第一性の遡及的成立②――スピノザの個体論における全体と部分の関係

哲学全般
当サイトはアフィリエイト広告を利用しています

※ この記事は生成AIで作成したものを一部修正しています。

はじめに――全体は部分に先立つのか

前回の記事「第一性の遡及的成立――スピノザ・ヘーゲル・ドゥルーズを横断する哲学的仮説」では、あるものの成立条件を明らかにすることによって、そのものの第一性、意味、説明上の位置づけが遡及的に再規定されるという仮説を提示した。

この仮説の出発点にあるのは、あるものを第一のものとして理解することと、そのものが実際にどのような条件のもとで成立しているかを理解することとの間には、必ずしも一致がないのではないか、という問題である。

私たちは、あるものを認識すると、それをひとまず自立した対象として捉え、そこから考察を始める。しかし、その成立条件を探究することによって、最初に出発点としたものの位置づけが変化する場合がある。あるものが第一のものとして理解されていたとしても、それが何を根拠とし、何との関係において成立しているのかが明らかになると、その第一性の意味そのものが問い直されるのである。

今回は、この問題をスピノザ『エチカ』第二部定理13の備考から考えてみたい。

同箇所では、個体を構成する部分が変化しても、部分相互の運動と静止の関係が維持される限り、個体はその本性を保ちうることが論じられる。そして、この個体論を無限に拡張することによって、自然全体もまた一個の個体として考えられるとされる。

ここで問題となるのは、個体の同一性だけではない。

人間の身体を一個の個体として捉える場合、その身体は一つの全体であり、その構成部分は部分である。しかし、人間の身体を自然全体の一部分として捉えるならば、先ほどまで全体だったものが、今度は部分として位置づけられる。

あるものは、一つの水準では全体でありながら、別の水準では部分となる。

このことは、全体と部分の関係が、単純な上下関係として固定されているわけではないことを示している。

そして、この問題を第一性の問題へと接続するならば、次の問いが生じる。

あるものが第一のものとして位置づけられることもまた、それ自体の性質だけで決まるのではなく、それが属する全体や、ほかのものとの関係によって規定されるのではないか。

もしそうであるならば、あるものが第一であることの意味や根拠は、そのものだけを考察している段階では十分に確定せず、それが属する関係構造を理解することによって、遡及的に明らかになる可能性がある。

ただし、この可能性を論じるためには、スピノザの個体論と、「第一性の遡及的成立」とを区別しなければならない。

スピノザが自然全体を一個の個体として捉えていることから、自然全体の存在論的な第一性が部分との関係によって遡及的に成立すると、直ちに結論することはできないからである。

本稿では、まず『エチカ』第二部定理13の補助定理7備考を原典に即して検討し、個体の同一性と全体・部分の関係を明らかにする。そのうえで、これらの問題を「第一性の遡及的成立」という仮説へ接続し、この仮説がどこまで論証可能なのかを検討する。

本稿の目的は、スピノザがすでに同じ理論を提示していたと主張することではない。むしろ、スピノザの個体論から得られる洞察を通して、第一性の成立条件を問い直すための理論的な枠組みを構築することにある。

記事作成当日の日記は以下にリンクを貼っておく。


第一節 個体の同一性は何によって成立するのか

1.構成部分の変化と個体の存続

『エチカ』第二部定理13の補助定理7備考を理解するためには、まず、同定理に続く補助定理において展開される個体論を確認する必要がある。

スピノザは、個体を構成する物体がさまざまな運動状態にありながら、一個の個体を形成しうることを論じている。

補助定理3定義では、異なる大きさや速さをもつ物体が、一定の関係を維持しながら結合する場合が考察される。さらに補助定理4では、個体を構成する部分が入れ替わっても、その個体が同一の形相を維持しうることが示される。

補助定理4のラテン語原文は、次のとおりである。

Si corporis, sive Individui, quod ex pluribus corporibus componitur, quædam corpora segregentur, & simul totidem alia ejusdem naturæ eorum loco succedant, retinebit Individuum suam naturam, uti antea, absque ullâ ejus formæ mutatione.

すなわち、複数の物体から構成される個体からいくつかの物体が分離し、同じ数の同じ本性をもつ別の物体がその場所を占める場合、その個体は形相の変化なしに、以前と同じ本性を保持する。

ここで重要なのは、個体の同一性が、その構成部分の物質的な同一性だけによって決まるのではないという点である。

個体を構成する物体が入れ替わったとしても、部分相互の関係が維持されるならば、個体は同一の個体として存続しうる。

つまり、個体の同一性は、構成部分が一切変化しないことを意味しない。むしろ、構成部分の変化にもかかわらず、その個体を一個の個体として成立させる関係が維持されることを意味する。

ここでは、個体を構成する物体と、それらが一個の個体を形成するための関係とを、概念的に区別する必要がある。

もちろん、これは関係が構成部分から独立した別個の実体として存在するという意味ではない。スピノザが問題にしているのは、物体相互の運動と静止の関係である。

したがって、個体の本性は、構成部分の性質を単純に加算したものとしてではなく、部分相互の関係が一定の仕方で維持されることとして理解される。

2.個体の本性と形相の維持

この議論から、個体の同一性について重要な帰結が得られる。

ある個体が同一の個体として存続するために、その構成部分がすべて不変である必要はない。

必要なのは、部分相互の運動と静止の関係が、個体を個体として成立させる一定の関係を維持することである。

ここでは、構成部分の変化と、個体の形相の変化とが区別されている。

構成部分が変化することは、必ずしも個体の形相が変化することを意味しない。

この点は、個体の同一性を、部分の不変性によってではなく、部分相互の関係によって理解することを可能にする。

しかし、ここで一つの疑問が生じる。

個体が一個の個体であるための条件が、部分相互の関係にあるとすれば、その個体の本性は、部分から独立して確定しているのだろうか。

それとも、その個体を構成する部分との関係において初めて理解できるのだろうか。

少なくともスピノザの個体論では、個体を構成部分の単なる集合として理解することはできない。

個体が何であるかを理解するためには、部分相互の関係を考察しなければならない。

この点に注目すると、個体の同一性は、関係から独立した性質としてではなく、一定の関係構造の維持として理解されることになる。

ただし、ここから、個体の存在論的な第一性が関係によって遡及的に成立すると結論することはできない。

この段階で明らかになったのは、個体の本性を理解するためには、その構成部分相互の関係を考慮する必要があるということまでである。

この区別を維持することが、以下の議論にとって重要になる。


第二節 自然全体は一個の個体である

1.個体論の無限の拡張

以上の個体論を踏まえて、『エチカ』第二部定理13の補助定理7の備考に戻ろう。

スピノザは、個体が形相を変えることなく、さまざまな仕方で変状されうることを説明した後、次のように述べる。

Et si sic porrò in infinitum pergamus, facilè concipiemus, totam naturam unum esse Individuum, cujus partes, hoc est, omnia corpora infinitis modis variant, absque ullâ totius Individui mutatione.

「そして以下同様に無限に進んでゆけば、全体としての自然は一個の個体であり、そのもろもろの部分すなわちすべての物体が全体としての個体の変化なしに無限に多くの仕方で変化する、と考えることは難しくない。(上野訳)」

ここで、スピノザは個体の概念を自然全体にまで拡張している。

人間の身体を一個の個体として考える場合、その構成部分が変化しても、部分相互の関係が維持される限り、その個体は同一の本性を保持する。

この考え方を無限に拡張するならば、個々の物体もまた、自然全体を構成する部分として位置づけられる。

自然全体の内部では、個々の物体が絶えず変化している。それにもかかわらず、自然全体は一個の個体として考えられる。

したがって、自然全体の同一性は、そこに含まれる個々の物体が不変であることによって成立するのではない。

むしろ、部分の変化と全体の形相の維持とが両立するものとして理解されている。

ここで、個体の同一性についての議論が、自然全体にまで拡張されているのである。

2.自然全体の不変性とは何か

この箇所を読む際には、「全体としての個体のいかなる変化もなしに」という表現の意味を慎重に捉える必要がある。

スピノザは、自然全体の構成部分が変化しないと主張しているのではない。

原文では、むしろ、すべての物体が無限に多くの仕方で変化することが明示されている。

したがって、自然全体の不変性は、部分の不変性を意味しない。

問題となっているのは、部分が変化するにもかかわらず、自然全体が一個の個体としてその形相を維持するということである。

このことから、自然全体を構成部分の単なる集合として捉えることはできない。

自然全体は、個々の物体が存在するという事実を単純に足し合わせたものではなく、それらが一個の個体を構成するという関係のもとで理解されている。

ただし、ここでいう不変性を、宇宙の空間的な大きさが物理的に増減しないという主張と同一視してはならない。

スピノザが論じているのは、自然全体を一個の個体として捉えた場合の形相の維持である。

この区別を踏まえるならば、自然全体についても、個体の同一性を部分の不変性によってではなく、全体を成立させる関係の維持によって考えることができる。

3.全体と部分の関係はどのように拡張されるのか

ここで、私が特に注目したいのは、全体と部分の関係である。

人間の身体を一個の個体として捉える場合、人間の身体は全体であり、その身体を構成する物体は部分である。

しかし、人間の身体を自然全体の一部分として捉えるならば、先ほどまで全体だった人間の身体は、今度は部分として位置づけられる。

この場合、同じものが、ある水準では全体であり、別の水準では部分となる。

このことは、全体と部分の区別が、必ずしもそれぞれのものに固定的に備わった性質ではないことを示している。

あるものが全体なのか部分なのかは、どの個体を考察対象としているかによって変わりうる。

ただし、ここでいう相対性は、全体と部分の区別が恣意的であることを意味しない。

個体が成立するためには、部分相互の運動と静止の関係が一定の仕方で維持されなければならない。

したがって、どのような集合も自由に全体と見なせるわけではない。

全体と部分の区別は、個体をどの水準で捉えるかによって変わりうるが、個体が成立する条件まで任意に変わるわけではないのである。

ここから、次の仮説を導くことができる。

全体と部分の区別は、固定的な上下関係としてだけではなく、一定の関係構造の中で成立する位置づけとして理解できる。

この仮説を第一性の問題へと移すならば、あるものが第一のものとして位置づけられることもまた、そのもの自体の性質だけで決まるのではなく、ほかのものとの関係によって規定される可能性がある。

しかし、この接続を正当化するためには、さらに論証が必要になる。

全体と部分の関係が相対的であることから、第一性そのものが関係によって成立すると直ちに結論することはできないからである。


第三節 全体と部分の関係は、第一性の問題に何を示唆するのか

1.全体が部分に先立つという図式

全体と部分の関係を考える際、私たちはしばしば、全体が先に存在し、その全体を部分が構成しているという図式を思い浮かべる。

この図式では、全体が部分に対して第一のものとなる。

部分は全体の構成要素として位置づけられ、全体の存在によってその役割を与えられる。

このような関係を考える場合、全体の第一性は、部分との関係に先立って確定しているように見える。

しかし、スピノザの個体論を踏まえるならば、全体を部分から切り離して理解することはできない。

全体は、部分相互の一定の関係によって成立するからである。

ここで区別しなければならないのは、全体が部分に対して第一であることと、全体が部分との関係から独立して成立することとである。

この二つは同じではない。

全体が部分に対して存在論的に第一のものであるとしても、その全体がどのような全体であるのかは、部分相互の関係を通して理解される。

つまり、全体が部分に対して第一であることと、全体が部分との関係を必要とせずに成立することとは、区別しなければならない。

この区別は、第一性の遡及的成立を考えるうえで重要である。

なぜなら、第一性が関係から独立していることを認めないとしても、ただちに第一性が後続するものによって存在論的に成立すると結論する必要はないからだ。

第一性が関係に依存するという主張には、少なくとも二つの異なる意味がある。

第一に、あるものが第一のものであることは、ほかのものとの関係を通して初めて理解されるという意味である。

第二に、あるものが第一のものであること自体が、ほかのものとの関係によって成立するという意味である。

前者は、第一性の認識や説明に関する主張である。

後者は、第一性そのものの成立条件に関する主張である。

この二つを混同すると、第一性の遡及的成立は、単なる認識の変化を述べる理論にとどまるか、十分な論証なしに存在論的な主張へと飛躍してしまう。

したがって、両者を区別することが不可欠である。

2.第一性は何に対して第一なのか

そもそも、あるものが第一のものであるというとき、それは何に対して第一なのだろうか。

第一性という概念は、それ自体では十分に規定されていない。

あるものが第一であるということは、少なくとも何らかの関係のもとで、ほかのものに対して第一であるということを意味する。

たとえば、ある原理Aが、命題B、C、Dを説明するための第一原理であるとしよう。

Aが第一原理であるという主張は、Aという命題だけを取り出しても、十分には理解できない。

AがB、C、Dをどのように説明するのか、また、それらがAからどのように導かれるのかを理解する必要がある。

つまり、Aが第一原理であるということは、Aそのものの性質だけでなく、AとB、C、Dとの関係によって規定される。

もちろん、Aが実際にB、C、Dの成立根拠であるならば、Aがその根拠として機能することと、私たちがその機能を理解することとは別の問題である。

しかし、少なくともAが何に対して第一なのかを理解するためには、Aとほかのものとの関係を考察しなければならない。

ここで、次の問いが生じる。

あるものが第一のものとして理解されるために、そのものに続くものを理解する必要があるとすれば、第一性の意味は、後続するものとの関係を通して遡及的に確定するのではないか。

この問いは、スピノザの個体論から直接に導かれる命題ではない。

しかし、個体の同一性が部分相互の関係を通して理解されるという洞察を、第一性の問題へと移すことによって得られる哲学的仮説である。

ここでは、第一のものが最初から存在しないと主張しているのではない。

問題となっているのは、あるものが第一であるという位置づけの意味や根拠が、そのものだけを考察している段階ですべて確定しているのか、ということである。


第四節 「第一性の遡及的成立」の再定式化

1.第一性の遡及的成立とは何か

前回の記事では、第一性の遡及的成立を、あるものの成立条件を明らかにする探究によって、そのものの第一性、意味、説明上の位置づけが遡及的に再規定されることとして定義した。

今回の考察を踏まえると、この定義には、さらに明確にすべき点がある。

それは、第一性そのものが存在論的に成立することと、第一性の意味や根拠が遡及的に理解されることとの区別である。

あるものが第一のものとして理解されるために、ほかのものとの関係が必要であることから、そのものが存在するためにも、ほかのものとの関係が必要であるとは直ちには導けない。

したがって、第一性の遡及的成立を論じる際には、少なくとも次の三つの水準を区別する必要がある。

第一に、あるものが存在論的に第一であること。

第二に、あるものが説明上の第一原理として機能すること。

第三に、そのものが第一であることの意味や根拠が、後続するものとの関係を通して理解されること。

これらは相互に関係するが、同一の主張ではない。

本稿では、まず第三の水準を中心に理論を定式化し、そこから第一性の存在論的な成立条件を検討する可能性を探る。

そこで、第一性の遡及的成立を次のように定式化したい。

第一性の遡及的成立とは、あるものが第一のものとして位置づけられる意味や根拠が、そのものから展開される諸関係や、成立条件を含む全体的な構造の理解を通して、遡及的に確定することである。

この定義では、第一性が単純に後から発見されることと、第一性の意味が遡及的に確定することとを区別している。

たとえば、ある原理Aが体系の出発点として措定されている場合、Aは体系の構築において最初に置かれている。

しかし、Aがなぜ第一の原理なのかということは、Aから展開される諸命題を理解することによって、初めて十分に明らかになる可能性がある。

この場合、Aが体系の出発点であることと、Aが第一の原理としてどのような意味を持つのかということとは、同じではない。

Aは最初に置かれているが、Aが第一の原理としてどのような役割を果たすのかは、体系全体の展開を通して確定する。

ここでは、第一性の位置そのものが時間的に移動するわけではない。

変化するのは、Aが第一のものとして位置づけられる根拠と、その第一性の意味である。

ただし、これだけでは、第一性の遡及的成立は、認識論的な主張にとどまる。

そこで、さらに強い主張を検討する必要がある。

それは、第一性が単に後から理解されるだけではなく、後続するものとの関係によって、その第一性そのものが成立するという主張である。

この主張を採用するならば、第一性は、関係に先立って完成された性質として存在するのではなく、関係構造の中で確定する位置づけとして理解されることになる。

しかし、この強い主張については、独立した論証が必要である。

本稿では、その論証をすでに完了したものとして扱うのではなく、今後の研究課題として明確に位置づけたい。

2.第一性の遡及的成立をめぐる限定的な論証

以上の考察を、次のような論証として整理できる。

前提1:あるものが第一のものとして位置づけられるためには、それが何に対して第一なのかを規定する必要がある。

前提2:あるものが何に対して第一なのかは、そのものと、それによって説明されるものとの関係によって規定される。

前提3:その関係が全体として理解されることによって、第一のものが果たす役割や、その第一性の根拠が、より明確に確定する場合がある。

結論:したがって、少なくとも説明上の第一性については、その意味や根拠が、後続するものとの関係を通して遡及的に確定する場合がある。

この論証から、第一性の遡及的成立を、あらゆる第一性に無条件に適用できると結論することはできない。

前提3が述べているのは、関係構造の理解によって第一性の意味や根拠が確定する場合があるということだからである。

しかし、この限定された結論には意味がある。

それは、第一性を、単に最初に置かれたものの属性として理解するのではなく、そのものが全体の中で果たす役割との関係から理解する可能性を示している。

また、ここでいう遡及性は、時間的な逆行ではない。

AからB、C、Dへと進む説明の順序があるとしても、B、C、Dを理解することによってAの意味が明確になることはありうる。

この場合、説明の出発点はAのままである。しかし、Aがなぜ出発点として機能するのかという理解は、説明の展開を通して変化する。

したがって、第一性の遡及的成立とは、第一のものの位置を後から変更することではなく、その位置を第一のものとして成立させる根拠や意味が、全体的な関係の理解を通して確定することだと考えられる。


第五節 スピノザの自然全体は遡及的に成立するのか

1.認識の順序と存在の順序

ここで、再びスピノザの個体論に戻ろう。

私たちは、まず個々の物体や身体を認識する。そして、それらの物体がどのように結合し、一個の個体として成立するのかを理解する。

さらに、その個体論を無限に拡張することによって、自然全体も一個の個体として考えられるようになる。

この認識の順序では、個々の物体の理解から自然全体の理解へと進むことになる。

しかし、このことから、自然全体が個々の物体よりも存在論的に後に成立すると結論することはできない。

私たちが何を先に認識するかということと、何が何の存在根拠であるかということは、別の問題だからである。

スピノザの体系では、神、すなわち自然は、有限な物体を認識する人間の認識順序に従って存在するものではない。

『エチカ』第一部定理15では、次のように述べられる。

Quicquid est, in Deo est, & nihil sine Deo esse, neque concipi potest.

「何であろうとあるものはすべて神の中にあり、神なしには何ものもありえずまた考えられることもできない。(上野訳)」

ここで示されているのは、有限な物体が神の外部に独立して存在するのではなく、すべてが神のうちに存在するということである。

したがって、スピノザの存在論において、自然全体の存在が、私たちによる個々の物体の認識を通して初めて成立すると考えることはできない。

自然全体が認識の順序において後から理解されることと、自然全体そのものが存在論的に後から成立することとは、明確に区別されなければならない。

2.自然全体の第一性と、その理解の遡及性

では、スピノザの自然全体を、第一性の遡及的成立という観点から考察することはできないのだろうか。

私は、できると考える。

ただし、その場合には、自然全体の存在論的な第一性が遡及的に成立すると主張するのではなく、自然全体を第一のものとして理解する仕方に注目する必要がある。

私たちは、個々の物体や個体の成立条件を考察することによって、自然全体を一個の個体として理解する。

ここでは、個々の物体の理解が、自然全体の理解への道筋となっている。

しかし、自然全体を一個の個体として理解することによって、個々の物体もまた、自然全体を構成する部分として位置づけ直される。

つまり、部分から全体へと進む認識の順序と、全体の理解によって部分の位置づけが明確になるという順序とが、相互に関係している。

この場合、自然全体が認識上の出発点として最初から与えられているわけではない。

むしろ、個々の物体や個体についての理解を通して自然全体の概念が明らかになり、その自然全体の理解を通して、個々の物体の存在論的な位置づけもまた明確になる。

このような相互的な理解の構造は、第一性の遡及的成立を考えるうえで重要な手がかりとなる。

ただし、ここでも、部分から全体へと進む認識の順序と、全体から部分への存在論的な依存関係を同一視してはならない。

スピノザの自然全体が個々の物体の存在根拠であるという主張と、私たちが個々の物体から自然全体を理解するという主張は、異なる水準に属している。

本稿が問題にしているのは、この二つを混同することではない。

むしろ、存在論的には第一のものとして位置づけられるものが、認識や説明の順序においては、後続するものとの関係を通して初めて十分に理解されるという構造である。

ここに、第一性の遡及的成立を考えるための一つのモデルを見いだすことができる。


第六節 全体の理解によって部分の意味は変わるのか

ここまでの議論から、さらに一つの問題が生じる。

それは、全体の理解によって、部分の意味そのものが変化するのかという問題である。

たとえば、ある物体を、それ自体として一個の個体として考える場合、その物体は、部分相互の一定の関係によって成立する全体として理解される。

しかし、その物体を、より大きな自然全体の一部分として捉える場合、その物体の位置づけは変化する。

もちろん、物体そのものが別の物体に変化したわけではない。

変化するのは、その物体を理解する際の関係の範囲である。

ある物体を一個の個体として理解する場合には、その物体を成立させる部分相互の関係が問題となる。

他方、その物体をより大きな全体の一部分として理解する場合には、その物体がより大きな全体の中でどのような位置を占めているかが問題となる。

このとき、同じ物体が異なる関係の中で異なる仕方で位置づけられる。

このことは、第一性の問題にも当てはまる。

あるものが第一の原理として理解される場合、そのものは、それ自体の性質によってのみ理解されるのではなく、ほかのものをどのように説明するのかという関係からも理解される。

そして、説明されるものが全体として理解されることによって、第一の原理が果たす役割もまた、より明確に確定する。

ここで、第一性は、単に時間的・論理的に最初に置かれていることを意味しない。

第一性とは、ある関係構造の中で、そのものがほかのものに対して果たす根拠としての役割でもある。

したがって、その役割が全体の理解を通して明らかになるならば、第一性の意味もまた、遡及的に確定することになる。

この点で、全体と部分の関係をめぐるスピノザの個体論は、第一性の遡及的成立を考察するための重要な手がかりとなる。

ただし、ここでいう意味の変化は、単なる主観的な解釈の変化に限定されない。

あるものがどのような関係の中で成立し、何を成立させるのかが明らかになることによって、そのものが何であるかという理解そのものが、より厳密に規定される可能性がある。

この意味で、全体の理解は、部分を外側から眺める視点を付け加えるだけではない。

部分が何であるかを理解するための条件そのものを変化させるのである。


第七節 反論と応答――第一性は関係によって成立するのか

1.第一性が関係によって成立するなら、第一のものは存在しないのではないか

第一性が後続するものとの関係によって成立するという主張は、第一のものが本当は第一ではないということを意味するのではないか。

もし第一のものが後続するものとの関係によって成立するのであれば、そのものは、後続するものに依存していることになる。

そうであるならば、第一のものは、もはや第一のものではないのではないか。

この反論に対しては、第一性と、あらゆる関係から独立していることとを区別する必要がある。

あるものが第一であるということは、そのものが一切の関係から独立して存在するということを必ずしも意味しない。

たとえば、ある原理が特定の体系において第一原理として機能することは、その原理が体系のほかの部分との関係から完全に独立していることを意味しない。

その原理が第一原理であるのは、体系のほかの命題を説明する根拠として機能するからである。

したがって、その原理が第一であることと、その第一性が体系全体との関係を通して理解されることは両立しうる。

ただし、ここから、その原理が存在論的にも後続する命題に依存して成立すると結論することはできない。

説明上の第一性が関係的に確定することと、存在論的な第一性そのものが関係によって成立することは、別の問題だからである。

この区別を維持する限り、第一性の遡及的成立は、第一のものの存在を否定する理論ではない。

むしろ、第一のものが第一であることの意味と根拠を、関係構造の中で理解しようとする理論である。

2.全体が部分との関係によって成立するなら、全体と部分の区別は消滅するのではないか

もう一つの反論は、全体と部分の関係についてのものである。

全体が部分との関係によって成立するのであれば、全体と部分を区別する根拠は失われるのではないか。

しかし、全体が部分との関係によって成立することは、全体と部分が同一であることを意味しない。

全体と部分は、異なる位置を占めている。

部分は全体を構成するものとして位置づけられ、全体は部分相互の関係によって成立するものとして位置づけられる。

両者は相互に関係しているが、同一ではない。

むしろ、全体と部分の関係を理解するためには、両者の区別を維持する必要がある。

この点は、第一性の遡及的成立についても同様である。

第一性が関係構造の中で成立することは、第一のものと後続するものとの区別が消滅することを意味しない。

第一のものは、依然として後続するものに対する根拠として機能しうる。

ただし、その第一性の意味や根拠は、後続するものとの関係から独立しているとは限らない。

したがって、第一性の遡及的成立は、第一のものと後続するものの区別を否定するのではなく、その区別がどのような条件のもとで成立するのかを問い直す理論として理解できる。

3.遡及的に理解されることと、遡及的に成立することは同じなのか

本稿に対する最も重要な反論は、次のものである。

あるものの第一性が、後続するものとの関係を通して初めて理解されるとしても、そのことから第一性そのものが後続するものによって成立すると結論することはできないのではないか。

この反論は妥当である。

あるものの存在と、そのものが何であるかについての理解とは、区別されなければならない。

また、あるものが第一のものとして認識されることと、そのものが存在論的に第一であることも、同じではない。

したがって、第一性の遡及的成立という概念を厳密に展開するためには、認識や説明における遡及性から、存在論的な成立についての主張へと移行するための論証が必要となる。

本稿では、この論証を完了したとは考えていない。

むしろ、今回の考察によって明らかになったのは、第一性の遡及的成立を論じるためには、少なくとも三つの問題を区別する必要があるということである。

第一に、あるものが何に対して第一なのかという問題。

第二に、その第一性がどのような関係構造によって説明されるのかという問題。

第三に、その関係構造が、第一性を理解するための条件であるだけでなく、第一性そのものの成立条件でもあるのかという問題である。

この三つを区別することによって、第一性の遡及的成立は、単なる認識の変化を述べる概念から、第一性の成立条件そのものを問う理論へと発展する可能性を持つ。

ただし、その可能性が実際に成立するかどうかは、今後の研究において検証されなければならない。


第八節 スピノザの個体論から何が導かれるのか

ここまでの議論を整理しよう。

スピノザの個体論では、個体の同一性は、構成部分の不変性によってではなく、部分相互の運動と静止の一定の関係が維持されることによって説明される。

さらに、その個体論は自然全体にまで拡張され、自然全体も一個の個体として考えられる。

この議論から、全体と部分の関係について、次のことが明らかになる。

第一に、全体は部分から独立した単なる集合としてではなく、部分相互の一定の関係によって成立するものとして理解される。

第二に、ある個体は、それ自体として一個の全体でありながら、より大きな個体の一部分でもありうる。

第三に、個体の規模が変わっても、個体を成立させる関係の構造が異なる水準で反復されうる。

これらの点は、第一性の遡及的成立を考えるうえで重要な示唆を与える。

なぜなら、あるものが第一のものとして位置づけられることもまた、そのものの性質だけではなく、ほかのものとの関係によって理解される可能性があるからだ。

しかし、ここで明確にしておくべきことがある。

スピノザの個体論から、第一性そのものが後続するものによって存在論的に成立すると結論することはできない。

スピノザの自然全体は、有限な物体を認識する人間の認識順序に従って成立するものではない。また、全体と部分の関係が相互的であることから、存在論的な根拠の関係まで相互的であると結論することもできない。

したがって、スピノザの個体論が直接に支持するのは、第一性の遡及的成立そのものではなく、第一性を関係構造の中で理解するための方法的な手がかりである。

この区別を踏まえるならば、第一性の遡及的成立は、スピノザの個体論をそのまま言い換えたものではなく、そこから出発して独自に展開される哲学的仮説として位置づけられる。

結論――第一のものは、全体の理解を通して確定するのか

本稿では、スピノザ『エチカ』第二部定理13の備考を手がかりとして、個体の同一性、全体と部分の関係、そして第一性の遡及的成立の可能性を検討してきた。

スピノザの個体論によれば、個体の同一性は、その構成部分が不変であることによってではなく、部分相互の運動と静止の関係が一定の仕方で維持されることによって成立する。

この考え方を自然全体にまで拡張することによって、自然全体もまた一個の個体として考えられる。

ここで重要なのは、全体と部分の区別が、絶対的に固定されたものではないという点である。

あるものは、一つの水準では全体でありながら、より大きな水準では部分となる。

このことは、あるものを理解するためには、そのもの自体の性質だけではなく、それがどのような関係の中で成立し、全体の中でどのような位置を占めているのかを考察する必要があることを示している。

この洞察を第一性の問題へと移すならば、次のような仮説が得られる。

あるものが第一のものとして位置づけられることは、そのもの自体の性質だけではなく、ほかのものとの関係によっても規定される。そして、その関係構造が全体として理解されるとき、第一性の意味や根拠もまた遡及的に確定する可能性がある。

この仮説は、第一のものが存在論的に後続するものから生み出されるという主張を、ただちに意味するわけではない。

むしろ、存在論的な第一性と、説明上の第一性と、第一性の意味が認識される順序とを区別することによって、第一性の遡及的成立をより厳密に考察するための出発点となる。

今後の課題は、この関係的な第一性の理解を、スピノザの因果論だけでなく、ヘーゲルの概念の自己展開や、ドゥルーズの差異的関係の問題へと接続することである。

それぞれの哲学者において、第一のものはどのように位置づけられ、後続するものとの関係によって、その意味や根拠はどのように規定されるのだろうか。

そして、その関係は単に第一性を認識するための条件なのか。それとも、第一性そのものの成立条件でもあるのだろうか。

この問いに答えるためには、第一性の遡及的成立を、単なる認識論的な主張にとどめず、存在論的な成立と説明上の位置づけとの関係を検討する理論へと発展させる必要がある。

今回の考察から得られた暫定的な結論は、次の一文にまとめられる。

第一のものは、単に最初に置かれたものとして理解されるのではなく、それが成立させるものとの関係を通して、その第一性の意味と根拠が遡及的に確定する可能性がある。

ただし、この可能性がどのような条件のもとで成立するのか、また、それが存在論的な第一性にまで及ぶのかは、まだ十分に論証されていない。

だからこそ、ここから先の研究では、第一性が成立する条件そのものを問い直していきたい。


参照テクスト

  • Spinoza, Ethica, Pars I, Propositio 15.
  • Spinoza, Ethica, Pars II, Propositio 13, Lemma 4 eiusque Scholium.
  • Spinoza, Ethica, Pars II, Propositio 13, Lemma 7 eiusque Scholium.
  • ラテン語原文はSpinoza, Baruch, Éthique, texte latin établi par Carl Gebhardt, présenté et traduit par Bernard Pautrat, Paris, Éditions Points, 2014.から引用した。
  • 邦訳については、スピノザ全集版『エチカ』上野修訳から引用した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました