上野修「われらに似たるもの」を解説してみた

スピノザ
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こんにちは、OGKです。

今回は、講談社学術文庫「デカルト、ホッブズ、スピノザ」上野修著に収録されております論文「われらに似たるもの」を読み解いていきたいと思います。

主に人間の感情や欲望を扱った「エチカ」第三部の研究となります。

「エチカ」第三部のお供に是非おすすめしたいと思い、記事にしてみました。

人間精神の非十全性

当論文において、しつこいほどに強調されていることとして「人間精神の非十全性」があります。

筆者の主張を理解するために、必要な概念になりますので、最初に解説していきたいと思います。

人間精神の定義として、我々が非十全に認識する限りでの我々の「身体の変状」の観念、及びその観念の観念である。

まずわれわれ人間精神の正体は「身体の観念」であるということが言われます。

人間の「精神」と「身体」は神的本質の有限な表現、同じもののふたつの平行的表現として産出されています。

つまりわれわれ人間の精神は、実体ではなくその有限な様態にすぎないということです。

主体は身体変状の観念のおかげで世界のなかにある自己とその衝動を意識するのだが、このような意識への現前は前提観念がことごとく消失している(非十全な観念)ために「説明」されないもの、「混乱し・毀損した認識」にとどまる。

絶対に無限な実体に対して、「精神」はその一部を構成する有限な様態にすぎず、「精神」による認識は非十全なものにとどまるということです。

このことが以下で具体的に説明されています。

いま延長属性において 個体 aが表現されているとしよう。 それが他の個体x、y、 z等によって刺激されるとき、この刺激のされ方を個体a の身体変状と呼ぼう。身体変状は刺激する物体と刺激される物体の両本性によって理解されねばならない。だからこの身体変状の十全な認識は、個体a、x、y、z等の現実的本性をすべてありのままに知っている神の中にある。つ まりそうした認識をもっているのはそれを帰結するa、x、 y、z等の観念すべてになって思惟している神であって、個体 aではない。しかし個体aは自分の身体変状についてまったく認識を欠いているということはあり得ない。いま個体aの観念となっているかぎりでの神を考えてみよう。 するとこの神は個体aの身体変状の観念を帰結する前提諸観念群のたしかに一部分となって思惟しているわけで、それゆえこの身体変状を非十全にであれ知覚せねばならない。 ところで個体aの観念になっている神とはつまり個体aの精神のことなのだから、この精神は自分の身体に起こって いることを非十全な混乱した仕方で知覚するということになる(E2P9C/D, P11C)。

「精神の非十全性」についてはこのような文章で理解するよりも、図で視覚的にイメージする方がわかりやすいと思います。

松田克進「スピノザ学基礎論」の第1章、第2章に図を使った非常に明快な解説がありますので合わせて読まれることをおすすめします。

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このような「人間精神の非十全性」によって、われわれ人間が自由意志を持っているという間違った自己認識に陥っていることを、筆者は指摘します。

・この意識における非十全な認識のゆえに、主体は自分を「自由な決意」の主体だと考える。

・なぜなら衝動はそれを決定する諸原因の十全な認識から排除されてしか意識されえず、そのため主体は必然的におのれを「自己自身だけからしか意識されえず、そのため主体は必然的におのれを自由な存在として知覚してしまうからである。

ここまでをまとめます。

  • 「人間精神の非十全性」とは「主体は彼の本質が現実化される場所、彼の衝動の生じてくる場所の認識から排除されるという仕方でそこにおり、そのようにしてしか意識を持たない」
  • 「そしてその非十全な精神ゆえに、自己自身を自由意志の主体であると間違って認識している」ということ

欲望とその対象

この章では、われわれ人間がもつ「欲望」というものが考察されますが、筆者の主張は下記のフレーズに集約されます。

  • 「人間精神の非十全性」があるがゆえに「欲望の対象」は「空虚」としてしか表現できない

筆者いわく「欲望の対象」は人間には認識できない「何ものか」としてしか捉えられないということです。

ここでも「人間精神の非十全性」という考えを基礎として論旨が組み立てられているように思います。

以下で詳しくみていきましょう。

まず「欲望」を理解するための下準備として「衝動」の定義づけを行います。

精神の本質を構成する最初にして最も主要なものは現実に存在する身体の観念であるから[…]、われわれの精神の最初にして最も主要なものは、われわれの身体の存在を肯定する努力 (conatus) である」 (E3P10D)。この身体肯定の「努力」、これがスピノザの言う「衝動」なのだ (E3P9S)。

「衝動」とは身体肯定の「努力」であるとしています。

「身体肯定の努力」とは、おのおのの事物が自己の有に固執しようと努める力のことです。

  • ただしその「努力」は、どんな目的意図とも無縁であり、精神は自分の肯定しているのが何なのか、その認識からはまったく排除された場所で肯定に努めているということが言われています。

次に欲望が定義されます。

「欲望とはそれ自身についての意識を伴った『衝動である」

この文章を理解しやすくするためにパラフレーズしてみます。

「欲望とは、本来われわれの精神で捉えることができないものである『何ものか』の代理物として人間意識に現れる『身体肯定の努力』である」

そしてその「何ものか」が欲望の対象であるとされています。

主体は自分の身体の存在力ないし活動力が時々の身体変状によって増大させられたり減少させられたりするのを感じ、これを喜び悲しみの感情として生きている (E3P11S, AGD/Ex)。当然主体は自分を喜ばせるものの現前を追求し、悲しませるものの現前を忌避するだろう。

ただし、主体をとりこにしている現前(喜び悲しみの感情)は、彼の認識から削除されている「何ものか」の代理物としてしか主体に対して現れてくれません。

「欲望の対象とはしたがって、消失している何ものかへと主体を回付して止まない代理表象、意味することを止めない『シニフィアン』である」

  • ここで「シニフィアン」という耳なれない言葉が出てきます。
    筆者の主張を理解するためには「シニフィアン」の意味を把握しておいた方がイメージしやすいと思いますので簡単に説明します。
    片岡一竹「新疾風怒濤精神分析用語辞典」の中で、「記号」と「シニフィアン」の違いが解説されています。
新疾風怒濤精神分析用語辞典 p55より抜粋
  • 記号の特徴は、記号と指示対象が常に一致しているということである。たとえば道路標識を考えればよい。イルカなど動物の言語は記号によってできている。
  • それに対して人間の場合、ひとつの言葉(シニフィアン)とそれがさす概念(シニフィエ)の対応は決まりきったものではない。
  • シニフィアンとは言語の物質的単位であり、具体的に言うと「イエ」とか 「クルマ」とかいう音の側面だが、これはただの音なので意味はない。他方シニフィエとは概念であり、 上と対応させれば「人が住むところ」 や 「車輪によって駆動する乗り物」などであるが、この音と概念の対応関係は必ずしも一つに定められるものではない(「イエ」という言葉は単に「人が住むところ」 を指すのみならず、時に家族の温かさや、自分の帰属意識を表すために用いられることもある)。 むしろ、さまざまなシニフィアンの中で、シニフィエは無限にずれていく。

筆者が言っている「消失している何ものかへと主体を回付して止まない代理表象」という言葉は、この無限にずれていくシニフィエを連想させます。

難しい表現ですが、「主体がやっとの思いで捉えたと思ったそのものは、実は『何ものか』の代理物でしかなく、どんなに『何ものか』そのものの実体を捉えようと奮闘しようとも、無限にずらされてしまい、永遠に欲望の対象である『何ものか』に到達することはできない」というイメージでしょうか。

たとえば対象は換喩的結合として記憶に記載されるので、享楽の対象と同時に見たすべてのものが主体にとって喜びの偶然による原因になってしまう。そこで初回の享楽とまったく同一の全事情が揃うというありそうもないことでもない限り、同じ対象の享楽が反復のたびに欠如を示し、不可解な喪失感を引き起こすようになるはずだとスピノザは論証する (E3P36C)。

筆者は、明らかにラカンの理論と結びつけて「エチカ」第三部を理解しようとしていますね。

  • 欲望の対象である「何ものか」を主体は、絶対に捉えることができないために、欲望が完全に充足されることはありえない

「似たもの」の鏡像としての自我

ここまでの内容では、欲望の対象である「何ものか」と表現されていたもの、つまりさまざまな表象群に取り巻かれていた中心は、「空虚」として描かれていました。

ここからその「空虚」として表現されていた「何ものか」の中身が、より深く考察されていきます。

・「もし誰かが愛の対象を喜ばせると表象するなら主体はこの人にも愛を感じ、逆にそれを悲しませると表象するならこの人に憎しみを感じるだろう。」

・スピノザにとっての他者は、「対象と癒着的に生じた自分の喜びや悲しみの『外部原因』をその対象の外に認め、これを愛しあるいは憎みはじめるようになる」そのような力をもった侵入者として現れる。

その「空虚」として表現されていた「何ものか」を埋めにやってくるものがあるとすれば、それは「他者」とともにやってくるとされます。

そして「われわれに似たもの」としての「他者」は、スピノザが「感情の模倣」 (E3P27S) と呼ぶ入り口から入ってくることが言われます。

・「われわれに似たもの (res nobis similis) で、 かつそれに対してわれわれが何の感情も抱いていないものがある感情に刺激されていると表象すると、それだけでわれわれは似たような感情に刺激される」(E3P27)。 実際子供を見ていると、他の者が泣いたり笑ったりするのを見るだけで自分も泣いたり笑ったりするし、他の者が何かするのを見ればすぐに模倣しようとし、他の者が何かを享楽していると想像すると何でもおかまいなしにそれを自分のものにしたがる(E3P32S)。

・主体が然々の他者を「自分に似たもの」と同定し、そのうえで相手の感情を真似してやろうというのではなく、「他者」は無動機かつ無意識的な模倣衝動とともに、「自分に似ているもの」というときの「自分」と「似ているもの」とがいずれを原型とも決定し得ぬ対として、一挙に与えられる。

このように筆者は、感情模倣による「他者の鏡像としての主体」というものを捉えようとしています。

相互に称賛と非難に値する自由意志の主体という幻想

この章では「他者の鏡像としての主体」が、自己自身を自由意志の主体であるという間違った認識を持ってしまうまでの過程が考察されます。

・いったん記憶に記載された同類の表象像は、類似による反復を通じて不特定な「人々」という表象となり、そこから鏡像に代理された主体は、道徳的存在としても自己を引き受けるようになる。

・「われわれは人々があるものを愛しあるいは憎むと表象すると、それだけでそのものを愛しあるいは憎むであろう」 (E3P29D)。それゆえ「われわれは人々が喜びを以て眺めると自分の表象するすべてのことをなそうと努め、また反対に人々が嫌悪すると自分の表象することをなすのは嫌悪するであろう」(E3P29)

根源的な「感情模倣」の作用により、主体は自己以外の「自らに似た同類」全体に対して、「道徳的存在としての自己」というイメージを守ろうとします。

一言に集約すると、そもそもの性質としてわれわれ人間は「名誉欲」に振り回されてしまうようにできている、という感じでしょうか。

道徳的内面性のはじまりだ。主体はそうした自分の努力が同類一般を喜ばせあるいは悲しませると表象すると、それだけで自分も喜びあるいは悲しみに刺激されてしまう。主体の味わうこの喜びや悲しみは実はすべて感情模倣の仕業なのだが、主体はそうした真の原因を知らないので自分自身がその「原因」なのだと意識してしまう (E3P30D)。 外部の対象ではない、他ならぬ「自分自身のせい」で喜びあるいは悲しみの一撃を食らったのだと主体は考えるだろう。そこから自由なるがゆえに報いを受くべき存在という倒錯へと向かうことになる。

  • 主体は、「感情模倣」が原因であるにすぎない自らの喜びや悲しみを、自己自身がそれらの原因であると取り違えることによって、自己自身を行為の自由な主体であるという間違った錯覚に陥ってしまっている

筆者の主張としてはつまり、本当はわれわれ人間に『自由意志』などないのだが、根源的な「感情模倣による錯覚が原因で自らを「自由意志の主体」であると間違って認識してしまっている、ということです。

そこにあるのは、ただ「他者の鏡像としての主体」が根源的な名誉欲に振り回された末の、「感情模倣」にすぎないということなんだね。

そしてそのような「自由意志を持つ主体」という自己認識の帰結として、必然的に以下のような要求を持つようになると言われます。

「自由意志の主体」が感情の模倣を引きずった他者の鏡像であることに変わりはない。主体は自己肯定のたびに、他者とのある種の幻想的な相互性に引きずり込まれていく。他者がそこにいるというだけで、やむに止まれぬ要求が生じてくる。

①承認の要求

・「各人は自分の愛するものを人々も愛するように、また自分の憎むものを人々も憎むように、できるだけ努めるということになる」(E3P31C)。

・できるだけ多くの人に自分の意向を承認させようとする「名誉欲」が生まれる。

②所有の要求

・主体は他人の独占を許しはしない「妬み」が生まれる。

③執拗な愛の要求

・主体は絶対的な愛し返しを要求する。主体は愛し返しが自分以外の第三者に振り向けられるのは我慢ならず、そのような第三者を妬み、かつ愛する相手を憎み嫉妬するだろう。

④責任の要求

・これらの他者への愛憎は、自分と鏡像的な関係にある同類を「自由な存在」として表象することによってさらに倍化させられる。愛にせよ憎しみにせよ、相手が「自分に似たもの」だというだけで、他に持ってゆきどころのない法外な感情になってしまう。

差異の欲望

この章での結論を先に提示しておきます。

  • 人間は「本姓上妬み深い」
  • 人間は「自分と同等のものの弱小を喜び、反対に自分と同等のものの力強さを悲しむ」ように出来ている。

それを説明するために以下のような解説がなされています。

名誉欲・所有欲・愛といった欲望 は、「自分に似た他のものが何かに対する欲望を有すると表象することからわれわれのなかに生じる同じ欲望」、すなわち模倣性の「競争心」 (E3P27S) と初めから不可分である。

同じ他者からの承認、同じ獲得すべき事物、 同じ愛するものをめぐって、傍らに付きまとい私の欲望を掻き立てている第三者がいる。そもそも他者と想像的自我が初めから模倣衝動で結び付けられているかぎり、このような欲望の三角形は避けられない 。そうした競争的分身としての「自分に似た他のもの」、これこそスピノザが特に「自分と同等のもの」と呼ぶものにほかならない。 主体はそのようなライバルとの競争においておのれの力を測り、その依り代として「わが姿」を欲望するだろう。

ここまで「われわれに似たもの」と言われていたものが「自分と同等のもの」という概念に置き換えられて考察されます。

  • 人間は、差異がもっとも取るに足らぬはずである「自分と同等のもの」としか張り合おうとしない。

なぜなら、主体が肯定しようと努める「何ものか」つまり、欲望の対象である「われわれに似たもの」が、まさに「自分に似ているもの」の鏡像でしかないからです。

だがなんと奇妙なゲームだろう。 主体が差異の欲望に駆られているのは、まさにスピノザが指摘するとおり「自分と同等のもの」、差異がもっとも取るに足らぬはずのものとの比較においてなのだ。じっさい主体は自己の本性から生じ得ることしか欲望しない以上、自己の本性に無関係だと思われるような能力を欲しはしない (E3P55C2D)。樹木が自分より高く、獅子が自分より強いからといってそれを人は妬みはしないように、人は「自分と同等のもの」としか張り合おうとはしないのである。それはまさに、主体が肯定しようと努める自我のイマゴが、その初めから「自分に似ているもの」の鏡像でしかなかったからなのだ。

そう考えていくと、われわれ人間は他人の目を通した自分自身の像をひたすらに追い回しているとも言えるのではないでしょうか。

主体は他人たちを比較しあれこれ想像的に評価するだけで、そのたびに己れの想像的自我へと屈曲する喜びや悲しみに刺激され、またもやその原因として「自己自身の観念を意識する 」 ことになる。人々からの称賛や非難で味わったあの「自己満足」と「後悔」が、今度はしかじかの想像的他者を評価するたびに強化されてしまう、というわけだ

さらに、「自己自身が自由意志の主体である」という幻想さえも「自分自身と同等のもの」との比較により強化されてしまいます。

結論

論文全体の結論としては、以下の記述に尽きていると思いますので本文から引用します。

・「衝動、すなわち身体の肯定は「自分と同等のもの」との差異の欲望に行き着く。それは結局は称賛さるべき 「わが姿」を、個々の「自分と同等のもの」との差異において肯定し、かつそれを「自分に似た同類」全体に対して承認させようとする模倣性の欲望、つまりはライバル意識に燃えた「名誉欲」である。「名誉欲はすべての感情を育み強化する欲望」であり、「人間はなんらかの感情に囚われている間は必ずや同時に名誉欲に囚われている」(E3AD44Ex )とスピノザが強調するのはそのためである。しかしその欲望は自らをそのようなものとしては知らない。なぜなら主体はそれを模倣性の欲望だとは認めず、むしろその衝動を自分の自由な意志だと誤認しているのだから。そこから結果してくるのは、スピノザが指摘するように万人を万人に依存させ、かつ万人を万人に対立させる〈名誉の闘争〉にほかならない。このことをすべての人が等しく欲望するがゆえにすべての人が等しく互いに障害になり、またすべての人がすべての人から称賛されよう愛されようと欲望するがゆえに、すべての人が相互に憎みあうことになる」 (E3P31S)。

・繰り返そう。スピ ノザにとって欲望は意識されるかぎりにおける衝動である。しかし 意識はその原因を知らない。欲望が関わりあっているのは「前提を欠いた結論」のような代理表象なのだ。主体はそのなかの特権的対象として称賛と非難に値する自由意志の主体という自分の姿に籠絡されるが、そのイマゴは初めからすり替えられた別のもの、すなわち想像的他者の鏡像ないしシミュラークルにすぎない。

まとめ

いかがだったでしょうか。

私自身の「エチカ」第三部解釈において、当論文に多くを負っているためでしょうか、できるだけコンパクトに筆者の主張をまとめてみたつもりですが、結構な分量になってしまいました。

表現は独特で難解な部分もありますが、これ以上ないほどに明快に人間の欲望について考察されているように思います。

最後に、論文を通しての論旨をおさらいして終わりにしたいと思います。

  • 衝動とはすなわち名誉欲である。それは、「わが姿」を「われわれに似た同類」全体に対して承認させようとする「模倣性の欲望」である。
  • そしてその欲望は「人間精神の非十全性」により欲望の対象である「何ものか」を決して捉えることができない。
  • 主体はそれを模倣性の欲望だとは認めず、自分自身を「自由意志の主体」であると誤認している。
  • 主体が自らの自由意志によって欲望していると認識しているその対象は、想像的他者の鏡像にすぎない。

言うまでもないことですが、筆者の主張を真に理解するためには実際の論文を読んでいただくに優ることはありません。

何度も読んで、その明快さを実感していただければと思います。

この記事が思考の整理に少しでも役立てば幸いです。

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