スピノザのいう「精神の永遠性」とは何か

スピノザ
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どうも、OGKです。

今回は「個と無限」佐藤一郎著に収録されております論文「個を証するもの」を取り上げたいと思います。

主に「エチカ」第五部定理21から40までの考察になります。

その主旨は、「精神の永遠性ということをスピノザがどのように考えたのか見極めること」に尽きます。

それはスピノザが「エチカ」において究極的に伝えたい主張にあたる部分と言っても過言ではありません。

つまり、第五部定理21から40までの内容を読者に理解させることが、スピノザが長々と「エチカ」を書いた理由にもあたり、この部分が真に理解できたなら『エチカ』がわかったと言ってもいいような最重要な箇所の解説をしているのが、当論文になります。

しかし当該箇所については、スピノザ解釈史においてもその内容の理解に関して議論が絶えず、その解釈は一筋縄ではいかないものとなっているようです。

スピノザが真に伝えたかったこととは、何でしょうか。

それはそもそも言語化することが困難であるような種類の知識ではないでしょうか。

そのように私には感じられました。

「エチカ」第五部定理21から40までの内容は、そもそも言語化できないような種類の知識をなんとか言葉で伝えようとスピノザなりに悪戦苦闘した記録であるとも言えるのではないでしょうか。

そのエッセンスを一言でまとめると、

自分自身というものを「神の本性の必然性から帰結すると考える限りで現実的なもの」として捉える。

ということに尽きるのですが、そのことを真に理解するためには、実体、属性、様態、心身並行論などそれに至るまで「エチカ」において論証されている事柄を理解しておくことが、すべての大前提として要求されます。

そして、たとえ前提条件としてのそれらが理解できたとしても、そもそも言語化困難なことを伝えようとしていることに変わりはなく、読者はその真髄の一端をかすめる程度で満足するほかないのではないか、と感じました。

記事内での「エチカ」からの引用箇所に関しては、スピノザ全集版上野修訳から引用しています。

また、記事内での引用箇所において太線で強調している部分は、私が重要であると判断して強調しているにすぎず、元のテキストにおいても強調されているわけではありません。

それでは論文を読んでいきましょう。

問題提起①-「身体の現在のあり方」が「精神の永遠性」に影響を与えるのか-

「精神の永遠性ということをスピノザがどのように考えたのか見極めること」この論文の目的はそこにあります。

論文内でそれは、「この現在の生」と対比される「身体に対する関係を離れた精神の持続」を考察すること、と言い換えられています。

さらに言うと、「身体の現在のあり方」と「精神の永続性」は果たして関係するのか、ということです。

それらに関して、スピノザ解釈史において解釈者の提起する問題は次の四つにまとめられるとされます。

(a)定義によれば永遠性は本質が必然的存在を含むもののあり方であり 、神とさらに無限様態には帰せられても、本質が存在を含まない有限な人間の精神に永遠性を認めることができるだろうか(cfEiD8; EiP21; EiP24; EiiA1)。

(b)身体とともに滅びる部分と言われる表象と記憶によらずに精神は個別性をもつと言えるだろうか。精神の永遠な部分である知性は個別性を喪って神の知性に帰一するのか。

(c)精神の永遠性の主張は心身関係についてのスピノザの考えである〈竝行論〉と一致するか。「観念の秩序および聯結は物の秩序および聯結と同じである」 (EiiP7) ことと、身体の観念という精神の規定 (cf. EiiP13) とを前提するとき、身体が滅びて存在しないのに精神が「残る」と言ってよいだろうか。

(d)永遠性は無時間か、それとも全時的持続か。第一部定義八だけでなく、問題の第五部後半のいくつかの箇所でも永遠性と時間との無関係、持続との峻別が強調されている (cf. EvP23s; EvP34s)。しかしその一方で、定理二三の「残る(remanere)」という語は持続を示唆するとも見做されるし、定理二〇備考はもっとはっきりと「身体に対する関係を離れた精神の持続」と言っている。

(p.106)

(a)でいうところの「本質が存在を含まない」とは、人間の本質が、例えばわたしという一人の人間が現に存在しているかどうかということに影響されないということですね。たとえ人類が絶滅してしまっても人間の本質に影響はないということです。

問題提起②-「エチカ」第五部定理23と、定理38、39の主張が矛盾しているのではないか-

筆者はそこからより根源的な問いとして第五部定理23と、定理38、39とを対比的にみて、両定理の間の矛盾を考察していきます。

第五部定理23
  • 人間精神は身体とともに絶対的に破壊されることはできず、その何かがとどまり、この何かは永遠なるものである。
  • 証明:
    神の中には、人間身体の本質を表現する概念ないし観念が必然的に与えられる(前定理により)。それゆえそうした概念ないし観念は必然的に、人間精神の本質に属する何かである(第二部定理一三により)。しかしわれわれが時間で定義可能な持続を精神に帰するのは、持続によって説明され時間で定義可能な身体の現実的な存在を精神が表現するただその限りにおいてでしかない。すなわち(第二部定理八の系により)身体が持続しているのでなければ、われわれは人間精神に持続を帰さない。ところが、にもかかわらず、ある永遠なる必然性でもって神の本質そのものによって考えられるものは、やはり何かではある(前定理により)のだから、精神の本質に属するこの何かは、必然的に永遠なるものであるだろう。証明終わり。
  • 備考:
    いま言ったとおり、身体の本質を永遠の相のもとに表現するこの観念は、精神の本質に属しかつ必然的に永遠であるような、ある一定の思惟様態である。とはいえ、われわれが身体以前に自分が存在していたと想起するようなことは起こりえない。というのも、そういうことの痕跡が身体に与えられることはできないし、また永遠性は時間で定義されえず、時間と何の関係も持つことができないからである。ところが、にもかかわらず、 われわれは自分が永遠であることを感じ、かつ経験する。なぜなら、精神は記憶にあるものを感じるのにおとらず、自分が理解しつつ考えているその事物を感じるからである。じっさい事物を見たり観察したりする精神の眼は、もろもろの証明そのものなのだから。こうして、われわれは自分が身体以前に存在していたと想起するわけではないが、それでもやはり、自分の精神は身体の本質を永遠の相のもとに含む限りで永遠であると感じ、精神のこの現実存在は時間で定義されることも、持続によって説明されることもできないと感じる。というわけで、われわれの精神が持続すると言われ一定の時間で定義されうるのは、精神が身体の現実的な存在を含むその限りにおいてであり、またもっぱらその限りで、われわれの精神はもろもろの事物の存在を時間で限定したり持続のもとで考えたりする力能を持つのである。

定理23証明内で、人間精神の本質に属する「何か」は持続を否定され、永遠が導かれます。

「ある永遠なる必然性でもって神の本質そのものによって考えられるものは、やはり何かではある」と言われ、ここでは持続ではないが、必然的に永遠であるものとして「何か」というものが定義されています。

論文内ではここで言われる「何か」とは「第三種認識とそれから生じる神への知性愛」であるということが種明かしされていますが、「エチカ」定理23の段階では「何か」としか表現されていません。

「人間の本質を表現する概念ないし観念」が精神の本質に属する「何か」つまり「第三種認識とそれから生じる神への知性愛」であることは定理23証明を成立させる要点となっています。

その「人間の本質を表現する概念ないし観念」が必然的なのであって、精神(身体の観念)が必然的にそのような観念であるのではありません。

第五部定理38
  • 精神は認識の第二種および第三種で理解する事物が多ければ多いほど、それだけ悪い感情から受動することが少なく、死を危惧することも少ない。
  • 証明:
    精神の本質は認識に存する(第二部定理一一により)。それゆえ精神は認識の第二種および第三種で理解する事物が多ければ多いほど、それだけそのとどまる部分が大きく(この部の定理二三および二九により)、したがってまた(前定理により)われわれの本性と相反する感情すなわち(第四部定理三〇により)悪い感情から影響を受けない部分がそれだけ大きい。ゆえに精神は認識の第二種および第三種で理解する事物が多ければ多いほど、損なわれずにとどまる部分がそれだけ大きく、したがってまたそれだけ感情から受動することが少なく云々。証明終わり。
  • 備考:
    ここから、第四部定理三九の備考で触れこの部で説明すると約束していた事柄が理解される。すなわち、 精神の持つ明晰判明な認識が大きければ大きいほど、したがってまた精神が神を愛すれば愛するほど、死はそれだけ大した害ではなくなるということ、これである。さらに、認識の第三種からはおよそ与えられうる最高の満足が生じる(この部の定理二七により)のだから、この帰結として、人間精神はその滅びずにとどまるものから見れば、身体とともに滅びるとわれわれが示したもの(この部の定理二一を見よ)がまったく取るに足らないような、そうした本性の精神になりうるということになる。詳細はただちに述べる。
第五部定理39
  • きわめて多くのことに適する身体を持つ人は、その最大部分が永遠であるような精神を持つ。
  • 証明:
    きわめて多くのことをなすのに適する身体を持つ人は、悪い感情にとらわれることがきわめて少ない (第四部定理三八により)。すなわち(第四部定理三〇により)われわれの本性と相反する感情にとらわれることがきわめて少ない。したがってそういう人は(この部の定理一〇により)身体の変状を知性に即した秩序に従って秩序づけ連結する力を有し、したがってまた(この部の定理一四により)身体のすべての変状が神の観念に関係づけられるようにする力を有する。そうやってこの人は(この部の定理一五により)神に対する愛——すなわち(この部の定理一六により)精神の最大部分を占めこれを構成しなければならない愛——に変状されるようになる。それゆえそのような人は(この部の定理三三により)その最大部分が永遠であるような精神を持つ。証明終わり。
  • 備考:
    人間身体はきわめて多くのことに適しているので、自己と神との大きな認識を有する精神——その最大部分ないし主要部分が永遠で、したがって死をほとんど危惧しないような精神——に関係づけられるような本性を持ちうることは疑いえない。しかしさらによく理解するためにここで注意すべきことがある。すなわち、われわれは絶えず変化しながら生きており、よりよいものに、あるいはより悪いものに変化するのに応じて、幸せ、 不幸と言われるということである。じっさい、赤ん坊や子どもから死体に移行する者は不幸と言われ、反対に健全な身体に健全な精神を宿して全生涯を貫くことができれば幸せとされる。事実、赤ん坊や子どものように、きわめてわずかなことにしか適さず外部の原因にもっとも依存する身体を持つ者の精神は、単独で見れば自己と神および事物についてほとんど何も意識しない。反対に、きわめて多くのことに適する身体を持つ者の精神は、それ単独で見られても自己と神および事物について多くを意識する。それゆえわれわれは、この生において何よりも幼児期の身体を——その本性が許容し促してくれる限り——きわめて多くのことに適した別の身体に変化させ、そして自己と神および事物についてもっとも多くを意識するような精神に関係づけられる身体に変化させようと努める。そうやって前定理の備考で述べたように、精神の持つ記憶や表象作用に関係づけられる一切が、知性との関係で見ればほとんど取るに足らないものとなるように努めるのである。

定理23においては、身体が滅びて存在しなくなっても、その本質の観念が神のうちにあり、精神に属するこの「何か」の永遠が導かれています。

しかしこのように定理23証明のなかで3回も現れる「何か」を「人間身体の本質を表現する概念ないし観念」と同一であるとみなすと、定理38、39と齟齬を生じます。なぜなら定理38、39において、きわめて多くのことをなすのに適する身体を持つ人は、悪い感情にとらわれることがきわめて少なく、結果的にそのような人はその最大部分が永遠であるような精神を持つ、とされており、「身体の現在のあり方」が「精神の永遠性」に影響を与えることになります。つまり、定理38、39に従うと「身体の現在のあり方」とは関係しない「人間身体の本質を表現する概念ないし観念」は定理23証明で言われる「何か」と同一であってはならないということになるからです。

まとめ
  • 定理23では持続を否定されて、「永遠真理として神の本性を通して考察される限りで」の精神とされているものが、一方の定理38、39では「身体の現在のあり方」に従ってその損なわれずにとどまる部分(精神の永遠性)が大きかったり小さかったりする、つまりが「精神の永遠性」に影響を与えることになっている。
  • このように筆者は、定理23と定理38、39の内容が矛盾しているのではないか、という指摘をしています。

ここまでの内容が、「精神の永遠性ということをスピノザがどのように考えたのか見極めること」という目的に対して、実際に「エチカ」のテキストから読み取れる問題を提起をしている部分になります。

次節以降では、それに対する筆者の回答を提示していくことになります。

回答①-神のうちに与えられている身体の本質の観念が「何か」として精神に帰属するとはどういうことか-

ここでは「知性」という永遠に残るものと、「表象」という滅ぶもの、という二分法的な構図のもとに考察が進められます。

身体が持続している限りで、精神の永遠な部分の大きさが言われる。神のうちに与えられている身体の本質の観念は、現実に存在している精神にある大きさの部分として帰属する。(p.114)

筆者の主張として、

「神のうちに与えられている身体の本質の観念」つまり「精神の永遠性」が、「現実に存在している精神にある大きさの部分として帰属する」つまり「身体の現在のあり方」に影響を与えている。

ということがあります。

精神の永遠な部分である知性は、それがどれだけであろうと、滅びる部分である表象より完全である、と言う (cf. EvP40c)。残るもの、知性、知的愛は、感情から働きかけられてそれでなくなるようなものではなく、このことはそれがどれだけのものかということと関係しない。「不充全な諸観念がその最大部分を構成する結果、働きをなすものよりも働きを受けるものによってより一層識別される精神は最大に働きを受ける。反対に充全な諸観念がその最大部分を構成する結果、たとい前者(の最大に働きを受ける精神)におけるのと同じくらい多くの不充全な諸観念がその裡に存しても、それでも人間の無力を顕す諸観念よりも人間の徳に帰せられるそれによってより一層識別される精神は最大に働きをなす」(p.114-115)

永遠に残るものとしての「知性」は、それ自体不十全な滅ぶものとしての「表象」する精神から影響を受けるようなことはなく、滅びる部分である「表象」より完全である、ということです。

「部分(pars)」という言葉から、精神が実在的に区別される永遠な部分(知性)と滅びる部分(表象)とから成り、分割されると見做すのは次に示す理由により正しくない。(p.115)

「表象(知)」 (imaginatio)とは、外部原因の触発を受けた身体の諸変容の観念による認識である。身体は自然の有限な部分であるから、この諸変容の観念は外部の諸原因全体つまり「自然の共通の秩序」 (EiiP29c,s) について部分的・不充全な認識しか含まない(cf. EiiP11c)。言い換えれば、身体の観念である精神はこの認識の部分的不充全な原因 (cf. EiiiD1) でしかなく、このことを精神が「働きを受ける」と言う(cf.EiiiD2; EiiiP1; EiiiP3)。こうして、受動が精神に関して言われるのは精神が「否定を含む何かをもつ限りで」 (EiiiP3s)のことであり、「受動は認識の欠如だけによって、つまり諸観念がそれによって不充全と言われるものによって評定される」 (EvP20s)。その限りでは、表象は人間の精神に関しては否定、認識の欠如であり、肯定的性質をもつ(cf. EiiP33: ‘positivum’) 精神の部分とは言えない。従って表象は認識の欠如として精神の裡に知性と竝存する。知性が精神の部分と言われるのはこの欠如に対してのことである。このように精神の残る部分と滅びる部分は実在的に区別されるような部分ではなく、表象と知性は一方が働きを受けること他方が働きをなすこととして一つの同じ精神に関係づけられる。(p.115-116)

また、精神を永遠な部分と滅びる部分に分割して、そのそれぞれを精神を構成する一部分として捉えることを正しくないとしています。

「表象は人間の精神に関しては否定、認識の欠如であり、肯定的性質をもつ精神の部分とは言えない」とされ、「表象と知性は一方が働きを受けること他方が働きをなすこととして一つの同じ精神に関係づけられる」。

まとめ
  • 精神の永遠に残る部分と、持続とともに滅びる部分は、そのそれぞれが精神の部分を構成するような、実在的に区別できるような性質ではなく、十全な認識としての能動性を表現する「知性」と不十全な認識としての受動性を表現する「表象」として一つの同じ精神に関係づけられている。

回答②-身体の存在に対する関係を離れるということの意味をどう捉えるか-

第五部定理1
  • 思惟ならびに事物の観念が精神の中で秩序づけられ連結されるのに正確に対応して、身体の変状ないし事物の像が身体の中で秩序づけられ連結される。 
  • 証明:
    観念の秩序と連関は事物の秩序と連関と同じものであり(第二部定理七により)、逆にまた事物の秩序と連関は観念の秩序と連関と同じものである(第二部定理六および七の系により)。それゆえ、身体変状の秩序と連結に従って観念の秩序と連関が精神の中で生じ(第二部定理一八により)、逆に(第三部定理二により)思惟ならびに事物の観念が精神の中で秩序づけられ連結されるのに応じて身体変状の秩序と連関が生じる。証明終わり。

その定理二一備考では「・・・・・精神の観念と精神それ自身はひとつの同じ物であり、それがひとつの同じ属性すなわち思惟の属性のもとで考えられるのである。…………精神の観念つまり観念の観念とは、観念が思惟の様態として対象に対する関係を離れて考察される限りで、観念の形式にほかならない」と言われている。(p.118)

いまの問題に関係する要点を挙げると次のとおりである。引用に先立つ部分からの展開で、(a)精神(思惟様態)と身体(延長様態)の竝行と同一を契機とする〈竝行論〉Iに準拠して、ともに思惟様態である精神と精神の観念のあいだに〈竝行論〉Ⅱが主張されている。(b)「ひとつの同じ物」と言われる物は観念とその対象である。(c)精神の観念は精神それ自身と同一物であると言われるが、(b)により身体(精神の対象)とは同じ物にならない。「観念の観念」はもとの観念の対象である身体とはひとつの同じ物ではない。「対象に対する関係を離れて」観念を考察するとはこのことであり、それはまた観念を思惟の様態として考察することと等置されている。ところが観念はもともと思惟様態以外のものではないのだから、それは観念をまさに思惟の様態として本来的に、(別の箇所の換言では)「知解(作用)そのもの(ipsum intelligere)」(EiiP43s, Gii12411) として考察することを意味する。(p.118-119)

ここでは「身体の存在に対する関係を離れるということの意味」が開示されています。

〈竝行論〉I身体(延長様態)精神(思惟様態)
〈竝行論〉Ⅱ精神(思惟様態)精神の観念(身体の観念の観念)

このように二種類の並行論が区別されます。

そして、「精神の観念」はもとの観念の対象である「身体」とはひとつの同じ物ではないとされ、そのことがまさに「対象に対する関係を離れて」観念を考察することを指す、とされています。

では、それがスピノザのいう「精神の永遠性」とどのように関わってくるのでしょうか。

身体の諸変容の観念に本性が含まれる身体(の諸部分)と外部の諸物体とは (cf. EiiP16; EiiP18s; EiiP38d)、「ひとつの同じ属性の概念を含むということで一致し」 (EiiL2d)、身体の裡に起ることはどれも精神によって知覚されるために (cf. EiiP12)、身体の諸変容の明晰判明な概念が形成される(cf. EvP4d)。「知性の秩序によって精神は物をそれらの第一の諸原因を通して知覚する」(cf. EiiP18s, Gii10712-13) から、身体の諸変容をそれらに共通に含まれる延長の属性の概念のもとで把握することにより、それら諸変容は神の観念と関係づけられる (cf. EvP14)。(p.117)

受動の感情について明晰判明な観念が形成されるならば、精神の受動は不充全な観念だけに依存し、 充全な観念からは能動が生起するから (cf. EiiiP3)、その感情は受動であることをやめる (cf. EvP3,d)。(p.118)

まとめ
  • 身体の諸変容の観念についての明晰判明な観念(つまり観念の観念)というものが、共通概念に基づく「理性(知)」としての第二種認識のはたらきによって、(神の永遠性に基づく)知性の秩序に従って身体の諸変容を秩序づけている。

最終結論-二重因果性の問題に収束する-

ここまで「精神の永遠性ということをスピノザがどのように考えたのか見極めること」という問題に関して論文の流れに沿って辿ってきました。

論文を最後まで読んでみて私が感じたのは、スピノザが「エチカ」第五部の結論として記述している最終的な主張として、結局は「エチカ」冒頭の第一部、第二部における議論、つまり二重因果性の問題に収束しているということです。

二重因果性
  • 事物はわれわれによって二つの仕方で現実的なものとして考えられる。すなわち、事物がある一定の時間と場所との関係において存在すると考えるか、それとも、その同じ事物が神の中に含まれかつ神の本性の必然性から帰結してくると考えるか、そのいずれかである。(第五部定理29備考より抜粋)

そして精神の永遠性とは、これらのうちの後者において物を考えることに尽きるということです。

さらにはそれら二種類の因果性、そのすべてがいっしょになって神の永遠かつ無限の知性を構成するという体系、宇宙論を構成すること、これがスピノザが「エチカ」において達成したことの主旨になるのではないか、と私は考えています。

以下、そのあたりの議論について関連する「エチカ」のテキストからの引用と当論文からの抜粋を掲載しておきます。

第五部定理29
  • 永遠の相のもとに理解することは何であれ、精神はそれを身体の現前する現実的な存在を考えることから理解するのではなく、身体の本質を永遠の相のもとに考えることから理解する。
  • 証明:
    精神はみずからの身体の現前する存在を考える限りで、時間で限定されうる持続を考え、またその限りにおいてのみ事物を時間との関係で考える力能を持つ(この部の定理二二および第二部定理二六により)。ところで、 永遠性は持続によって説明されることができない(第一部定義八およびその説明により)。ゆえに精神はその限りで、 事物を永遠の相のもとに考える力を持たない。しかし事物を永遠の相のもとに考えることは理性の本性に属し (第二部定理四四の系二により)、そして身体の本質を永遠の相のもとに考えることもまた精神の本性に属し(この部の定理二三により)、しかもこの二つ以外に精神の本質に属するものは何もない(第二部定理一三により)。ゆえに事物を永遠の相のもとに考えるこの力能が精神に属するのは、精神が身体の本質を永遠の相のもとに考えるその限りにおいてでしかない。証明終わり。
  • 備考:
    事物はわれわれによって二つの仕方で現実的なものとして考えられる。すなわち、事物がある一定の時間と場所との関係において存在すると考えるか、それとも、その同じ事物が神の中に含まれかつ神の本性の必然性から帰結してくると考えるか、そのいずれかである。だがこの第二の仕方で真なるものないし事象的なものとして考えられる事物をわれわれは永遠の相のもとに考えているのであり、そうした事物の観念は神の永遠かつ無限な本質を含んでいる——第二部定理四五で示したように。その備考も見よ。

この第二の仕方の存在は第二部定理四五備考では「神の裡にある限りでの個物の存在そのもの」と言われている。定理四五証明は初めに「現実に存在している個物の観念は当の物の本質竝びに存在**を必然的に含む」と述べ、 傍点の存在は、「ここでは存在を持続と解しているのではない」という備考冒頭の言からも、第二の存在のことである。ところがこの個物はまた第一の仕方で「現実に (actu) 存在している」。従って第一の存在と第二の存在は非両立的に排除し合うのではない。現実に存在している身体が「当の属性の概念を含む」(EiiP45d)ことを、 前節で示したように第二種認識を通じて把握することを経て、精神は自己および身体を永遠の相のもとに認識し、 自らが神の裡に第二の仕方であることを知る(cf. EvP30)。「永遠の相のもとに考えるとは・・・・・・物が神の本質を通して存在を含む限りで物を考えることである」(EvP30d)。こうして、神の本質そのものを通して考えられる身体の本質の観念は (cf. EvP22d; EvP23d)、「現実的なもの」(EvP29s)として存在する。(p.122)

第二部定理45
  • 現実態として存在するどの物体、あるいはどの個物も、それについての観念はそれぞれが神の永遠かつ無限な本質を必然的に含んでいる。
  • 証明:
    現実態として存在する個物についての観念は、その個物の本質と存在を必然的に含む(この部の定理八の系により)。ところで、もろもろの個物は(第一部定理一五により)神なしには考えられることができない。しかし (この部の定理六により)個物は、それら自身がその様態となっている属性のもとに神が見られる限りで神を原因とする。ゆえにそれら個物についての観念は必然的に(第一部公理四により)それら個物自身の属性の概念、すなわち (第一部定義六により)神の永遠かつ無限な本質を含まなければならない。証明終わり。
  • 備考:
    私がここで理解している「存在」は持続ではない。すなわち抽象的にある種の量のごときものとして考えられた存在のことではない。なぜなら私が語っているのは、神の本性の永遠なる必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で出てくるがゆえに個物に付与される現実存在の、その本性そのものについてだからである (第一部定理一六を見よ)。あくまでそれら個物が神の中にある限りで、その存在そのものについて語っているのだと私は言う。というのも、たしかにおのおのの個物は他の個物から一定の仕方で存在するように決定されているとはいえ、それぞれが存在し続けようとするその力は、神の本性の永遠なる必然性から出てくるのだから。これについては第一部定理二四の系を見よ。

「身体の存在に対する関係を離れて考察される限りでの精神」 (EvP40s)とは、身体が第一の仕方で存在することをやめても、なお第二の仕方で存在する精神である。スピノザは定理二三その他で「残る(remanere)」 という語で精神の永遠性を表している。「残る」とは「この現在の生」と対置される死後の精神の存続ではないし、 また身体とともに滅びる部分を取去った”剰余” “残留物”に譬えられるあり方でもない。それは「この現在の生」のあいだだけでなく身体の死後も、精神が第二の仕方であるということにほかならない。永遠性は持続と峻別されている(cf. EiD8; EvP23,s; EvP29d; EvP34s)。身体が持続をやめれば精神も持続という第一の仕方では存在しなくなるから (cf. EvP21d; EvP23d [iii]; EvP23s; EvP29d; EiiP8c)、「永遠性は持続を通して説明されることができない」(EvP29d; cf. EvP23s)。だが持続は本来、神の本性の永遠な必然性から生起する本質によって物が存在することに固執することに根ざしている (cf. EiiP45s; EiiiP7; EiiiP8)。従って「この現在の生」の裡では、与えられた本質に根ざす持続は、時間として表象されて限定されるのでなければ、永遠性の現れである。精神の永遠性の考察を締括る定理四○備考はこのことを示唆しているように思われる。(p.122-123)

第五部定理40備考
  • 以上が、身体の現実存在との関係なしに見られる限りで、私が精神について示そうと企てた事柄である。 このこと、そして同時に第一部定理二一およびその他の諸定理から明白となるように、われわれの精神は理解を遂行する限りで思惟の永遠なる様態であって、この様態は他の思惟様態によって決定され、この思惟様態もまたさらに他の思惟様態によって決定され、というふうに無限に進み、そうやってそのすべてがいっしょになって神の永遠かつ無限の知性を構成するのである。

個々の精神が本質と存在に関して神に依存する因果性と個別の精神相互間の決定の因果性は根源的に一つの同じ神の本性の必然性である。前者は精神の永遠性の根拠であり、後者は「この現在の生」での精神のあり方を定めるものであるが、個別の永遠な精神が神の永遠かつ無限な知性を構成することにおいて両者が一つに重なることを、唯一この箇所は語っているように思われる。この備考はまた「エチカ」で様態という語が用いられる最後の箇所であり、この言葉に託したスピノザの哲学の最終的結論が籠められていると考えなくてはならない。永遠な精神は、ここに述べられているように、思惟属性の様態として神の永遠・無限な知性を構成し、神の思惟をある決定された仕方で表現する (cf. EiP25c)。精神は知解する限り実在性を有し、否定を含む不充全な観念をもたない (EvP40,c; EiiiP3,s)。充全な観念はその精神だけのものであるが、不充全な観念はその精神以外の諸精神にも関係づけられるために、当の精神によっては部分的にしか説明されない(cf. EiiP11c)。従って精神が永遠であり、最大限の実在性を有することは、精神が自らに一致し、自分だけのものになることと言えよう。精神の永遠性はこのように真の自己、個を証するものである。(p.123-124)

まとめ

いかがだったでしょうか。

「精神の永遠性ということをスピノザがどのように考えたのか見極めること」という問題提起に対して、その結論は言葉にしてしまうと非常に陳腐と捉えられてしまってもおかしくはありません。

精神の永遠性とは、「事物が神の中に含まれかつ神の本性の必然性から帰結してくると捉えること」それに尽きるということです。

このようにあっさり書いてしまうと、スピノザはそんなに大したことを言っていないではないのか、と思ってしまうかもしれません。

しかしそれでは、スピノザを表層的にしか捉えられていないのではないでしょうか。

「エチカ」やその他著作を反復して読むことでしか、その本当の凄みを実感することはできないと思います。

そしてその価値が、この哲学にはあるという自分の直感を信じてこれからも自分なりに研究を続けていこうと思います。

ではまた次回。

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