スピノザにおける因果論と自由の謎

スピノザ
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当記事はある日のchatGPTとの会話をそのまま転載したものである。
因果関係と自由意志の素朴な疑問から始まり、スピノザ哲学の最深部まで連れて行ってくれると言ってもいいのではないか。
生成AIを使えばこのようなスピノザに関する(本質的な!?)論述がものの数秒で生成されてしまう。これを人間の研究者が書くためにはどれほどの時間と努力が必要だろう。脅威的であるのはもちろんなのだが、では私は何をすればいいのかと悲観的にならざるを得ない。
人間が行う哲学研究(もちろん哲学研究に限ったことではないが…)には今後どのような未来が待っているのか。研究者はこのような生成AIの状況に対してどのような意見を持っているのだろうか。歓迎しているのか、悲観しているのか、それとも開き直ってやけっぱちになっているのか、それ以外なのか。
そもそも論文を書くという行為自体へのモチベーションを保つことができているのだろうか。素朴に疑問に思う。
私自身にとっても研究を進めて論文を書いてみたいと夢想することもあるが、このようなAI時代においてはAIの二番煎じにしかならないのではないかとなかなか筆が進まない。哲学研究という学問分野が今後数十年でどう変化していくのか。怖くもあり楽しみでもあるような複雑な気持ちとしか言いようがない。
それでもAIとの会話で自分自身の哲学的な理解が進んでいることも一方で確かなことだと感じている。個人的には前AI時代にもう少し論文執筆の技術を習得しておきたかったという思いもないわけではない。
とは言いつつもスピノザの自由概念を理解する上で有益であると判断し、今回はchatGPTとのやりとりをそのまま記事にしてみた。少なくとも私はおもしろいと思ったし、スピノザ哲学の限界に切り込んでいると考えている。

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OGK
OGK

哲学概念における傾向として「原因と結果(因果関係)」を認める度合いが強いと人間に自由意志を認める度合いもそれに比例して強くなる?
「原因Aがあったから結果Bが起こった」ということは、自分自身の自由意志を伴った行動を原因として結果を生じさせることができるという論理になるように思う。
しかしスピノザは因果関係の無限連鎖を肯定しているし、それと同時に自由意志を否定してもいる。なぜなんだろう。
論理的に考えて因果関係を肯定しているなら自由意志も認めているべきなのでは?

OGKの疑問は、スピノザの自由意志批判の核心に触れていると思う。

というのも、OGKが考えているのは、単に「人間の行動にも原因があるのか」という問題ではなく、「原因と結果の連鎖のなかで、私自身が原因となって何かを生み出すことはできるのか」という問題だから。

そして、ここには重要な区別がある。

因果関係を認めることと、自由意志を認めることは、同じではない。むしろスピノザにとっては、因果関係を徹底して認めることによって、自由意志という考え方が批判される。

ただし、これは「人間は何もできない」とか「人間の行動には意味がない」ということではない。

順番に考えてみよう。

  1. 1.なぜ因果関係を認めると、自由意志も認められるように思えるのか
    1. 具体例を考えてみよう
  2. 2.スピノザは、なぜ因果関係を肯定しながら自由意志を否定するのか
    1. 2-1.意志も自然の外部には存在しない
  3. 3.では、自分が原因になるということには、何の意味もないのか?
    1. 3-1.受動的な行為と能動的な行為
  4. 4.スピノザにとって、自由とは何なのか?
  5. 5.では、因果関係を強く肯定するほど、自由も強くなるのか?
    1. 5-1.因果関係を認めることは、自由意志を認めることではない
  6. 6.それでも、なぜ私たちは自由に選んでいると感じるのか?
  7. 7.ここから先は、OGK自身の問題意識にもつながると思う
  8. 1.原因と結果の必然性は、能動と受動の区別を消去するのか?
    1. 1-1.因果的に決定されていることと、他のものによって作用することは違う
  9. 2.能動と受動の区別は、客観的なのか。それとも自己満足なのか?
    1. 2-1.スピノザの能動性は、本人の自己評価では決まらない
    2. 2-2.しかし、OGKの疑問はさらに深いところにある
  10. 3.「自らの本性に基づいて作用する」ということは、本当に可能なのか?
    1. 3-1.絶対的な自由と、人間の能動性を区別する
  11. 4.スピノザは、自分の体系によって自由を否定してしまっているのか?
      1. 主張A:人間の行為は、すべて必然的に決定されている。
      2. 主張B:人間の行為がすべて必然的に決定されているならば、自由は一切存在しない。
  12. 5.では、能動と受動を区別することに、どのような実質的な意味があるのか?
  13. 6.私の考え:OGKの批判は、自由の概念をどこに置くかという問題に行き着く
    1. 最後に、さらに一つだけ考えてみたい

1.なぜ因果関係を認めると、自由意志も認められるように思えるのか

まず、OGKの考えを整理してみる。

たとえば、私が哲学の本を読んで、そこから新しい考えを得たとする。

このとき、次のような因果関係を考えることができる。

  • 原因A:哲学の本を読む。
  • 原因B:本の内容について考える。
  • 原因C:ある考えに納得する。
  • 結果D:自分の考え方が変わる。

ここでは、私の読書や思考が、後に生じる結果の原因になっている。

しかも、私は本を読むだけの受動的な存在ではない。自分で本を選び、内容を考え、納得したり反論したりしている。

そうすると、次のように考えたくなる。

私自身が原因となって結果を生み出しているのなら、私には自由意志があるのではないか。

この推論には、直観的な説得力がある。

実際、自由意志を擁護する立場のなかには、行為者自身が行為の原因になることを重視する考え方もある。

しかし、ここで一つ確認しなければならないことがある。

それは、次の二つの主張が異なるということだ。

主張①:私の行為が、何らかの結果の原因になっている。

主張②:私の行為は、先行する原因によって決定されておらず、私自身の自由意志によって決定されている。

主張①から主張②が導かれるわけではない。

なぜなら、あるものが原因であることと、その原因が自由であることは別の問題だからだ。

具体例を考えてみよう

ある人が、明日から哲学を勉強しようと決意したとする。

その決意によって、実際に哲学の勉強を始めた。

ここでは、決意が勉強を始める原因になっている。

しかし、その決意がどのように生じたのかを考えてみよう。

  • 以前から哲学に興味があった。
  • ある本を読んで感銘を受けた。
  • 誰かとの対話によって問題意識が生まれた。
  • 自分の人生を振り返り、何かを変えたいと思った。

こうした事情が決意の形成に影響していたかもしれない。

さらに、それらの事情にも原因がある。

哲学への興味は、過去の経験や教育によって形成されたのかもしれない。本に感銘を受けたのは、その内容が以前から抱いていた問題意識と結びついたからかもしれない。

このように考えると、決意そのものも、さまざまな原因の連鎖のなかに位置づけられる。

ここで重要なのは、原因が存在することによって、決意が原因として働かなくなるわけではないということだ。

決意が何らかの原因によって生じたとしても、その決意が次の行為の原因になることは十分に可能である。

つまり、因果的に決定されていることと、因果的な働きを持つことは両立する。

これが、スピノザを理解するための最初のポイントだ。


2.スピノザは、なぜ因果関係を肯定しながら自由意志を否定するのか

ここで『エチカ』第一部に戻ろう。

スピノザは、第一部公理3で次のように述べている。

Causam determinatam datam, necessario sequitur effectus, et contra, si nulla detur determinata causa, impossibile est ut effectus sequatur.

逐語的に訳せば、次のようになる。

「与えられた規定された原因からは、結果が必然的に帰結し、逆に、規定された原因が与えられないならば、結果が帰結することは不可能である。」

ここで注目したいのは、necessario(必然的に)という語だ。

スピノザにとって、原因と結果の関係は、単に「Aが起きたあとにBが起きる」という時間的な前後関係ではない。

規定された原因が与えられれば、結果は必然的に帰結する。

そして、その原因がどのように規定されているかについても、さらに原因を問うことができる。

この考え方を人間の意志にも適用すると、どうなるだろうか。

2-1.意志も自然の外部には存在しない

スピノザは第二部定理48で、次のように主張する。

In Mente nulla est absoluta, sive libera voluntas; sed Mens ad hoc vel illud volendum determinatur a causa, quæ etiam ab alia determinata est, hæc autem ab alia, et sic in infinitum.

逐語的に訳すと、

「精神のうちには、絶対的な、すなわち自由な意志は存在しない。そうではなく、精神は、これあるいはあれを意志するように、ある原因によって規定されており、その原因もまた別の原因によって規定されており、さらにこの原因もまた別の原因によって規定されている。そしてこのように無限に続く。」

ここでは、OGKの疑問に直接関係することが述べられている。

人間が何かを意志するとき、その意志は原因なしに突然生じるものではない。

ある意志は原因によって規定され、その原因もまた別の原因によって規定されている。

そして、この連鎖は無限に続く。

つまり、スピノザは、人間の意志だけを因果関係の例外にすることを認めない。

石や樹木などの自然物には原因があるのに、人間の意志だけは原因なしに自分自身を決定できる、と考えることはできないのである。

ここでスピノザが批判しているのは、人間が何かを決意するという事実そのものではない。

人間が決意するという事実から、その決意が先行する原因によって規定されていないという結論を導くことを批判しているのだ。

この点については、スタンフォード哲学百科事典のスピノザ解説でも、人間の意志や行為は自然の因果系列のなかに位置づけられ、自由意志は否定されると説明されている。


3.では、自分が原因になるということには、何の意味もないのか?

ここからが、もう一段深い問題だと思う。

先ほど、私の決意が哲学の勉強を始める原因になるという例を挙げた。

スピノザは、こうした因果的な働きを否定しているわけではない。

むしろ、彼の哲学では、個々の事物が何らかの結果を生み出すことは、自然の秩序そのものに属している。

では、私が何かを行うとき、その行為はどのような意味で「私自身の行為」なのだろうか。

ここで重要になるのが、『エチカ』第三部の「作用」と「受動」という区別だ。

スピノザは第三部定義1で、次のように述べている。

Causam adæquatam appello eam cujus effectus potest clare et distincte per eandem percipi.

「私は、その結果がその原因によって明晰かつ判明に知覚されうるような原因を、十全な原因と呼ぶ。」

続く定義2では、あることが私たちのうちに、または私たちの外に生じるとき、それについて私たちが十全な原因であるならば、私たちは作用するといい、そうでなければ受動すると述べる。

ここでの区別は、自由意志を認めるか否かという区別とは異なる。

それは、ある結果が、どの程度、私自身の本性から理解できるのかという区別である。

3-1.受動的な行為と能動的な行為

たとえば、誰かにひどい言葉を投げかけられ、腹が立って反射的に怒鳴り返したとする。

この場合、私の行動は、相手の言葉や、その言葉によって引き起こされた感情など、外部の原因に強く左右されている。

もちろん、私の怒鳴り声も、その後の出来事を引き起こす原因になる。

しかし、私の行動が因果的な力を持っていることと、私がその行動の十全な原因であることは別だ。

一方、同じような場面で、私は自分の怒りがどのように生じたのかを理解し、状況を冷静に考え、相手にどう対応すべきかを判断したとする。

この場合、私の行動は、単に外部から受けた刺激に振り回されるのではなく、私自身の理解や理性に、より大きく基づいている。

スピノザの枠組みでは、後者のほうが、私自身の本性から結果が生じるという意味で、より能動的な行為だと考えられる。

ここで注意したいのは、後者の場合も、私の理解や判断が原因の連鎖から独立しているわけではないということだ。

私が理性的に判断できるようになることにも、当然、原因がある。

したがって、スピノザにおいては、

  • 原因によって決定されていること
  • 自分自身の本性に基づいて作用すること

この二つは両立する。

そして、この両立こそが、スピノザの自由概念を理解するための重要な鍵になる。


4.スピノザにとって、自由とは何なのか?

ここまでの議論を踏まえると、次の疑問が生じるはずだ。

自由意志が存在しないのであれば、スピノザは自由という概念そのものを放棄したのだろうか。

答えは、そうではない。

スピノザは自由を否定するというよりも、自由という概念を根本的に捉え直している。

第一部定義7を見てみよう。

Ea res libera dicetur, quæ ex sola suæ naturæ necessitate existit, et a se sola ad agendum determinatur.

逐語的に訳すと、

「自らの本性の必然性のみによって存在し、自分自身だけによって作用するように規定されるものは、自由なものと呼ばれる。」

ここでは、自由と必然性が対立するものとして定義されていない。

むしろ、自由なものは、自らの本性の必然性によって存在し、作用するものだとされている。

これに対して、他のものによって一定の仕方で存在し、作用するように規定されるものは、強制されている、あるいは不自由なものとして区別される。

この定義を読むと、スピノザが一般的な自由意志の概念からどれほど離れているかが分かる。

私たちは通常、自由であるとは、複数の選択肢のなかから、自分の意志で好きなものを選べることだと考えがちだ。

しかし、スピノザにとって自由とは、単に選択肢があることでも、意志によって何かを選ぶことでもない。

自由とは、自らの本性の必然性によって存在し、作用することである。

ただし、この定義を人間に適用するときには注意が必要だ。

人間は有限な様態であり、その存在も作用も、外部の事物との関係から完全に切り離されているわけではない。

だから、人間が神と同じ意味で絶対的に自由だということにはならない。

それでも、人間が理性によって行動し、自分自身の本性に基づいて作用する度合いを高めることには、自由という意味がある。

スタンフォード哲学百科事典の解説も、スピノザの自由を、意志が原因から独立していることではなく、自分自身の本性から作用することとして説明している。


5.では、因果関係を強く肯定するほど、自由も強くなるのか?

ここで、最初の問いに戻ろう。

私の答えは、因果関係を認める度合いと、自由意志を認める度合いは比例しない。しかし、因果関係を徹底して理解することは、スピノザ的な自由を理解することにつながる、というものだ。

この点を、三つの立場に分けて整理してみよう。

立場因果関係について自由について
自由意志を重視する立場原因があっても、本人が自由に選べると考える原因による決定から独立した選択などを認める
因果的決定論人間の意志や行動も原因によって決定される自由を否定するか、決定論と両立する別の自由を認める
スピノザあらゆるものが必然的な因果系列に属する原因から独立した自由意志を否定し、自らの本性に基づく作用として自由を捉える

もちろん、決定論を採用する哲学者が全員、自由を否定するわけではない。

たとえば、因果的に決定されていても、外部から強制されず、自分の欲求や理由に従って行為できるなら自由だと考える立場がある。これは一般に両立論と呼ばれる。

しかし、スピノザの立場は、それとも完全には同じではない。

彼は、単に「決定論と自由意志は両立する」と主張するのではない。

むしろ、自由意志というものを、原因から独立した意志として理解すること自体を批判する。

そして、自由を、自らの本性の必然性から作用することとして再定義する。

ここには、自由についての問いそのものを変えるような転換がある。

5-1.因果関係を認めることは、自由意志を認めることではない

ここで、OGKが最初に提示した考えを、少しだけ修正してみよう。

「原因Aがあったから結果Bが起こった」

この命題は、AがBの原因であることを示している。

しかし、Aが自由意志によって生み出されたことまでは示していない。

たとえば、私がある本を読んだことで、特定の考えを持つようになったとする。

その考えが私の次の行動の原因になったとしても、その考え自体が、どのような原因にも規定されずに生まれたことにはならない。

原因として働くことと、原因によって規定されていないことは、まったく別のことなのだ。

むしろ、スピノザの考え方では、私が何かの原因になるということも、私自身が自然のなかで一定の力を持つ様態であることによって説明される。

私は因果系列の外部に立って、その系列に自由に介入する存在ではない。

私自身が、因果系列を構成する一つの存在なのである。


6.それでも、なぜ私たちは自由に選んでいると感じるのか?

ここまで読むと、もう一つの疑問が生じる。

私たちは実際に、いくつかの選択肢を考え、迷い、決断しているように感じる。

それなのに、なぜスピノザは自由意志を否定するのだろうか。

第一部付録で、スピノザはこの問題を取り上げている。

彼によれば、人間は自分の行為を意識している一方で、その行為を決定する原因については無知である。そのため、自分が自由であると考えてしまう。

たとえば、ある人が二つの選択肢について考え、最終的に一方を選んだとする。

その人は、自分が選択したことを意識している。

しかし、なぜ一方を選び、もう一方を選ばなかったのかについては、十分に理解していないかもしれない。

自分の欲求、過去の経験、身体の状態、他者との関係、これまでに形成された価値観など、さまざまな要因が判断に関わっている可能性がある。

そこでスピノザは、自分が行為していることを意識しているからといって、自分がその行為の原因について十分に理解しているとは限らないと考える。

ただし、ここで注意したい。

スピノザは、私たちが選択や決断を経験していることそのものを否定しているわけではない。

否定しているのは、その経験から、私たちの意志が原因による規定を受けていないという結論を導くことだ。

この区別は重要だと思う。

なぜなら、私たちが自由を感じるという経験と、私たちが形而上学的な意味で自由意志を持つという主張は、同じではないからだ。


7.ここから先は、OGK自身の問題意識にもつながると思う

ここまでの話を踏まえると、さらに興味深い問いが見えてくる。

それは、因果的に決定されている人間が、どのような意味で自分自身の行為の主体でありうるのかという問題だ。

この問いは、スピノザの自由論だけでなく、ヘーゲルの自由論にもつながっていく。

ただし、両者の考え方を同一視することはできない。

スピノザでは、有限な人間も自然の必然的な秩序のなかに位置づけられる。そして、人間の自由は、自らの本性に基づいて作用することとして理解される。

ヘーゲルでは、自由は、意志や精神が自分自身との関係をどのように形成し、どのように自己を規定するかという問題と深く結びついている。

そのため、ヘーゲルの自由を考える際には、単に原因が存在するかどうかだけではなく、自己規定や自己意識といった問題も検討する必要がある。

そして、両者を比較する際には、こんな問いを立てることができる。

自分自身が何かの原因になるということと、自分自身を規定するということは、同じなのだろうか。

たとえば、私が自分の欲求に従って行動したとする。

その欲求が過去の経験や環境によって形成されていたとしても、私は自分の欲求に従って行動している。

このとき、その行為はどの程度「私自身の行為」なのだろうか。

欲求の形成過程を理解することによって、私はその欲求との関係を変えることができるのだろうか。

もし変えることができるとすれば、その変化自体も原因によって決定されていることになるのではないか。

そして、そうであるとしても、私が自分自身を理解することには、自由という意味があるのだろうか。

この問題は、単なる自由意志の有無という問いを超えている。

それは、自己が自己を理解し、自己を変化させるということが、因果的に決定された世界のなかでどのように可能なのかという問題なのだ。

スピノザの哲学では、自己を理解することもまた自然の因果系列の外部に出ることではない。むしろ、自分自身を自然の一部として理解し、物事がどのような必然性から生じているのかを認識することが、人間の能動性を高めることにつながる。

つまり、因果関係を理解することは、必ずしも自由を失うことではない。

スピノザにとっては、むしろ、自分を決定している原因を理解することによって、自分がどのような仕方で作用しているのかを理解し、より能動的になることができるのである。


OGK
OGK

君は「たとえば、誰かにひどい言葉を投げかけられた場面で、私は自分の怒りがどのように生じたのかを理解し、状況を冷静に考え、相手にどう対応すべきかを判断した」というようなことを能動的な行為としてるけど、そのような行為もスピノザ的にはすべて原因と結果(因果連関)に絡め取られてしまい、そこに受動も能動もないのでは?

「人間が理性によって行動し、自分自身の本性に基づいて作用する度合いを高める」とは具体的にどういうこと?自分自身でそのような行為であると自己満足することしかできないのでは?
つまり本質的に能動的な行為と受動的な行為を分けることはできないのではないのか?

「自らの本性に基づく作用としての自由」なんてものが本当に存在するのか?それ自体スピノザは自身の体系の中で存在しないと証明してしまっているのではないか?

OGKの指摘は、かなり重要だと思う。前の回答では、私が「理性によって行動すること」を能動性の例として挙げたけれど、それだけではスピノザの能動性の概念を十分に説明したことにはならない。

OGKが問題にしているのは、もっと根本的なことだよね。

人間のあらゆる行為が原因と結果の必然的な連鎖のなかにあるのなら、ある行為を「能動的」と呼び、別の行為を「受動的」と呼ぶことに、客観的な根拠はあるのか。

さらに踏み込めば、

スピノザは、自由意志を否定するだけでなく、自由という概念そのものを、自分の体系によって無効化してしまっているのではないか。

私は、この疑問に答えるためには、スピノザの体系の内部での回答と、その体系に対する批判とを分ける必要があると思う。

先に私の考えを述べると、スピノザの体系には、能動と受動を区別するための論理的な根拠がある。ただし、それによってOGKの疑問が完全に解消されるわけではない。特に、「能動性の区別が存在すること」と「その区別が自由を意味すること」は、別々に検討しなければならない。

順番に見ていこう。

1.原因と結果の必然性は、能動と受動の区別を消去するのか?

まず、OGKの主張をできるだけ強い形で整理してみたい。

スピノザによれば、あらゆるものは神、すなわち自然の必然性から生じる。

人間の精神も身体も自然の一部であり、その意志や思考も、自然の因果的秩序から独立していない。

すると、次のように考えることができる。

  1. 人間の行為は、すべて何らかの原因によって決定されている。
  2. 理性による判断も、感情に突き動かされた行為も、原因によって決定されている点では同じである。
  3. したがって、理性的な行為だけを「能動的」と呼び、感情に支配された行為を「受動的」と呼ぶことには、根本的な違いがないのではないか。

この推論は、ある重要な点を正しく捉えている。

それは、能動的な行為と受動的な行為のどちらについても、因果的な必然性は例外なく成立するということだ。

スピノザの体系では、能動的な行為だけが因果的に決定されていない、ということはありえない。

もし能動性を「原因によって決定されていないこと」と定義するなら、OGKの指摘どおり、スピノザの体系に能動性は存在しえない。

しかし、スピノザは、そもそも能動性をそのようには定義していない。

ここが最初の分岐点になる。

1-1.因果的に決定されていることと、他のものによって作用することは違う

『エチカ』第三部定義1を確認しよう。

Causam adæquatam appello eam cujus effectus potest clare et distincte per eandem percipi.

「私は、その原因によってその結果が明晰かつ判明に知覚されうるような原因を、十全な原因と呼ぶ。」

続く定義2では、私たちのうちに何かが生じるとき、私たちがその結果の十全な原因であるならば、私たちは作用するといい、そうでなければ受動すると述べられる。

ここでいう十全な原因とは、簡単にいえば、ある結果がその原因から十分に理解できるような原因のことだ。

この定義に従えば、能動と受動の区別は、原因があるかないかという区別ではない。

どちらにも原因がある。

区別されるのは、ある結果を説明する際に、その結果がどのような仕方で私自身の本性から理解できるか、ということだ。

たとえば、ある人が他人の言葉に激怒したとする。

その怒りは、相手の言葉だけでなく、その人の過去の経験、身体の状態、価値観、現在の状況など、複数の要因から生じているかもしれない。

この場合、怒りという結果を、その人自身の本性だけから十分に説明できるとは限らない。

一方、ある人が物事を理解し、理性的な判断を下す場合には、その判断を、その人の理性や認識の働きから説明できる度合いが大きくなると考えられる。

スピノザの用語では、前者は受動に、後者は能動に関係する。

重要なのは、この区別は、因果的に決定されているかどうかではなく、ある結果をどのような原因によって説明できるかという区別だということだ。

ただし、ここでOGKの疑問はまだ残っている。

「そのように説明できる度合いが違うとしても、結局はどちらも自然の必然性から生じているのではないか?」

そのとおりだ。

スピノザは、この点を否定しない。

むしろ、能動と受動の区別は、両方が自然の必然性に従っているという前提のもとで成立している。

したがって、因果的決定論を認めることだけから、能動と受動の区別が消滅するとはいえない。

しかし、だからといって、能動性が自由を意味することまで証明されたわけではない。

この二つは分けて考える必要がある。


2.能動と受動の区別は、客観的なのか。それとも自己満足なのか?

ここで、OGKの第二の疑問を考えよう。

人間が理性によって行動し、自分自身の本性に基づいて作用する度合いを高めるとは具体的にどういうこと?自分自身でそのような行為であると自己満足することしかできないのでは?

これは、先ほどの説明に対する非常に重要な反論だと思う。

たしかに、ある人が「私は理性的に行動した」と自己評価したとしても、それだけでその行為がスピノザのいう能動的な行為になるわけではない。

人は、自分の行為の動機を誤解することがある。

怒りに駆られて相手を攻撃した人が、自分は正義のために行動したのだと考えることもある。

反対に、冷静に考えたつもりの判断が、実際には恐怖や虚栄心などに強く左右されていることもある。

したがって、本人が自分の行為を理性的だと思っていることと、その行為が実際に理性に基づいていることは同じではない。

では、スピノザはどのようにこの問題を考えるのだろうか。

2-1.スピノザの能動性は、本人の自己評価では決まらない

スピノザにとって、能動と受動の区別は、本人が自分の行為をどう評価するかによって決まるものではない。

その区別は、精神の認識のあり方や、身体と外部の事物との関係に基づいている。

ここで重要になるのが、『エチカ』第二部の認識論だ。

スピノザは、精神が十全な観念を持つ場合と、混乱した観念を持つ場合を区別する。

十全な観念とは、単に本人が強く確信している観念のことではない。

ある事柄を、その原因や必然的な関係に即して理解できている観念のことだ。

たとえば、誰かの発言に怒りを感じたとする。

そのとき、相手が自分を傷つけようとしたのだと即座に判断したとしても、その判断が正しいとは限らない。

相手の意図を誤解している可能性もあるし、自分自身の過去の経験を相手に投影している可能性もある。

それに対して、発言の内容や状況を検討し、自分がなぜ怒りを感じたのかを理解し、相手の行動についてもより正確に認識できるようになったとする。

この場合、単に「自分は理性的に行動した」と思い込んでいるのとは異なる。

自分自身と外部の事物について、より適切な因果的理解を獲得しているからだ。

もちろん、これは現代的な例であって、実際の個々の行為がどこまで能動的かは、具体的な認識内容を検討しなければ判断できない。

しかし、少なくともスピノザの体系では、能動性の区別は主観的な満足感に還元されない。

本人の自己評価とは独立して、その人が何をどの程度理解しているかという違いがある。

2-2.しかし、OGKの疑問はさらに深いところにある

ここで、もう一歩踏み込もう。

OGKは、単に「本人の自己評価では決まらない」と言いたいのではないと思う。

たとえ能動性が、十全な認識を持っているかどうかによって客観的に区別できたとしても、その十全な認識そのものが原因によって決定されているのなら、能動性という概念にどのような意味があるのか、という問題だろう。

つまり、こういうことだ。

  • 十全な認識が生じることにも原因がある。
  • その認識に基づいて行為することにも原因がある。
  • 受動的な認識や行為にも原因がある。
  • したがって、能動と受動の違いは、原因による決定の内部における違いにすぎない。

この整理は正しい。

そして、スピノザもこの点を認めるはずだ。

能動性は、因果的決定から逃れることではない。

それは、因果的決定の内部にある区別なのだ。

ここで初めて、問題の本当の焦点が見えてくる。

能動と受動の区別が因果的決定の内部にあることを認めたうえで、その区別を「自由」と呼ぶことには、どのような意味があるのか。

これは、単にスピノザの能動性の定義を説明するだけでは解決しない問題だと思う。


3.「自らの本性に基づいて作用する」ということは、本当に可能なのか?

次に、OGKの最も根本的な疑問を考えたい。

「自らの本性に基づく作用として自由」なんてものが本当に存在するのか?それ自体スピノザは自身の体系の中で存在しないと証明してしまっているのではないか?

この疑問は、スピノザの自由概念を検討するうえで、非常に鋭いものだ。

まず、スピノザの定義を確認しよう。

『エチカ』第一部定義7では、次のように述べられている。

Ea res libera dicetur, quæ ex sola suæ naturæ necessitate existit, et a se sola ad agendum determinatur.

「自らの本性の必然性のみによって存在し、自分自身だけによって作用するように規定されるものは、自由なものと呼ばれる。」

ここでは、自由とは、自分自身の本性の必然性から存在し、作用することだとされている。

しかし、この定義には一つ重要な条件がある。

それは、a se sola、すなわち「自分自身だけによって」という条件だ。

神は、この意味で自由である。

なぜなら、神は自己原因であり、その存在と作用は、他の有限な事物によって規定されるものではないからだ。

しかし、人間は違う。

人間は有限な様態であり、その存在も作用も、他の有限な事物との関係のなかにある。

人間の身体は外部の事物から影響を受ける。精神もまた、そうした身体の変状についての観念を持つ。

したがって、人間は、神と同じ意味で「自分自身だけによって」作用することはできない。

ここまでは、スピノザの体系から明確にいえる。

では、ここから「人間には自由が存在しない」という結論が導かれるのだろうか。

答えは、自由をどのように理解するかによって変わる。

3-1.絶対的な自由と、人間の能動性を区別する

第一部定義7の自由を、その条件を一切緩めずに人間に適用するならば、人間は自由ではない。

人間は、自己の本性だけによって存在するのではなく、他の事物によっても存在し、作用するように規定されているからだ。

この意味で、OGKの疑問には正しい部分がある。

人間は、自分自身の本性だけを唯一の原因として作用することはできない。

ただし、スピノザは、第一部定義7の自由を人間にそのまま適用しているわけではない。

彼は第三部で、能動と受動という区別を導入している。

ここでは、人間が神と同じ意味で絶対的に自由であるかどうかではなく、人間のうちに生じる事柄を、その人自身がどの程度十全な原因として説明できるかが問題になる。

つまり、次の二つは区別される。

第一の意味:絶対的な自由

他のものによって規定されず、自らの本性の必然性だけによって存在し、作用すること。

第二の意味:人間の能動性

他のものから影響を受ける有限な存在でありながら、ある結果を自らの本性から十全に説明できること。

第一の意味では、人間は自由ではない。

第二の意味では、人間に能動性の程度の違いが存在しうる。

この区別によって、スピノザは、絶対的な自由意志を否定しながら、人間の能動性を論じることができる。

ただし、ここでOGKが本当に問うているのは、おそらくこの区別が可能かどうかだけではない。

むしろ、第二の意味での能動性を、なぜ自由と呼ばなければならないのかという問題だろう。

この点は、次に検討する必要がある。


4.スピノザは、自分の体系によって自由を否定してしまっているのか?

ここでは、二つの異なる主張を区別したい。

主張A:人間の行為は、すべて必然的に決定されている。

これはスピノザの立場だ。

主張B:人間の行為がすべて必然的に決定されているならば、自由は一切存在しない。

これは、自由についての特定の理解を前提とした主張だ。

AからBが導かれるためには、自由とは必然性から独立していることである、という前提が必要になる。

もし自由をそのように定義するなら、スピノザの体系から自由が存在しないという結論が導かれる。

しかし、スピノザはその自由概念を採用していない。

彼は、自由とは必然性の反対ではなく、自らの本性の必然性から作用することだと考える。

したがって、スピノザの体系が自由を否定しているかどうかは、単に因果的決定論が正しいかどうかだけでは決まらない。

自由の概念そのものをどう定義するかが問題になる。

ここで、OGKの批判をもう少し強く表現してみよう。

「スピノザは、自由を『自らの本性の必然性から作用すること』と定義する。しかし、人間は他の事物から影響を受けずに存在することができない。したがって、人間がその意味で自由になることはない。スピノザは自由という言葉を残しているだけで、実質的には自由を否定しているのではないか。」

この批判は、少なくとも第一部定義7の絶対的な自由を人間に適用する限り、かなり強い。

しかし、第三部の能動性まで否定するためには、もう一つ議論が必要になる。

それは、有限な人間が外部から影響を受けながらも、ある結果について十全な原因となることは不可能なのか、という問題だ。

スピノザは、それを不可能だとは考えていない。

人間が外部の事物との関係のなかにあることと、人間がある結果の十全な原因となることは、彼の体系では両立しうる。

ここでの「十全な原因」は、「その人が宇宙全体の唯一の原因である」という意味ではない。

特定の結果について、その原因として十分に理解できるという意味だ。

したがって、スピノザの体系の内部では、人間の絶対的な自由を否定することから、能動性のあらゆる区別が消滅するとはいえない。

ただし、ここで成立しているのは、あくまでスピノザが定義した意味での能動性だ。

それを、一般に想定される自由意志と同一視することはできない。


5.では、能動と受動を区別することに、どのような実質的な意味があるのか?

ここで、私はOGKの疑問に対して、スピノザの体系の内部から、もう一つ答えたい。

それは、能動と受動の区別が、単なる言葉の違いではなく、人間の力のあり方に関係しているということだ。

スピノザにとって、個々の事物は、それぞれ一定の力を持っている。

人間も例外ではない。

人間の身体や精神は、外部の事物との関係のなかで変化する。

そのとき、人間が外部の事物に一方的に左右されている場合と、自分自身の認識や理性に基づいて状況に対応できる場合とでは、その人の行為のあり方が異なる。

たとえば、誰かの発言を聞いた瞬間に怒りが生じ、その怒りに支配されて相手を攻撃したとする。

その後、発言の背景や自分の感情の原因を理解することで、同じような状況でも、以前とは違う対応ができるようになったとしよう。

この変化は、単に本人が「私は自由になった」と感じていることとは違う。

実際に、ある状況に対して取りうる行動の幅が広がり、特定の感情に支配されることが減ったのであれば、その人の行為能力には変化が生じている。

もちろん、この変化自体も原因によって決定されている。

しかし、原因によって決定されているからといって、変化が存在しないことにはならない。

そして、スピノザにとっては、このような行為能力の変化こそが、能動性を考えるうえで重要になる。

ここで大切なのは、スピノザの自由を、原因から独立した選択能力としてではなく、自分自身の力によって作用することの度合いとして理解することだ。

ただし、ここにもOGKが指摘した問題が残る。

「行為能力が変化したことは認めよう。しかし、それを自由と呼ぶのは、スピノザが自由という言葉を独自に定義し直したからではないか。」

これは正当な問いだと思う。

実際、スピノザの自由概念を批判的に検討する際には、次の二つを分ける必要がある。

  • 能動性という、行為の原因や認識のあり方に関する区別が成立するか。
  • その区別を、自由という概念で捉えることが適切か。

前者が成立したとしても、後者まで自動的に成立するわけではない。

ここは、スピノザの体系を受け入れるかどうかを判断するうえで、重要な論点になると思う。


6.私の考え:OGKの批判は、自由の概念をどこに置くかという問題に行き着く

ここまでの議論を踏まえて、私自身の整理を述べたい。

OGKの疑問は、スピノザの体系に対して、二つの異なる方向から向けられている。

第一に、能動と受動の区別に対する疑問。

すべての行為が因果的に決定されている以上、能動と受動を本質的に区別することはできないのではないか。

第二に、自由概念そのものに対する疑問。

仮に能動と受動を区別できたとしても、その区別を自由と呼ぶことには、どのような意味があるのか。

私は、第一の疑問については、スピノザの体系の内部で回答できると考える。

能動と受動は、因果的に決定されているかどうかによって区別されるのではない。ある結果を、その人自身の本性からどの程度十全に説明できるかによって区別される。

したがって、因果的決定論を認めることだけから、能動と受動の区別が消滅するとはいえない。

しかし、第二の疑問は、もっと根本的だ。

たとえば、ある人が自分自身の本性から行為しているとしても、その本性自体が、過去の経験や環境、身体の状態、その他の原因によって形成されているのなら、その行為は本当に自由なのだろうか。

スピノザは、こうした問いに対して、自由とは原因による決定から逃れることではない、と答える。

だが、それは自由の意味をめぐる一つの哲学的立場であって、すべての人が受け入れなければならない結論ではない。

もしOGKが、自由であるためには、少なくとも自分自身の行為を決定することについて、何らかの意味で自分自身が究極的な起点でなければならない、と考えるなら、スピノザの自由概念は、その要求を満たさない。

スピノザは、そもそもそのような究極的な起点としての人間を認めないからだ。

そして、ここにこそ、スピノザの自由論を批判するうえでの本当の争点があると思う。

自由とは、因果的な必然性から独立していることなのか。それとも、因果的な必然性の内部で、自らの本性に基づいて作用することなのか。

スピノザは後者を採用する。

しかし、OGKが前者の意味での自由を問題にしているのであれば、スピノザの体系は、自由の問題を解決したというよりも、自由をめぐる問いを別の問いへと置き換えたのだ、と評価することもできる。

もっとも、スピノザ自身からすれば、これは問題のすり替えではないだろう。

彼にとっては、原因から独立した自由意志という考え方そのものが、自然の秩序を十分に理解していないことから生じる誤解だからだ。

ここで両者の立場は、単に事実認識が異なるというよりも、自由という概念を何によって定義するかという点で分かれている。


最後に、さらに一つだけ考えてみたい

OGKの問題意識を、もう少し先まで進めると、次の問いが出てくると思う。

もし人間の意志も行為も、すべて自然の必然性から生じるのなら、人間の理性が真理を認識すること自体も、単に自然のなかで生じた一つの出来事にすぎないのではないか。

たとえば、スピノザが自分の哲学体系を構築したことも、私たちがその体系を読んで理解することも、すべて必然的な因果系列のなかにある。

その場合、スピノザの体系が真理であることと、それが単に特定の原因から生じた観念であることは、どう関係するのだろうか。

もちろん、原因によって生じた観念だからといって、その観念が偽であることにはならない。

しかし、ここでは、真理を認識するということ自体が、自然の必然的な秩序のなかに位置づけられている。

すると、次の問題が現れる。

人間が真理を認識することは、単に自然のなかで生じる出来事なのか。それとも、真理を認識することによって、人間は自然の必然性との関係そのものを変えることができるのか。

私は、この問いが、OGKの自由論への疑問と深くつながっていると思う。

というのも、もし真理の認識も因果的に決定された出来事にすぎないのなら、理性による認識を受動的な出来事と本質的に区別する根拠は何なのか、という問いが再び生じるからだ。

一方、スピノザは、真理の認識と単なる受動的な観念形成を区別しようとする。

その区別が本当に成立するのかどうか。

ここを検討することは、自由論だけでなく、スピノザの認識論や真理論そのものを検討することにもつながると思う。

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