どうも、OGKです。
今回は、講談社現代新書「スピノザの世界」上野修著、第一章「企て」より「欲求(衝動)」「欲望」「努力(コナトゥス)」について解説しつつ、スピノザの考える「最高善」についてみていきたいと思います。
言わずと知れた最強の「エチカ」解釈本の登場だね。
今回の解説記事のテーマになっており、「エチカ」において重要な概念である「appetitus」はこれまでの翻訳では「衝動」と訳されています。
それに対して、一番新しく出版されたスピノザ全集版「エチカ」上野修訳では、「欲求」と訳出されています。今後、上野修訳がスタンダードとなっていくであろう事情も踏まえて、当記事では「欲求(衝動)」のような形で併記していこうと思います。
ちなみに、これまでの翻訳で「欲求」と訳されていた部分は、上野修訳「エチカ」では「欲する」と訳し変えられてるね。(「エチカ」第三部定理9備考)
当記事においては、その他の「エチカ」からの引用箇所についても、スピノザ全集版上野修訳を載せています。
スピノザの決意
・スピノザは、「世俗的善(富、名誉、快楽)」と、「それが見つかって手に入れば絶え間のない最高の喜びを永遠に享楽できるような何か(以下「最高の喜び」という)」を天秤にかけ、そのどちらかしか得られないものであると仮定する。
・そして、世俗的善(富、名誉、快楽)を犠牲にしてでも「最高の喜び」の探究に自身を賭けようと決心する。
(「知性改善論」第一段)
- 「世俗的善(富、名誉、快楽)」か「最高の喜び」、どちらかを得たらどちらかを諦めねばならない。
- 「世俗的善(富、名誉、快楽)」はその存在が確実で、そちらを取ればある程度の満足が約束されている。
- 一方の「最高の喜び」はというと、存在が不確実な上に、その探究の過程ですでに享楽している「世俗的善(富、名誉、快楽)」までも失ってしまうかもしれない。
スピノザはこれらの条件を検討した上で、リスクを冒してでも「最高の喜び」の探求に自身を賭けてみよう、と決意します。
ところが、いざ探究を始めてみると「知性(最高の喜び)と欲望(世俗的善)は対立するどころか、哲学の営みの中で同じ一つの欲求(衝動)のもとにある」ということがわかります。
「世俗的善(富、名誉、快楽)」と「最高の喜び」は、一方を取ればもう一方は諦めなければならないような逆方向のベクトルではなく、同じ一つの欲求(衝動)が付与する欲望の強度として理解できるというのです。
そして、その結論に至るまでの過程で、「目的」「欲求(衝動)」「欲望」「努力(コナトゥス)」が定義されていきます。
順に見ていきましょう。
「目的」と「欲求(衝動)」のずれ
では、具体的に「欲求(衝動)」の定義からみていきましょう。
まず「目的」とは「欲求(衝動)」のことである、と言われます。
・われわれが何かをする「目的」を、私は欲求のことと解する。
(「エチカ」第四部定義7)
・ふつうわれわれは、自分で目的を立て自分の自由な意志で行動していると信じている。ところがスピノザによると、自然の中で起こっているのはその逆である。言い表すことのできない欲求(衝動)がすでにあってわれわれの行動を生み出しており、われわれはそれをいわば遅ればせに欲望として感じている。そして問われると、 この欲望意識をもとに、自分はしかじかの目的に向かって自由な意志で行動しているのだと解釈し、自分にも他人にもそういうふうに答えを返すようになっている。
スピノザは「欲求(衝動)」を根本的な原因として捉え、その「欲求(衝動)」の結果として「目的」を伴った欲望が帰結するとしています。
つまり、ふつうわれわれは目的がまずあってその達成に努力する、と言うふうに考える。スピノザは「エチカ」で、こういう文法を逆転させる。まず欲求(衝動)がある。そしてこの欲求(衝動)に駆られるからこそわれわれは自分が目的に向かっているいるのだと思い込む。
さらに、「欲求(衝動)」の定義が続きます。
これらから、「欲求(衝動)」とは、事物の現実的本質である、ということが帰結します。
「この努力は精神のみに関係づけられるときは「意志」と呼ばれ、精神と身体とに同時に関係づけられるときは「欲求」と呼ばれる。それゆえ欲求は人間の本質そのもの、すなわちその本性からそれ自身の維持に役立つ一切が必然的に出てくる人間の本質そのものにほかならず、したがって人間はそうした一切をなすよう決定されているのである。 次に欲求と欲望の違いは、欲望は人間が自分の欲求を意識する限りでたいていは人間に関係づけられるという点だけである。それゆえ「欲望とは、それ自身についての意識を伴う欲求のことである」と定義できる。 これらすべてから明らかとなるように、われわれはそれがよいと判断するがゆえに努め、意志し、欲求し、欲するのではない。反対に、努め、意志し、 欲求し、欲するがゆえにそれをよいと判断するのである」
(「エチカ」第三部定理9備考)
「欲求(衝動)」が「身体肯定の努力」であり、事物の「現実的本質」であると定義されたのに対して、欲望とは「それ自身についての意識を伴う欲求(衝動)のことである」と定義されます。
・スピノザの言う「欲求(衝動)」は、それ自体としては目的と何の関係もない。石ころであろうと雨粒であろうと馬であろうと人間であろうと、何かある事物が一定の時間、それでありそれ以外のものでないというふうに存在するとき、そのようにおのおのの事物が自己の有に固執しようと努める力、それが「努力」(コナトゥス conatus) と呼ばれるものである。これが無くなるとその事物そのものが無くなるので、それはその事物の「現実的本質」でもある。コナトゥスは目的というものをまったく持たずに働いている 自然(神)の活動力の一部であり、そのつど及ぶところまで及んでいる。コナトゥスはそれゆえ、それ自体としては目的と何の関係もない。事物はそのつどめいっぱい自己の有を肯定しているだけで、まだ見ぬ自己の実現を目指して努力しているわけではない。 そして、こうした目的なきコナトゥスがわれわれにもあって、それが精神に何かをさせ、身体に何かをさせる。これが「欲求(衝動)」である。だから欲求(衝動)は何かをさせるわけだが、目的があってそうさせるのではない。
・欲求(衝動)はなまの形で意識にのぼることは決してなく、いつも目的を伴った欲望に加工されて経験される。
「欲求(衝動)」が事物の「現実的本質」であるのに対して「欲望」は、事物の「現実的本質」が人間の意識のフィルターを通して加工されたものであると言う点で、本質的ではないということです。
欲望が「欲求(衝動)」に遅れてやってくるような、副次的なイメージを持つとわかりやすいかもしれないね。
このように、欲望と目的は同じ文法に属するが、欲求(衝動)は違う。 欲求(衝動)は目的の言葉では記述できない。われわれの頭の中に目的を存在させているのは欲求(衝動)なのだが、欲求(衝動)そのものはわれわれの頭の中にあるその目的でわれわれに何かをさせているわけではない。ここには欲求(衝動)と目的のあいだの乗り越えがたい「ずれ」がある。このギャップはスピノザを理解する決定的な鍵だと私は思う。
目的とは欲求(衝動)のことである。しかしここで大事なのは、「目的は欲求(衝動)のこと」とは言えても、逆に「欲求(衝動)とは目的のこと」とは言えない、ということである。
最大強度の欲望としての「最高善」
さて、こう見てくると、われわれは「目的」について考えを改めねばならなくなる。われわれの欲望はみな、意識を伴った同じ一つの欲求(衝動)である。とすれば、欲望が欲している善、実現すべき目的なるものは、欲求(衝動)が付与する欲望の強度として理解できる。 すると、ある目的のために欲望を捨てねばならぬという発想はそもそも間違っていて、ほんとうはより強い欲望がより弱い欲望にまさり、より大きい強度の善がより小さい強度の善にまさって前面に出てくるだけの話だということがわかる。したがって問題は、道徳家が言い立てるように、善なる目的のために欲望を断念するということではない。とことん欲望に忠実に最大の強度を持った善を的確にマークし、そのまわりに他の諸々の善がおのず編成されてゆくのを見届けること、これが倫理に求められるすべてである。
最大の強度の欲望とは何か。それは、より強い存在になりたい、 より完全になりたい、という欲望です。
人間はどのみち「自分の本性よりもはるかに力強いある「人間本性」を考えないではいられず、そういう「完全性」へと自らを導く手段を求めるように駆り立てられる、というのです。
こうして、最大強度の欲望をもとに、「真の善」、「最高善」が 定義されます。
「最高の喜び」も「世俗的善(富、名誉、快楽)」も同じ座標軸上での強度が違うだけで、その根底には「欲求(衝動)」という「おのおのの事物がそれ自身としてあり続けようと努める力」があるいうことだな。
ここでは世俗的善(富、名誉、快楽)を否定するのではなく、「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本性」を享楽することに資するならば「よいこと」であるとしていますが、当時のオランダでこのような哲学が受け入れられないのは言うまでもありません。
これで冒頭の「知性(最高の喜び)と欲望(世俗的善)は対立するどころか、哲学の営みの中で同じ一つの欲求(衝動)のもとにある」という冒頭の結論にたどり着きました。
まとめ
いかがだったでしょうか。
スピノザを理解する上で、基礎的知識として「欲求(衝動)」「欲望」「努力(コナトゥス)」についてしっかり把握しておくことは重要です。
「スピノザの世界」第一章では、そのあたりの説明が明快になされていると感じましたので、自分自身の思考の整理も兼ねて、記事にまとめてみました。
また、スピノザの定義する最高善については、スピノザらしいラディカルな結論になっていると思いました。
最後に「われらに似たるもの」の解説記事でも繰り返し述べてきたことですが、「人間精神の非十全性」つまり「主体は彼の本質が現実化される場所、彼の欲求(衝動)の生じてくる場所の認識から排除されるという仕方でそこにおり、そのようにしてしか意識を持たない」ということが、今回の読解においても通奏低音のように流れているように感じられました。
よろしければ下記リンクの記事も読んでみてください。
では、また次回。
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