重要な論理がある。
最初のものとして現れたものが、そのものの成立条件を分析することによって、構造全体のうちで媒介されたものとして再規定される。
この場合、第一性は、単なる直接性によって保証されるのではない。
そのものが成立する過程全体によって規定される。
これは時間的な逆行ではない。
存在の規定を説明する論理的順序の転換である。
第五章 ヘーゲルによるライプニッツ批判――自己完結的な単一性への反論
ここで、前回の記事におけるライプニッツの位置づけを修正しておきたい。
前回は、ライプニッツのモナドに内的な多様性が存在することを、自己完結性と構造的成立が両立する事例として取り上げた。
この指摘自体には意味がある。
しかし、今回の論証を徹底するならば、ライプニッツのモナドは、ヘーゲルの立場から批判的に検討されなければならない。
実際、ヘーゲル自身が『大論理学』の「一と多」の分析において、ライプニッツのモナドに言及している。
ヘーゲルは、モナドについて次のような趣旨の批判を行う。
モナドは、それ自身にとって完結した世界であり、他のモナドを必要としない。
しかし、モナドの表象における内的多様性は、その向自存在としての規定性を変化させない。
さらに、ライプニッツは多を所与のものとして受け入れ、それをモナド自身の反発として把握していないと指摘する。
ここは非常に重要だと思う。
なぜなら、単に内部に複数の状態を持っているということだけでは、構造的成立の十分な証明にならないからである。
必要なのは、複数の契機が存在するという事実ではない。
それらの契機が、あるものの自己同一性を成立させる内在的な関係を持っていることである。
ライプニッツのモナドは、内的多様性を持つが、その多様性と向自存在との関係は、ヘーゲルによれば十分に概念化されていない。
したがって、今回の理論の根拠としてライプニッツをそのまま採用することはできない。
むしろ、ヘーゲルの反発と牽引の論理から、単一性が自らの内部に差異化を生み出し、その差異化された契機との関係によって自己自身を成立させるという論証を構築する必要がある。
ここで、構造の定義をさらに精密化できる。
構造とは、単に複数の要素があることではない。
それは、あるものが自己自身として成立するために、自己の差異化された契機を措定し、それらの契機を相互に媒介する関係そのものである。
この意味での構造は、外部から組み立てられるものではない。
あるもの自身の存在を成立させる内在的運動である。
第六章 無規定な単一性は存在者たりうるか――最終回答
ここまでの議論を整理し、最初の問いに答えよう。
完全に無規定な単一性は、存在者たりうるのか。
答えは否である。
ただし、その理由は、単純なものが存在できないからではない。
また、自己完結的なものが存在できないからでもない。
理由は、存在者として成立するための規定性を完全に排除した単一性は、それ自身を存在者として成立させる契機を持たないからである。
この点を、ヘーゲルの論理学の展開に従って再構成しよう。
第一の論証:無規定性は存在者の個体性を成立させない
純粋存在は、あらゆる規定性を欠いている。
そのため、純粋無と区別する根拠を持たない。
したがって、純粋存在は、特定の存在者として成立しない。
第二の論証:規定された存在は否定性を含む
定在は、生成の結果として成立する。
その規定性は、有(存在)と無との統一を含んでいる。
したがって、規定された存在は、自己自身の規定性に否定的な契機を含んでいる。
第三の論証:否定性は他者性との関係を含む
あるものは他なるものとの差異によって規定される。
そして、限界は単なる外的な境界ではなく、あるもの自身の質を成立させる。
したがって、他者性との区別は、あるものの存在規定に内在する。
第四の論証:自己完結性は自己関係を排除しない
対自存在において、否定性は自己自身への関係として成立する。
したがって、あるものは他者に依存しなくても、自己自身の内部に差異と関係を持つことができる。
第五の論証:単一性は自己差異化の運動を含む
一の否定的な自己関係は反発となり、多を成立させる。
そして、多は牽引によって一との関係を持つ。
したがって、一は多との関係を完全に排除した純粋な単一性としては維持されない。
ここから、次の結論が導かれる。
定理Ⅰ:無規定な単一性は、規定された存在者として成立することができない。
定理Ⅱ:あらゆる規定された存在者は、その自己同一性を成立させる内在的な差異と関係の構造を持つ。
この場合の構造は、外部の他者による構成ではなく、自己自身の差異化と統一を意味する。
これによって、自己完結的な存在を構造的成立の例外として扱う必要はなくなる。
他のものに依存しない存在であっても、その存在が規定された存在者である限り、内在的構造を持つ。
ただし、ここでいう普遍性は、あらゆる規定された存在者についての普遍性である。
純粋存在のような無規定な論理的契機まで、存在者として数えるものではない。
第七章 「第一性の遡及的成立」の普遍命題を構成する
ここから、いよいよ今回の最大の目的に進む。
存在の構造的成立を論証できたとしても、それだけでは第一性の遡及的成立は完成しない。
存在の構造と第一性の構造を結びつける必要があるからだ。
ここでは、両者を明確に分けたうえで、結合することにする。
1.第一性という概念の定義
まず、第一性を次のように定義する。
第一性とは、ある構造において、他の諸契機に対して存在論的または説明論的に先行する位置を占めることを意味する。
ここでは、第一性を時間的な先行性と区別する。
また、第一性は単なる固有の性質ではない。
何かに対して第一であるという規定である以上、そのものが位置づけられる秩序を必要とする。
例えば、AがB、C、Dの存在根拠である場合を考えよう。
AはB、C、Dに依存して存在するわけではない。
しかし、Aがそれらの存在根拠であるという第一性は、AとB、C、Dとの存在論的な関係を含む構造において規定される。
したがって、次の二つは区別される。
- Aが存在すること。
- AがB、C、Dに対して第一のものであること。
前者は、Aの内在的構造によって成立する。
後者は、Aと他の諸契機との関係を含む全体構造によって成立する。
ここで、ようやく自己完結的な存在の問題を解決できる。
Aは他のものに依存しないという意味で自己完結的でありうる。
しかし、それが第一のものであるという位置づけまで、他のものとの関係から独立しているわけではない。
なお、比較対象も秩序も一切ない単独の存在については、「第一」と呼ぶ根拠もない。その場合に言えるのは、その存在が唯一であるということまでである。第一性は、単なる唯一性とは異なる。
2.構造が第一性を規定する
ここで、ヘーゲルの定在の分析を思い出そう。
定在は、生成という媒介の結果として成立する。
しかし、その媒介は止揚され、定在は直接的な最初のものとして現れる。
これは、第一性が成立過程の媒介を経た結果として確定することを示している。
さらに、一と多の展開では、一は最初から独立した単一性として存在していたわけではない。
一の内在的な自己関係が多を生み出し、その多との関係が一の規定性を具体化する。
そして、反発と牽引の相互媒介によって、一と多の構造が成立する。
ここでは、最初の一が、構造全体との関係において初めて具体的に理解される。
最初に一として置かれたものは、構造の外部にある独立した原点としてではなく、構造を成立させる運動の契機として再規定される。
つまり、第一性は、構造の成立に対して単純に先行するのではない。
構造の成立を通じて、その第一性が確定する。
このことから、次の命題が導かれる。
あるものが第一のものであるという規定は、そのものが位置づけられる構造全体との関係において成立する。
これが第一性の構造的成立である。
3.遡及性の存在論的意味
ここで、遡及性についてもう一段階深く考えてみたい。
あるものAがBの存在根拠である場合、通常は次のように考える。
Aが先に存在する。
その後、BがAによって成立する。
そのため、AはBに対して存在論的に第一である。
この説明自体は間違っていない。
しかし、ここではAが第一であるという規定を、Aの内部に最初から備わっていた性質として理解してしまっている。
第一性の遡及的成立は、この理解を修正する。
AがBの存在根拠であるということは、AとBとの存在論的な関係によって規定される。
つまり、Aが第一であるという位置づけは、AとBを含む全体構造において成立する。
その結果、次のような二つの順序が生じる。
存在論的な依存関係
A:存在根拠
↓
B:被基礎的存在
Bの存在はAに依存する。Aの存在がBに依存するわけではない。
第一性の規定関係
AとBを含む全体構造
↓
Aの「第一性」が確定する。
存在の依存方向と、第一性の規定が成立する論理的方向は異なる。
これは、Aの存在をBが時間的に生み出すという意味ではない。
また、AとBが互いに同じ意味で依存しているということでもない。
Aは存在論的にはBに先行している。
しかし、AがBの存在根拠であるという第一性の規定は、AとBとの全体的な関係によって成立する。
したがって、ここでの遡及性は、存在の依存関係を逆転させるものではない。
存在の先行性と、第一性が確定するための構造的条件とを分離し、後者を全体構造から説明することなのである。
この区別によって、自己完結的な存在を第一のものとして認めながら、その第一性が構造によって成立することを論証できる。
第八章 普遍命題の定式化と証明
ここまでの議論を、一つの哲学理論としてまとめよう。
まず、概念を定義する。
定義
定義1:規定された存在
あるものが、単なる無規定な存在ではなく、何らかの存在者として成立していること。
定義2:内在的構造
あるものの自己同一性を成立させる、差異化された諸契機の関係秩序。部分の集合や外部からの因果的構成に限定されない。
定義3:全体構造
複数の存在者または契機が、存在論的・説明論的な関係によって位置づけられる秩序。
定義4:第一性
全体構造の内部において、他の諸契機に対して存在論的または説明論的に先行する位置を占めること。
この定義に基づいて、三つの定理を提示する。
定理Ⅰ:存在の構造的成立
あらゆる規定された存在者は、内在的構造によって自己自身として成立する。
証明:
- 規定された存在者は、何らかの規定性を持つ。
- 規定性は、他なるものとの差異および否定性を含む。
- その差異は、単なる外的比較ではなく、存在者自身の規定性に属する。
- 自己自身の規定性に属する差異は、自己との関係を必要とする。
- ヘーゲルの対自存在の論理によれば、この自己関係は否定性を含み、その否定性は一と多、反発と牽引の関係として展開する。
- したがって、規定された存在者は、その自己同一性を成立させる内在的構造を持つ。
ゆえに、あらゆる規定された存在者は内在的構造によって成立する。
定理Ⅱ:第一性の構造的成立
あるものの第一性は、そのものの内部に独立して備わった性質ではなく、全体構造における関係的な位置として成立する。
証明:
- 第一性とは、ある秩序において他のものに先行する位置を占めることである。
- したがって、第一性は、先行するものとそれに対して後続するものとの関係を必要とする。
- この関係は、単なる認識上の比較ではなく、存在論的または説明論的な秩序である。
- したがって、あるものの第一性は、それが位置づけられる全体構造との関係において成立する。
ゆえに、第一性は構造的に成立する。
定理Ⅲ:第一性の遡及的成立
あるものの第一性は、そのものが位置づけられる全体構造の成立によって遡及的に確定する。
証明:
- あるものAが第一のものであるためには、Aが位置づけられる全体構造が必要である。
- 全体構造は、Aと他の諸契機との関係によって成立する。
- Aの第一性は、この関係を含む構造によって規定される。
- したがって、Aが第一であるという規定は、Aだけの内部に先行的に完成しているわけではない。
- 全体構造が成立することによって、Aの第一性は確定する。
ゆえに、第一性は全体構造との関係において遡及的に成立する。
総合定理:第一性の遡及的成立
以上の三つの定理を統合する。
第一性の遡及的成立
あらゆる規定された存在者は、その自己同一性を成立させる内在的構造によって存在し、その存在者が第一のものとして成立するという規定は、それが位置づけられる全体構造との関係において遡及的に確定する。
したがって、自己完結的な存在であることは、その存在者の構造的成立を否定せず、また、その第一性が全体構造との関係によって成立することを妨げない。
この命題によって、自己完結的な存在を含むすべての規定された存在者について、第一性の構造的成立を説明できる。
ここで、外的依存と内在的構造を混同する必要はない。
ある存在者が他のものに依存せずに存在することは認められる。
しかし、その存在者自身の自己同一性は内在的構造によって成立する。
そして、その存在者が第一であるという規定は、他の諸契機との関係を含む全体構造によって成立する。
この二重の構造によって、自己完結的な存在を含む普遍命題が構成される。
第九章 反論への応答と証明の限界
ここまでで、理論の普遍命題はかなり明確になった。
ただし、学術的に主張するためには、最も強い反論に答えておく必要がある。
反論1:自己同一性はそれ自体で成立するのではないか
例えば、あるものAがAであることは、それ以上の説明を必要としない原始的な事実ではないか。
この反論は、形式論理の観点からは成立しうる。
A=Aという命題は、それ自体として複数の契機や関係を必要としないからである。
しかし、ここでは論理的な自己同一性と、存在者としての自己同一性を区別する必要がある。
A=Aという形式は、Aが何であるかを説明していない。
それは、あるものがそれ自身と同一であることを示しているだけである。
しかし、あるものが何らかの存在者として成立するためには、少なくともその存在者を成立させる規定性が必要になる。
したがって、形式的自己同一性だけでは、存在者の存在論的な成立を説明できない。
この意味で、形式論理における同一性と、存在論的な自己同一性は同じものではない。
反論2:他者との差異は外部にあるだけではないか
あるものAと他なるものBとの区別は、あくまで外部にある関係であって、A自身の内部にあるとは限らない。
この反論に対しては、ヘーゲルの限界の議論が回答になる。
限界は、単にAとBを外部から区別する線ではない。
あるものが何であるかを成立させる質そのものに関わる。
したがって、外的な区別が存在規定の契機になる場合、それは単なる外部の比較ではなく、あるもの自身の規定性として理解される。
ここで重要なのは、外部にある他者と、他者性という存在論的な契機を区別することである。
他者が外部に存在していることは、他者性が自己の規定性に内在することと矛盾しない。
反論3:絶対的な存在は、他者との関係なしに存在できるのではないか
ここで、スピノザの実体を再び考えよう。
実体は他のものによって存在を成立させられない。
したがって、実体が他者との関係によって存在するという主張は、スピノザの実体概念と衝突する。
しかし、本稿が主張しているのは、実体の存在が外部の他者によって成立するということではない。
問題にしているのは、実体そのものの内在的な規定性である。
スピノザの実体は無限に多くの属性を持つ。
その属性を実体の外部にある構成要素として扱うことはできないが、少なくとも実体を無規定な空虚な単一性と見なすこともできない。
したがって、実体が自己完結的であることは、それが内在的な規定性を持たないことを意味しない。
ただし、スピノザの属性概念がヘーゲル的な自己差異化と同一であるとは主張しない。
そこには両者の体系的な差異がある。
本理論は、その差異を消去するのではなく、自己完結性と内在的構造の関係を独自に説明することを目指す。
反論4:無構造な「このもの」は原始的事実として存在できるのではないか
この反論は、今回の論証にとって最も重要である。
あるものは、他者との差異や内在的な関係によって成立するのではなく、ただそれ自身として存在するという考え方である。
いわゆる原始的個体性や、分析できない「このもの」の存在を認める立場である。
これに対して、本理論は次のように応答する。
仮に、その「このもの」が何の規定性も持たないならば、それは純粋存在と同じく無規定なものになる。
その場合、それを特定の存在者として扱う根拠はない。
一方、それが他のものとは異なる特定の存在者であるならば、その差異を成立させる規定性が必要になる。
その規定性が存在者自身の存在に属するならば、そこには何らかの内在的な構造が必要となる。
したがって、原始的な個体性を認めるだけでは、存在者の成立を説明したことにはならない。
ただし、この反論を完全に退けるには、存在者の自己同一性を説明不能な原始的事実として認める立場そのものを批判する必要がある。
ここは、本理論が今後さらに明示的に論争しなければならない論点である。
第十章 最終的な判定――普遍命題は論証できたのか
ここまでの議論を踏まえて、最終的な判定を行いたい。
今回の論証によって、第一性の遡及的成立を普遍命題として主張するための論理的基礎は、かなり強固になった。
特に重要なのは、次の三つの区別が成立したことである。
| 区別 | 論証によって得られた結論 |
|---|---|
| 外的依存/内在的構造 | 自己完結性は内在的構造を否定しない |
| 無規定性/単一性 | 単一性は無規定性と同じではない |
| 存在の先行性/第一性の成立 | 存在が先行していても、その第一性は構造によって確定する |
ただし、最後に一つだけ、学術的な厳密さのために明示しておきたいことがある。
今回の証明が普遍命題として成立するためには、次の存在論的前提を採用する必要がある。
存在者として成立するものは、必ず何らかの規定性を持ち、その規定性は存在者自身の内在的な差異と関係によって成立する。
これが本理論の存在論的基礎である。
ヘーゲルの『大論理学』は、この前提を純粋存在から定在、あるものと他なるもの、対自存在、一と多へと展開することで、体系的に正当化する。
ただし、ヘーゲルの論理学のカテゴリーを存在そのものの構造として受け入れない立場に対しては、その存在論的な意味づけ自体をさらに論証する必要がある。
したがって、今回の結論は、何の前提もない形式論理から絶対的に証明されたという意味ではない。
むしろ、存在者の成立を内在的な規定性から説明する存在論を明確に提示し、その枠組みのもとで普遍命題を演繹したという意味での証明である。
これは理論として非常に重要な違いだ。
そして、この前提を「第一性の遡及的成立」の中心的な存在論的原理として採用する価値があると考える。
最終結論――第一性は構造の外部に存在しない
ここまでの考察から、当初の問題に戻ろう。
あらゆる自己完結的な存在を含む第一性が、例外なく構造によって成立すると主張できるのか。
今回の論証によって、次のように回答できる。
まず、存在者が自己自身として成立するためには、内在的な差異と関係が必要である。
このことは、ヘーゲルの純粋存在から定在、さらに対自存在における一と多の論理によって説明できる。
したがって、自己完結的な存在も、構造の不在を意味しない。
次に、あるものが第一であるということは、単独で成立する性質ではない。
それが何に対して、どのような秩序において第一なのかという関係を必要とする。
したがって、その第一性は、全体構造との関係において確定する。
そして最後に、ヘーゲルの定在の分析が示すように、最初のものとして現れるものは、その成立を媒介する過程を背後に持っている。
そのため、第一性は単純な直接性によって保証されるのではない。
構造全体の成立によって確定する。
以上から、次の普遍命題を提示する。
第一性の遡及的成立・普遍命題
あらゆる第一性は、例外なく構造によって成立する。
あるものが存在者として成立するためには、その自己同一性を成立させる内在的構造が必要である。
そして、あるものが第一のものとして成立するためには、それが位置づけられる全体構造との関係が必要である。
したがって、自己完結的な存在であることは、構造から独立した第一性を保証しない。
第一性とは、構造に先立って孤立的に存在するものではなく、構造全体の成立において遡及的に確定するものである。
今回の論証によって、これまで残されていた最大の問題に対する回答が得られたと考える。
特に、ヘーゲルの「定在は第一のものとして現れるが、その媒介である生成はすでに背後にある」という議論と、「一は多へと生成し、その過程そのものとして一である」という議論の結合は、第一性の遡及的成立にとって重要な理論的根拠になる。
ただし、ここからさらに理論を発展させるうえで、一つの区別を保持しておきたい。
存在者の自己同一性を成立させる内在的構造と、その存在者の第一性を成立させる全体構造は、同一ではない。
この二つは相互に結びついているが、異なる水準の構造である。
前者は存在者の存在論的成立を説明し、後者はその存在者の第一性を説明する。
この二重の構造を明確にすることによって、理論は自己完結的な存在を例外とせず、しかも第一性を単なる認識上の規定に還元しない体系を持つことができる。
参照文献・一次テクスト
今回の中心的な分析対象は、ヘーゲル『大論理学』の1832年改訂版における「存在論」である。
G. W. F. Hegel, Wissenschaft der Logik, Erstes Buch: Die Lehre vom Sein(1832年改訂版)
| 章・節 | 検討した論点 |
|---|---|
| Erstes Kapitel, Sein | 純粋存在・純粋無・生成 |
| Zweites Kapitel, Das Dasein | 定在と規定性 |
| Das Etwas und ein Anderes | あるものと他者 |
| Bestimmung, Beschaffenheit und Grenze | 規定性と限界 |
| Drittes Kapitel, Das Fürsichsein | 対自存在 |
| Das Eins an ihm selbst | 一の自己関係 |
| Das Eins und das Leere | 一と空虚 |
| Viele Eins, Repulsion | 多と反発 |
| Attraction | 牽引 |
| Die Beziehung der Repulsion und Attraktion | 反発と牽引の相互媒介 |
テクスト確認には、ヘーゲルのデジタル版と原文を参照できる以下の資料を用いた。
- Die Wissenschaft der Logik ― 第一部「有論」原文
- Wissenschaft der Logik(1832)― 一と多・反発と牽引
- Hegel Digitale Edition ― GW 21
- Robb Dunphy, “The Beginning of Hegel’s Logic,” Philosophy Compass, 2023.
特に、Dunphyの研究は、純粋有・純粋無・生成の展開を単に「弁証法の方法」の例として扱うのではなく、その後の論理的移行を可能にする展開として理解すべきだと論じている。この方法論上の注意は、今回の議論にも関係する。
おわりに――今回の論証で何が変わったのか
今回の議論は、これまでの「第一性の遡及的成立」の考察の中でも、最も重要な転換点になると思う。
それまでは、第一性を構造との関係から説明していた。
しかし、今回はその一歩先に進み、存在者そのものが自己同一性を成立させるために構造を必要とするという命題にまで到達した。
これによって、理論の射程は変わった。
第一性という特定の規定だけではなく、存在者の成立と、その存在者が第一のものとして成立することを、統一的に説明する方向が見えてきたからだ。
そして、今回最も重要だと思うのは、次のことである。
構造に先立って、完全に自己完結した第一のものがあるのではない。第一のものとして現れるもの自身が、すでに構造的な自己成立を含んでいる。
この命題は、単に「すべてのものは関係の中にある」という一般論とは異なる。
外的な関係によって存在を規定されることと、内在的な差異によって自己自身として成立することを区別しているからだ。
自己完結性を認めながら、無構造な単一性を否定する。
存在論的な独立性を認めながら、第一性の構造的成立を主張する。
この二つを両立させるところに、「第一性の遡及的成立」の独自の理論的可能性がある。
今回の議論によって、この理論の中心命題をかなり強い形で定式化できたと考える。
ただし、今後さらに学術的な強度を高めるなら、最優先で検討すべきなのは、ヘーゲルの論理学の存在論的妥当性と、原始的個体性を認める立場への反論である。
この二点を突破できれば、単にヘーゲルの解釈から導かれた命題ではなく、独自の存在論として「第一性の遡及的成立」を提示できる可能性がある。



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