どうも、OGKです。
今回は、自分なりに「神への知性愛」について考えていることを、アラン『スピノザに倣いて』平凡社 神谷幹夫訳より引用しつつ言語化してみようと思います
- なぜスピノザが『エチカ』において、幾何学的に神を論証する必要があったのか。
- なぜそこまで幾何学的な形式にこだわったのか。
- そして、「神への知性愛」とはなんなのか。
そのあたりの解釈に興味をもっておられる方には、何か解釈のヒントになるような話題を提供できるかもしれません。
その本質によって自分自身を認識するということ
最後に、或る事物の存在、すなわち経験によってわれわれが知るそれは、この事物の本質からはっきり区別されることによく注意しなければならない。或る事物が決められた時に、決められた場所に存在すること、そしてそれが一定の時間だけ持続することは、この事物の本質によるのではなく、それに付随した無数の状況によるのである。たとえば一人の人間がいるのは、彼がそのように造られて、そのような行動をなすことができるからではなく、いくつかの状況が彼を支え、保持しているからである。 それはつぎのことによってあかしされる。すなわち私は一人の人間をきわめて明確に考えることができるが、だからといって、私の考えている人間がいるわけではない。 しかしもし彼の本性が、いわば彼の本質が彼の存在を創出するならば、彼はそのとき存在しているであろう。同様に、或る人間はその構造や機能が正常でなくなったから死んでいるとは言えない。なぜなら、この人間の構造や機能、そして彼を彼たらしめているものはすべて、彼が死んでもまだ彼の本性を形づくっているからである。彼について真なるものが、彼について偽となることはありえない。それはいつも彼の本性に属しているのだ。存在しなくなる理由というのはその本性から生まれるのではなく、 他のものからにすぎない。或る状況によって彼は排除されるゆえに、存在から追い出されるゆえに、彼は死ぬと言わねばならない。言い換えれば、或る存在の定義ないしは本質から、それが或る瞬間に存在すること、あるいは或る瞬間になくなることを結論することはできない。たとえ或る人の本性をきわめてよく知っているとしても、それは彼がなぜ、その瞬間に生まれたか、またなぜその瞬間に死ぬかを、まったく説明しないであろう。或る人間の構造と機能が一致しているということと、石が彼の頭に当たる、あるいは石が彼のそばに落ちるという事実とのあいだには何の関係もない。 あるものを現実に存在させたり、それを存在から排除する出来事は、もの自体の定義のなかには入っていない。出来事はその存在の外にある。それは他のすべてのものの総体、すなわち各瞬間における「全宇宙」の状態に依存している。(p.30-31)
人間という事物の本質を考えた時、その本質に存在が含まれない、ということがあります。
そしてその有限な人間存在には、その人間の本質は含まれていないということから精神の永遠性を導き出すことができます。
つまり、ある人の存在はその人以外のすべてのものの総体、すなわち各瞬間における「全宇宙」の状態に依存している、ということは上記引用にあるとおりです。
その一方で、その人の本質は、たとえその人が死んで存在しなくなったとしても、また人類が絶滅してしまったとしても無くなるようなものではありません。
それが「精神の永遠性」ということです。
別の例で説明します。
わたしたち人間は「半円を回転させると球になる」とイメージすることができます。
そしてそのようなイメージは、現実として経験することのできる有限な存在とは無関係に在ります。
それが永遠性、つまり事物の本質ということです。
経験することのできる存在の側面からいうと、現実に存在するどんなに精巧にできた球状の物体であろうとも、イメージの中で半円を回転させてできあがる球にはなれません。
それはどこまでいっても「全宇宙」の状態に依存している有限性の内から抜け出すことはできません。
つまり「半円を回転させると球になる」のような本質的な仕方で自分自身というものを認識すること。
これがその本質によって自分自身を認識するということです。
「神への知性愛」とは何か
そこでいまから、「人間」、「自然」、「神」について正しく探求したいので、存在の確証された、変化に富んだ、滅び行くものの知識を放棄しなければならないのはよくわかる。人間の知性にとって存在の真理というものはないのだ。なぜなら、それぞれのものの存在は多数の原因と条件に依存し、それらはまた他のものに依存し、したがって無際限であるから。また、存在の秩序は認識に役立たない。それは存在するものの本質、すなわち本性について知らせないからである。円の知識は鉄ないしは木の円が自然のなかでこうむる変化からは引き出されない。同様に、ピエールが長年生き、或る日死んだことを知っていても、ピエールの本性について、われわれはいまだ何も知らないのだ。真理が存在するのは本質についてのみである。本質は球や円のように、 永遠で固定しているもののなかに求めるべきである。そしてわれわれは、円の本質や諸性質を理解するように、同じしかたで、個々のすべての事物を理解しようとせねばならない。すなわち事物の存在や持続を無視し、事物が生まれるまえにあった本性、 そして消滅後もまだあるであろう本性だけに専心せねばならないのである。この永遠なるものは——これによってわれわれは滅び行くものを知覚し理解することができる ——真の一般的観念である。正しい観念は本質である。すなわちかたちをもち、本性とはたらきが明晰に表象された特定のものである。たとえば私は、或る直観によってつくられた一つの円を表象する。それは半径がすべて等しく、また他の多くの性質を有し、しかもそれはある瞬間にではなく、つねに、否、いわば時間を超えてそうである。同様に、私はそういうしかたでつくられた一人の人間を表象する。彼は動くことも語ることも思い出すこともできる。しかもある瞬間にではなく、時間を超えて、永遠にそうである。(p.37-38)
ある種避けがたい論理的帰結としての「神あるいは自然」、その表現としての事物。
そのような決して身体とともに滅びてしまうことのない本質が『エチカ』のなかで証明されているということです。
そして、そのような証明の眼でもって自分自身を認識すること。
これです。
これが「神への知性愛」であると私は解釈しています。
まとめ
私なりに「神への知性愛」を解説してみましたが、いかがだったでしょうか。
この「神への知性愛」を理解することで、なぜスピノザが幾何学的秩序での叙述にこだわったのか、さらには『エチカ』における証明群の存在理由も自ずと明らかになると考えています。
『エチカ』のなかで述べられる論理的帰結としての「神あるいは自然」、その表現としての事物ついての詳しい解説は、別記事を作成しています。
ご興味のある方はこちらも参照していただけると、参考になるかもしれません。
ではまた。
追記
2024/09/29 追記
ヘーゲル『小論理学』の中で、スピノザの「神への知的愛」について言及がありましたので引用しておきます。
ヘーゲル『小論理学』牧野紀之訳 p902-904より
必然性の過程には今ある固い外面が克服されてその内面が開示されるという面もあるのです。そして、それによって、〔必然性によって〕結びつけられているものは実際には無縁なものではなく一つの全体の契機にすぎず、各契機は他者と関係しながら自分自身の許に留まり、ただ自分とだけ関わるにすぎないということが、示されるのです。これが必然性から自由への変貌 (Verklärung)でして、この自由は抽象的で否定的な自由ではなく、具体的で肯定的な自由なのです。又ここから分かることは、自由と必然性とを互いに排斥しあうものと見なすことがいかに間違っているかということです。たしかに必然性そのものはまだ自由ではありませんが、自由は必然性を前提として含むものでして、自由の中には必然性が止揚された形で含まれています。〔ですから、例えば〕礼儀を弁えた人間というのは、自分の行為が必然的で絶対的に妥当するものだと自覚しているのです。そして、それを自覚していることはその人の自由を少しも損なうものではなく、むしろ自由は、それが必然的だということを知ることによって、本当の内容のある自由になるのです。それは、この点で、内容のない自由、つまり単なる可能性としての自由にすぎない恣意と区別されるのです。〔又、逆の例を考えてみますと〕犯罪人が罰せられる場合、その人は自分に加えられる罰を自由の制限と考えるかもしれませんが、実際にはその罰は、 他者から加えられる暴力、犯罪人を屈服させる暴力ではなくて、その人自身の行為の現われにすぎません。 ですから、その人はこの事を認めることによって、自由人として振る舞うことになるのです。一般的に言って、自分が絶対的理念によって完全に規定されているのだと知ることが、人間の最高の自立性でありまして、こういう意識と振る舞いをスピノザは「神への知的愛」と呼んだのです。
またその訳註において以下のように述べられています。
なおスピノザにおける必然性と自由については波多野の次の説明を引いておきます。「実体の存在と同様に、実体の一切の運動はその本性に基づく必然的な結果である。しかし、その必然というのは決して自由と矛盾するものではない。むしろ真の自由とは自分の本性によって必然的に運動することである。もし自由というものを勝手気ままという意味だとするならば、神は自由であるとは言えないだろう。もし必然というものを他者によってそうさせられる、つまり強制的にそうさせられるという意味だとするならば、神は必然的であるとは言えないだろう。しかし、本当の意味では神は必然的であると同時に自由である。神においては自由と必然とは全く同じなのである」(「西洋哲学史要』一七七頁)。
「神への知性愛」を定義するにあたって、必然性と自由が矛盾するものではないということ、むしろ両者が同じものであるという意識でもって生きるということ、それは当記事内で述べた「証明の眼でもって自分自身を認識すること」と同義ではないかと思います。
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