スピノザの神とは何か

スピノザ
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どうも、OGKです。

今回は、講談社現代新書「スピノザの世界」上野修著の第三章「神あるいは自然」を読み解いていきたいと思います。

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内容は主に「エチカ」第一部の解説になります。

「エチカ」第一部では「実体」「属性」「様態」について定義されてから、スピノザの「神」が導出されます。

そして、神の概念から派生するように「自由」や「決定論」についての議論が展開されていきます。

当記事で紹介する講談社現代新書「スピノザの世界」では、それらの議論がわかりやすく解説されておりますので、書籍の流れに沿ってみていきたい思います。

記事中で「エチカ」から引用している箇所については、スピノザ全集版上野修訳より引用しています。

それではやっていきましょう。

思考実験としての「エチカ」

とにかく何かがある。そのなんだかわからないがとにかく在るもの=「実有」の概念を突き詰めていくと、どうしても出てきてしまう、ある種避けがたい論理的帰結として「神あるいは自然」とよばれるものに行き着いてしまう。(p.76)

「エチカ」はある種仮説的な実験なのだ。われわれの知性に若干の真なる観念が現に与えられており、 われわれが真理の規範を感じ取れる存在であるという事実、これを説明するのに十分な公理的理論を、まさにその真理の規範に従って知性を稼働させながら作ってみること。「エチカ」はそう いう実験をやっている。(p.80)

「エチカ」を読むための心構えとして「これはある種の思考実験なのだ」と認識しておきましょう、ということです。

スピノザはまず前提として「とにかく何かはある」と仮定することから始めます。

「エチカ」では、そのなんだかわからないがとにかく在るものを突き詰めて考えていくと、どうしても出てきてしまう論理的帰結としての「神あるいは自然」を考えているということです。

実体と様態と属性

「実体」と「様態」の定義から見ていきましょう。

第一部 定義3
  • 「実体」によって私は、それ自身においてあり、かつそれ自身で考えられるもの、すなわちその概念を形成するのに他の事物の概念を必要としないもののことと解しておく。
第一部 定義5
  • 「様態」によって私は、実体の変状、言いかえれば、他のものにおいてあり、かつ他のものによって考えられるようなもののことと解しておく。

「とにかく何かがある」と仮定すると、それは公理1より「それ自身においてあるか、あるいは他のものにおいてあるか」のいずれかになります。。「実体」と「様態」の定義はこの二つのケースをカバーしています。つまり、何かが存在するなら、それは「実体」か「様態」か、そのいずれかで尽きていることになります。

これだけでは抽象的なので、ああ、これはたしかにしかじかの実体なんだ、とわかる具体的な手がかりを「属性」として定義しています。 

第一部 定義4
  • 「属性」によって私は、知性が実体について、その本質を構成しているもののように認知するところのものと解しておく。
  • 実体:それ自身の内にあり、かつそれ自身によって考えられるもの
  • 属性:そういうものだとわかる表示。おのおのが神の永遠無限の本質を表現している。
  • 様態:実体の変状、言いかえれば、他のもの(実体)においてあり、かつ他のもの(実体)によって考えられるようなもの

リンゴは「実体」、リンゴを他の果物から区別できる手がかりとしてのリンゴ性みたいなのが「属性」、そして、同じリンゴでも個体によっていろいろ色つやが変わるので、それを「様態」、というふうにイメージしておけばいいんだよ。あくまでもイメージだけどね…

筆者いわく、これらの公理や定義はこの世界を説明する定理をうまく導くための一種の仮定として理解していればよく、「なぜそんなことが言えるの?」と問うても仕方がないことだ、としているよ。

「実体」についての定理 

次に、実体の持っている特性について挙げられています。少し長いですが、本文から引用します。

  • 唯一性:
    まず、もしこの世に「実体」が存在するなら、 それはその類において唯一でなければならない、という定理が導かれる。いま仮に、A属性を持つ実体があるとする。ふつうに考えるとそういうA実体は同じ種類でいくつあってもかまわないように見える。A実体ⅰ、A実体ⅱ、A実体ⅲみたいに。しかし、それは間違いである。複数のものを区別する具体的な手がかりは、 定義からして属性の違いか様態の違いかしかない。ところが様態は定義によりそれ自身では考えられないので、まずどの実体かが決まらないと違いをうんぬんする意味がない。いま問題はどの実体かということなのである。すると区別の手がかりは属性の違いしか残らない。 ところがいまは同じA属性の実体を仮定しているのだった。同じ属性なら当然、区別できないわけで、ということはつまり、A属性を持つA実体ⅰ、A実体ⅱ、A実体ⅲのような区別は不可能だということだ。ゆえに、「事物の世界においては、本性ないし属性を同じくする二つまたは多くの実体が与えられることはできない」(定理5)A属性の実体は一つしかないし、B属性の実体は 一つしかない。つまり実体は何であれ、その類において居並ぶものなき唯一者であり、A属性・B属性といった属性はどれもが唯一性のしるしだ、ということになる。(p.83)
  • 自己原因と永遠性:
    次に、もし「実体」なるものが存在するなら、 それは自分で自分を存在させている、つまり「自己原因」でなければならない、ということ。いま仮に、A属性を持つ実体とB属性を持つ実体があるとしよう。属性は定義からして他のものなしにそれ自身で独立に知覚される(そうでないと、それ自身で考えられる実体の手がかりにならない)。すると、A属性とB属性はそれぞれ別個にそれ自身で考えられねばならず、当然、 属性の違うA実体とB実体のあいだに共通点はない。共通点がなくまったく断絶している以上、A実体をB実体から説明したり、 逆にB実体をA実体から説明することはできない。これは、A実体がB実体を原因とするとか、B実体がA実体を原因とするとかいうふうに考えることはできないということだ。とすれば、もしA実体やB実体のようなものが存在するなら、それはどれも他の実体から生み出されないで存在している、つまり自分自身で存在している「自己原因」である、ということになる。ゆえに、「実体の本性には現に存在することが属する」(定理7)。自己原因とは、 定義により、もしそういうものがあるならその本質が必然的に存在を含むもののことなのだから。 ついでに言うと、必然的に存在を含むということは、時間で説明できない存在だということである(三角形の内角和が二直角であるのが時間と無関係に真であるのと同じように)。そういう必然的な存在のことを定義してスピノザは「永遠」と名付ける。すると、あらゆる実体は永遠でもなければならない。(p.84)
  • 無限性の証明:
    実体はみな必然的に無限でなければならない、ということ。いま仮にA属性を持つA実体があるとする。 A実体が有限であるためには、何か他のものによって限界付けられねばならない。属性が違うと無関係になってしまうので、限界付けるものは同じA属性でなければならないだろう。するとそいつもまた、必然的にそれ自身で存在するようなA実体であることになってしまう。だが同じ属性で二つの実体はありえなかったのだった。ゆえに、実体を限界付けるものはそもそも考えられず、 「あらゆる実体は必然的に無限である」(定理8)。(p.86)

「神」を定義する

実体の特性から「神」の概念が導かれます。

第一部 定義6
  • 「神」によって私は、絶対的に無限な存在者、すなわちその一つひとつが永遠かつ無限な本質を表現する無限に多くの属性において成り立つ実体、と解しておく。

神とは、それぞれの類(属性)において唯一であり、自己原因的であり、永遠かつ無限であるような実体が、無限数の属性において無限に反復し尽くしたものを全てその中に包含し尽くしている究極の実体Xのことです。

A属性を持ったA実体、B属性を持ったB実体、C属性を持ったC実体・・・・・・等々があるとしよう。A実体はA属性に関するおよそすべてのリアリティ(事物性)を尽くしている。B属性についてはB実体が尽くし、C属性について はC実体が尽くし・・・・・・以下同様。それならいっそのこと、 これらA属性、B属性、C属性・・・・・・を全部持っている実体Xを考えてはどうか。その実体Xはおよそありうるすべてのリアリティを尽くしていることにならないか。当然なるであろう。その実体Xが「神」である。(p.88)

これまで属性ごとに表現されていた実体のリアリティを無限に反復・重畳し尽くしている究極の実体X。言ってみれば「怪人二十面相」 みたいなもので、実体とわかる無限なるすべての顔を持つ唯一者、それが「神」なのである。(p.91)

実体と属性の関係性については「無数に異なる同じもの」の解説記事でも詳しく解説しているぞ。下記リンクからあわせて読んでもらいたい!

スピノザの「自由」=神の自己必然的な様態化

神の定義から必然的に帰結することを見ていきましょう。

第一部 定理14
  • 神のほかにはいかなる実体も与えられえず、また考えられることもできない。
  • 証明:
    神は絶対的に無限な存在者であり、この存在者については実体の本質を表現する属性であればどんな属性も否定されえない(定義6により)。しかもこの存在者は必然的に存在する(この部の定理11により)。なのでもし神のほかに何らかの実体が与えられるとしたら、その実体は神の何らかの属性によって説明されなければならないであろう。こうして同じ属性の二つの実体が存在することになるが、これは(この部の定理5により)背理。とすれば神のほかにはいかなる実体も与えられることはできず、考えられることもまたできない。なぜなら、もし考えられうるとすれば必然的にそれは存在するものとして考えられねばならないが、これは(この定理の前半により) 背理だからである。ゆえに神の外にはいかなる実体も与えられることができず、また考えられることもできない。証明終わり。
  • 系1:
    ここからのきわめて明らかな帰結として、神は唯一である、すなわち(定義6により)事物の世界においては唯一の実体しか与えられないということ、しかもそれは絶対的に無限であるということが出てくる——すでに定理10の備考で暗に示唆したように。

じっさい神以外に実体が与えられえるとすれば、それは神の無限にある属性のどれかと同じ属性でなければなりません(神はすべての属性を持っているから)。

ところが同じ属性の二つの実体は与えられえません。ゆえに神のほかにはいかなる実体も与えられえずまた考えられることもできない、ということになります。

ここから系として、「神は唯一である」が出てきます。

そしてその唯一の神がすなわち唯一の実体でもあるということが導かれています。

第一部 定理15
  • 何であろうとあるものはすべて神の中にあり、神なしには何ものもありえずまた考えられることもできない。

およそ何かがあるときの「ある」の全域が確定されたことになります。

その内にないようなものはなにもありません。

第一部 定理25の系
  • 個別の事物は、神の属性が限定されたある一定の仕方で表現される、神の属性の変状ないし様態にほかならない。

猫だの台風だの戦争だの、私を含めてこれらすべての現実は、実は神においてあり、神なしにはあることも考えることもできないもの、つまりは神の「様態」である、とされています。

神を神にしている本質は無限に多くの属性で表現されます。

それらの属性から無限に多くの特性が必然的に出てくるはずです。

それらの特性はみな、もちろん神において在り、神なしには在ることも考えることもできません。

定義からしてそれは神の様態のことです。

第一部 定理16
  • 神的本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(すなわちある無限な知性のもとに落ちてきうるすべてが)出てこなければならない。

これが神の様態化に当たります。神は自らの意思で世界を設計し、つくるのではありません。

いわば神自身が幾何学であり、神から無限に多くのものが無限に多くの仕方で否応なしに出てきてしまうということです。

第一部 定義7
  • それ自身の本性の必然性のみから存在し、それ自身のみから活動へと決定されるような事物は「自由なもの」と言われ、限定されたある一定の仕方で存在し働くように他のものから決定される事物は「必然的なもの」、あるいはむしろ「強いられたもの」と言われるであろう。

何度も言いますが、神は制作者ではありません。

その意味で「神的本性には知性も意志も属さない」(定理17の備考)。

在りて在るものはその本性の必然性から一切を生じます。

スピノザはこういう神の自己必然的な様態化を「自由」 と呼んでいました。

第一部 定理18
  • 神はすべての事物の内在原因であって、推移原因ではない。

ひとり神のみが「自由原因」であることになります。

スピノザの神は制作しないので、外から働く「推移原因」ではありません。

スピノザの神は、あらゆるものの本質と存在そして働きを自分自身の本性の必然性から帰結する「内在原因」です。

内在原因は「自身の内に結果を生み出す原因のこと」で、推移原因は「自身の外に結果を生み出す原因のこと」だよ。「内在原因」と「推移原因」の違いについて詳しくはスピノザ全集版エチカの訳註(第一部)54を参照してくれよな!

第一部 定理25の備考
  • ひとことで言うなら、神は自己原因であると言われるまさにその意味で、すべての事物の原因であるとも言わなければならない。

ここで神が自己自身を産出することと、神が諸様態を産出するという因果性に関して松田克進著「スピノザ学基礎論」第3章「二重因果性の問題」から引用します。

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では、実体が実体自身を作出ないし産出するとはどういうことか。実体は自己自身だけを産出することはできない(このことがきわめて重要である)。なぜならば、実体とは属性における秩序(因果的連結)そのものであり、 属性から離在してはいないからである。実体が自己自身を産出するという事態は、取りも直さず、実体が属性を産出するという事態と相即不離なのである。 また、属性を産出するということは——属性は因果的に連結された様態の集合に他ならないのであるから——因果的に連結された様態の集合を産出するということである。実体の自己産出の因果性を「因果性Z」と呼ぶことにすれば、要するに、因果性Zと因果性Aとを論理的に区別することはできない。因果性Zを考えることは因果性Aを考えることを含み、因果性Aを考えることは因果性Zを考えることを含む(それは、三角形を考えることが三辺形を考えることを含み、三辺形を考えることが三角形を考えることを含むことと類比的である)。これらの因果性は数的に同一なのである(それは、三角形が三辺形と数的に同一なのと類比的である)。(p.155)

実体が因果性Zにおいて自己産出するのと相即不離の事態として、当該の実体は 因果性Aにおいて,実体の表現者たる属性 (=秩序付けられた様態の集合) を産出するのである。(p.156)

神が自己自身を産出するということ、と神が諸様態(因果的連結)を産出することは同じことであり、どちらかだけを産出して、どちらかは産出しないということはできません。

神は自己自身を産出すると同時に、否応なしに属性において秩序(因果的連結)を産出してしまっているということです。というか「因果的に連結された様態の集合」が属性であり、無限に反復される属性が神なわけですから、両者が同じこと意味しているということは自明なことでもあります。

現実の中に出てくるあらゆるもののあり方は、神の本性の必然性からとぎれなく出てくる。 言い換えると、現実のすべては必然的にこのようであり、 別なふうではありえなかった、ということです。

第一部 定理21
  • 神のいずれかの属性の絶対的な本性から出てくるものはすべて、常に、かつ無限なものとして存在してこなければならなかった。言いかえればその同じ属性によってそれらは永遠かつ無限である。

定理21の証明は読みづらいので簡略にまとめています。

いま仮に神の本質から出てくるのが有限な様態だと仮定すると、これを限界付ける様態bがなければならない。すると様態bはどこから出てきたのか? ということになり、不条理。ゆえに神の本質から出てくる様態は限界なきもの、永遠で無限な様態でなければならない。(p.100)

神を神であるようにしている本質は永遠で無限である。すると、それを表現する属性から出てくる様態も永遠で無限なものでなければならないということだね。

これらの定理は「エチカ」における二つの因果性のうち、佐藤一郎著「個と無限」でいうところのCⅰにあたる「属性の絶対的本性から直接にあるいは間接に生起するものの因果性」の説明にもなっています。

「エチカ」における二つの因果性については下のリンク先の記事で詳しく解説しています。

無限様態の説明

直接無限様態と間接無限様態の違いについての説明に移ります。

神の無数にある属性のうち、われわれ人間に知られているのは「延長」(物質的広がりであるという性質)と「思考」(何かの考えになっているという性質)の二つである。延長属性ではまず「運動と静止」という根本規則が出てくる。 現代の物理学者たちが追究している究極の物理法則みたいなものだ。いつどこであろうとおよそ物質的なものすべてに及ぶという意味で、それはたしかに無限な様態である(直接無限様態)。そしてここから「全宇宙のありさま」が必然的に出てくる。 要するに物理的な無限宇宙の全体である(間接無限様態)。 さて、属性はおのおのが同じ神の本質を表現するのだった。だから思考属性でも同じプロセスでなければならない。 われわれ人間の知っている思考属性、つまり考えになっているという性質は、すべて物質的な世界についての思考(身体の観念)か、その思考についての思考のいずれかである。そこで、まず出てくるのは物理法則の理解(直接無限様態)、そしてそこから法則に従って変化しながら同一に留まる宇宙全体の理解(間接無限様態)が必然的に出てくると考えられる。(p.100)

猫だの台風だの戦争だの、これらいろいろの有限な様態はどうなっているかというと、当然いま言ったような無限様態の一部分だということになる。(p.102)

  • 直接無限様態:属性内部において様態が様態を産出するさいの普遍的な因果法則(延長属性の場合ならば運動と静止の緒法則)
  • 間接無限様態:無限に多くの仕方で変化しながらも常に同一のままにとどまる全宇宙の姿
直接無限様態間接無限様態
延長属性で表現される本質運動と静止全宇宙のありまさ
(ex.猫、台風、戦争・・・)
思惟属性で表現される本質「運動と静止」の知「全宇宙のありさま」の知
(ex.「猫」観念、「台風」観念、「戦争」観念・・・)

特に気になったのは、思惟属性の直接無限様態を書簡64のように「絶対的に無限な知性」とは言わず、「運動と静止の知」と表現しているということです。

筆者は「絶対に無限な知性」を「運動と静止」の知と表現することで、思惟属性での表現を延長属性でのそれとの並行関係でとらえていますね。


間接無限様態については、「個と無限」佐藤一郎著(「エチカ」第一部の二つの因果性がめざすもの)で考察されている個物との関係性に関して比較検討したいところです。

「個物」というのは、集合して「全宇宙のありさま」を構成するひとつひとつの様態のことを指します。

その著作で佐藤は、「間接無限様態」と「個物」を同一のものとして解釈しています。

つまり「間接無限様態」を、様態の集合体としての「全宇宙のありさま」と同一視するのではなく、「全宇宙のありさま」を構成するひとつひとつの様態である「個物」と同一視しているということです。

ただし、「個物」といえども必ず有限なものであるわけではなく、Cⅰに依拠して考えられる限りでは無限性によって特徴づけられることもあるよ。

それに対して、当論文で上野が明確に「間接無限様態」と「個物」を同一のものとして示している箇所はありません。

しかし、下記のそれぞれの引用箇所が、両者ともに同じことを言っているように私には思われます。

「間接無限様態」と「個物」の同一性についての類似箇所
上野修「スピノザの世界」より

スピノザが「無限な知性」と呼んでいるのは、無限様態化したこの思考属性のことである。言うまでもなく、それは「出てくる」の認識であって、制作知識ではない。で、猫だの台風だの戦争だの、これらいろいろの有限な様態はどうなっているかというと、当然いま言ったような無限様態の部分だということになる。猫や台風や戦争は宇宙の一部分として出てきている。同じ必然性で 「猫」観念、 「台風」 観念、「戦争」 観念が神の無限知性のどこかに一部分として出てきている。 猫と台風と戦争は出てきている限り、互いに無関係でなく、みな法則に従った物理的因果関係の網目の中で存在と作用へと決定されている。(p.102)

佐藤一郎「個と無限」より

意志はCⅰの条件のもとではまず直接無限様態であり、そこから神の本性の必然性によって無限に多くの意志作用が間接無限様態として生起する。 が、同時にCⅰの制約を取払ってみられる場合には、個々の有限な意志作用は同じ必然性によって順次他の有限な意志作用から存在と作用へ決定され、この因果系列は無際限に続く。(p.16)

※「個と無限」では思惟属性において、「無限な知性」だけでなく、「意志」や「神の観念」も直接無限様態であるとされています。

以上から、上野も佐藤と同じように「間接無限様態」と「個物」を同一のものとして解釈していると私は考えています。

ちなみにCⅰとは「実体からの様態の生起に関して、属性の絶対的本性から直接にあるいは間接に生起するものの因果性のこと」を意味し、Cⅱとは「それぞれが同時に原因でも結果でもある個物の無際限に連なる連関のこと」を意味しているぞ。詳しくは「二重因果性の問題」の記事を参照してほしい。

さらにいうと、「スピノザ学基礎論」における松田も上記のふたりと同様に、スピノザが「間接無限様態」を「個物」とみなしている、と考えているようです。

松田克進「スピノザ学基礎論」より

間接無限様態 (これは 「書簡 64」 では 「全宇宙の相貌」と表現される)は、「自然学的付論」 においては 「一個の個体」と見なされている。(p.163)

私が述べたように間接無限様態はスピノザによって明示的に一種の個物として位置付けられており、それゆえごく自然に 「その媒介によって生ずるもの」の中に算入され得るのである。(p.164)

ということで、間接無限様態を「全宇宙のありさま」を構成するひとつひとつの「個物」と定義することもできることを補足しておきます。

決定論=自由意志の削除

本章の締めくくりとしてスピノザの決定論について言及されます。

第一部 定理33
  • 事物は現に生み出されているのと異なるいかなる他のいかなる仕方、 いかなる秩序でも神から生み出されることはできなかった。
第一部 定理34
  • 神の力能は神の本質そのものである。

現実の中に出てくるあらゆるもののあり方は、 神の本性の必然性からとぎれなく出てくる。言い換えると、現実のすべては必然的にこのようであり、別なふうではありえなかった、ということだ。(p.102)

「ある」ことの全域のどこにも「自由意志」が現れないということに注目しておきたい。(p.103)

「神あるいは自然」の能力は、その本質の必然性に等しいのである。(p.103)

まとめ

いかがだったでしょうか。

今回も、スピノザの哲学を理解するための土台となるような、基礎的な概念の解説となりました。

このあたりの解説はさまざまな入門書や研究書で取り上げられている内容になりますが、各論者ごとに論理展開が違っており、それらの違いを比較しながら読み込んでいくと理解が深まります。

各論者ごとの微妙な解釈の違いを意識しながら読めるようになると、哲学研究らしい雰囲気がでてきて楽しくなってきます。


かなり話は飛んでしまいますが、スピノザの決定論を勉強するようになって、思い返したことがあります。

学生の頃、私の口ぐせは「まぁ、なんとかなるやろ」でした。

何か心配事ができるたびに呪文のように「まぁ、なんとかなるやろ、ぼちぼちやろう」と唱え、あまり深刻に考えない性格でした。

奥さんと付き合っていた頃に「なんとかなる」という言葉は、主体性のない、他人任せな言葉に聞こえるからあまり言ってほしくない、自分の力で「なんとかする」と言って欲しい、とよく言われたものです。

「なんとかなる」と「なんとかする」ではニュアンスが全然違う、というのです。

しかし、スピノザの哲学を学んだ今、思い返すと「まぁ、なんとかなるやろ」という人生に対する態度は、スピノザ的に正しいものだったのだなぁ、としみじみ思います。

スピノザの決定論はこの世界で起こる出来事の全域のどこにも「自由意志」が現れない、全ては神の本性の必然性からとぎれなく出てくるというものです。

さらに個物は、「人間の意思や目的とは無関係に神の必然性によって決定されており(C1)、互いに無関係でなく、みな法則に従った物理的因果関係の網目の中で存在と作用へと決定されている(C2)」ということになります。

そう考えると「まぁ、なんとかなるやろ」という態度で人生に臨むのも悪くないと思えるようになりました。

振り返ってみると私は元々スピノザ主義者だったようです。

ではまた、次回。

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