原作漫画も読まず、全く前情報なしで映画「ルックバック」を鑑賞してきました。
自分的にかなりグッとくる映画でしたので感想を記事にしておきたいと思います。
クリエイターへの応援歌であり、賛歌でもある藤野の後ろ姿
京本の存在を知り、本気になる藤野。
「とにかく描け!バカ!」
いつでもどこでも、季節が移り変わっても
ただひたすらに描き続ける藤野。
つらくてしんどくて心底やめたいけど、どうしてもやめることができない。自分自身の絵にどうしても我慢がならない。あいつよりうまくなりたい。
「俺らクリエイターはこうやって命削って作品作ってきたし、これからもただひたすらにひたむきに誰かの背中を見て作り続けるしかないんだ」という原作者の強いメッセージを感じました。
漫画、アニメなどの創作活動でなくともスポーツや趣味でも何でも、鑑賞者それぞれの立場で打ち込んでいること、それに対するモチベーションを奮い立たせてくれるような勢いのある表現だと思いました。
また、狂ったように描く藤野の後ろ姿の描写は、そういったすべての人たちの努力や葛藤を全肯定をしてくれているようにも感じました。
クリエイターの作品にかける想い
映画でも漫画でも文学作品でも何においても、ひとつの作品における本質とは何なのでしょうか。
その作品にどれだけ作者の想いとか努力とか生き様とかが込められているか、ということではないでしょうか。
今回映画を観て、「世の中のクリエイターがどれだけ凄まじい想いで作品に向き合っているかわかっているのか」と、原作者から問い詰められているような気がしました。
京本を殺した犯人の当初の設定が「病んでしまったクリエイターの成れの果て」だったとしたら、あえて原作者がその設定にこだわったことも「作品に賭けるクリエイターの凄まじい想い」を伝えたかったからではないかと思います。
私たちが日々何気なく消費しているコンテンツにおいても、クリエイターたちの喜びや悲しみ、苦悩、やるせなさとかいろんな感情と膨大な時間をそれ一筋にささげて出来たものであるということを、改めて考えさせられました。
藤野と京本、二人の関係性について
小学6年の途中で学級新聞の記事を見て、張り詰めていた糸がプツンと切れたように突然描くことをやめる藤野。
自分に対する諦め。なんでこんなことに必死になっていたんだろう。やーめた。
藤野は卒業証書をとどけるために京本の家に上がり込み、大量のスケッチブックを見つける。そして京本に「ファンです」という言葉をかけられる。
それからの藤野にとって、京本の存在は常に絵を続ける理由になっていたのではないかと思います。
藤野は常に京本の背中を見て、絵を描いていました。
それとは知らず、京本は藤野の背中を見て描いていました。
それは、藤野は京本の中に自分自身を見て、反対に京本は藤野の中に自分自身を見ていたとも言えるのではないでしょうか。
藤野は藤野であって、もちろん京本ではありませんが、京本なくしては、藤野の存在もまたありえません。
だから藤野は京本から区分され、分離されると同時に結合されているとも言えます。
お互いに相手の中に自分自身を見出し、相手の存在を頼りに前に進んでいきます。
それは一緒に作品を作っているときも、別々の道を歩いているときも変わらなかったのではないでしょうか。
京本から「ファンです」と言われたあの瞬間、ある意味で二人は、一緒にいようとも離れようともお互いがお互いを相互補完し合うような関係性がどうしようもなく、この因果関係が支配する世界に形作られてしまったのだろう、と思いました。
「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識すること」
二人の関係性を考えたとき、哲学者ヘーゲルの言葉がよぎりました。
最後、藤野は京本の「ちゃんちゃんこ」の背中に自分自身を見つけます。
そして、自分がこの定めから逃れられないことを知り、自らの運命に立ち向かっていく覚悟を決めるのではないでしょうか。
まとめ
最後の解釈は、ヘーゲルの弁証法を絡めて藤野と京本の関係性を考察してみましたが、すこし強引だったかもしれません。
しかし、いい映画でした。ぜひ劇場で観てもらいたいと思います。
映画内で流れる音楽も最高に心地よく世界観にマッチしています。
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またこの記事を書いているとき、期せずして祖父危篤の知らせが入りました。
私自身、身近な人の死に触れるときいつも思うことがあります。
「その人の生に何の意味があったのか」
哲学を勉強してきて「人生に意味などない」ということは理屈としてなんとなくわかってきています。
しかし、どうしても考えてしまうのです。
なぜなんだと。
そこに存在した以上、意味がなかったなんてことが許されてたまるものかと。
藤野にとって京本の存在が無意味であったはずがありません。
ある人の存在は他の誰かの人生に影響を与え、お互いに規定し合いながら、決して消えることのない永遠なる意味を残すのではないでしょうか。
ではまた。
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