第一性の遡及的成立③――第一性は関係や構造から独立して成立するのか

哲学全般
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はじめに――第一性の遡及的成立を存在論的な問題へ

前回の記事では、「第一性の遡及的成立」を次のように定義した。

第一性の遡及的成立とは、あるものが第一のものとして位置づけられる意味や根拠が、そのものから展開される諸関係や、成立条件を含む全体的な構造の理解を通して、遡及的に確定することである。

この定義において重要なのは、第一性が単に後から発見されることと、第一性の意味や根拠が遡及的に確定することとを区別した点にある。

ある原理Aが体系の出発点として置かれているとしよう。Aは、その体系の構築において最初に措定されている。しかし、Aがなぜ第一の原理なのか、Aがどのような意味で他の諸命題に先行するのかということは、Aから展開される諸命題を理解することによって、初めて十分に明らかになる可能性がある。

このとき、Aが最初に置かれているという事実と、Aが第一の原理として成立する意味や根拠が確定することとは、同一ではない。

ところが、この区別を認めたとしても、さらに重大な問題が残る。

あるものが第一のものとして理解されるために、そのものから展開される諸関係や、全体的な構造の理解が必要だとしても、そこから第一性そのものが後続するものによって成立すると結論することはできないのではないか。

この反論は妥当である。

あるものの存在と、そのものについての理解とは区別されなければならない。また、あるものが第一のものとして認識されることと、そのものが存在論的に第一であることも同じではない。

したがって、認識や説明における遡及性から、存在論的な成立についての主張へと移行するためには、追加の論証が必要となる。

本稿では、この問題をさらに掘り下げたい。

そのために、まず第一性という概念に含まれる複数の意味を区別する。次に、スピノザの『エチカ』第一部における神の存在論的な第一性と、その存在証明が展開される説明上の順序を検討する。さらに、第二部定理7における観念の秩序と事物の秩序の同一性を取り上げ、認識上の遡及性と存在論的な秩序との関係を考察する。

ただし、本稿の目的は、スピノザの体系によって「第一性の遡及的成立」を証明したと主張することではない。

むしろ、特定の哲学体系に依拠する議論から、より一般的な存在論的問題へ進むために、何を区別し、何を論証しなければならないのかを明確にすることにある。

その考察を通じて、次の問いに到達したい。

存在論的に第一であることと、ある構造において第一性が成立することは、同じなのだろうか。

この問いは、第一性の遡及的成立を認識論的な問題にとどめず、存在論的な理論として展開するための重要な出発点になると考える。

1.第一性という概念の多義性

第一性の遡及的成立を考えるにあたり、まず「第一である」という表現が何を意味するのかを明確にしなければならない。

あるものが第一であるといわれる場合、少なくとも次の三つの意味を区別できる。

第一に、時間的に先行することである。

ある出来事Aが出来事Bより先に起こったならば、AはBに時間的に先行している。この場合、第一性は時間的な順序によって規定される。

第二に、存在論的に先行することである。

あるものAが、他のものBの存在や成立の根拠である場合、AはBに対して存在論的に先行しているといえる。この先行性は、必ずしも時間的な先後を意味しない。原因と結果が時間的に同時であっても、原因が結果の存在論的な根拠であるという関係は成立しうる。

第三に、説明上、あるいは認識上、先行することである。

ある命題や概念を理解するために、別の命題や概念を先に理解する必要がある場合、後者は前者に対して説明上、あるいは認識上、先行している。

これらの区別は重要である。

時間的に最初のものが、必ずしも存在論的に第一であるとは限らない。また、存在論的に第一であるものが、必ずしも説明の順序において最初に証明されるとも限らない。

たとえば、ある結果の原因を説明する場合、原因は結果に対して存在論的に先行している。しかし、私たちがその結果を観察することから認識を始め、そこから原因を推論することもできる。この場合、認識の順序は存在論的な依存関係の順序と一致しない。

したがって、第一性について論じる際には、何に対して、どのような意味で第一であるのかを明確にする必要がある。

この区別を踏まえるなら、第一性の遡及的成立という問題も、単に最初に置かれたものが後から理解されるという問題ではないことがわかる。

問題は、あるものが第一のものとして理解される過程と、そのものが第一のものとして成立している根拠との関係にある。

ここで、第一性の遡及的成立について、次の二つの命題を区別しておきたい。

命題A:認識上の第一性の遡及的確定

あるものが第一のものとして理解される意味や根拠は、そのものから展開される諸関係や、全体的な構造の理解を通して、遡及的に確定することがある。

命題B:存在論的な第一性の遡及的成立

あるものが第一のものとして成立するための条件は、そのものと他のものとの関係や、全体的な構造との関係によって規定されることがある。

命題Aは、認識や説明の過程に関する主張である。命題Bは、あるものが第一のものとして成立する条件に関する主張である。

命題Aが成立することから、命題Bが直ちに成立するわけではない。

あるものについての理解が後から変化したとしても、そのものの存在が変化したとは限らないからである。

しかし、ここで命題Bを、あるものの存在そのものが後続するものによって時間的に生み出されるという主張に限定する必要もない。

あるものが存在していることと、そのものが特定の構造において第一のものとして成立していることとは、異なる問題である可能性がある。

この可能性を検討することが、本稿の中心的な課題となる。

2.存在論的な第一性と説明上の第一性――スピノザの『エチカ』を手がかりに

第一性の遡及的成立を考えるうえで、スピノザの『エチカ』は重要な事例を提供する。

スピノザにとって、神は存在論的に第一である。

第一部定義6において、神は次のように定義される。

Per Deum intelligo ens absolute infinitum, hoc est, substantiam constantem infinitis attributis, quorum unumquodque æternam, & infinitam essentiam exprimit.

「『神』によって私は、絶対的に無限な存在者、すなわちその一つひとつが永遠かつ無限な本質を表現する無限に多くの属性において成り立つ実体、と解しておく。」

ここで神は、世界の時間的な始まりに存在した最初の存在者として定義されているのではない。

神とは、絶対に無限な実体であり、有限な事物がその外部に独立して存在することを認めない、スピノザの形而上学の根本概念である。

第一部定理15では、次のように述べられる。

Quicquid est, in Deo est, & nihil sine Deo esse, neque concipi potest.

「何であろうとあるものはすべて神の中にあり、神なしには何ものもありえずまた考えられることもできない。」

また、第一部定理18では、神はすべてのものの内在原因であり、推移(超越的)原因ではないとされる。

※ 推移原因についてはスピノザ全集版『エチカ』の第一部訳註54を参照。

これらの命題によれば、神は有限な事物とは独立した一つの存在者として、それらの事物の外部に位置しているわけではない。神は、すべての事物が存在し、理解されるための存在論的な根拠である。

したがって、スピノザにおける神の第一性は、時間的な先行性ではなく、存在論的な先行性として理解されなければならない。

ところが、『エチカ』の論証の順序を見ると、ここには興味深い問題が生じる。

第一部では、まず八つの定義と七つの公理が提示される。その後、実体や属性に関する命題が順次証明され、定理11において神の必然的存在が論証される。

第一部定理11の冒頭は、次のように述べられている。

Deus, sive substantia constans infinitis attributis, quorum unumquodque æternam, & infinitam essentiam exprimit, necessario existit.

「神、言いかえれば、その一つひとつが永遠かつ無限な本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体は、必然的に存在する。」

神の概念はすでに定義6に導入されている。しかし、神が必然的に存在するという命題は、定理11に至って初めて証明される。

この点から、存在論的な第一性と、説明上の順序とが異なることがわかる。

ただし、この違いをどのように解釈すべきだろうか。

ここで注意しなければならないのは、定義や公理が神よりも存在論的に先行していると結論してはならないということである。

『エチカ』において、定義や公理が神の存在論的な根拠となっているわけではない。論証において先に置かれていることと、存在論的に根源的であることとは別だからである。

むしろ、ここで確認できるのは、存在論的に第一であるものについての証明が、説明上の一定の順序を経て展開されるということである。

神が存在論的に第一であるとしても、神の必然的存在を証明するためには、神の定義だけでなく、実体や属性に関する諸命題を論証の中で位置づける必要がある。

この意味で、スピノザの体系は、存在論的な順序と説明上の順序とが単純には一致しない事例を提供している。

しかし、ここから神の存在論的な第一性が、定理11に至る論証の過程によって成立すると結論することはできない。

神の存在が証明されることと、神が存在することとは同じではない。また、神の第一性が論証によって明らかにされることと、神の第一性そのものが論証の過程によって生み出されることも同じではない。

したがって、『エチカ』の構成から直接導かれるのは、存在論的に第一であるものが、説明上の順序において必ずしも最初に証明されるわけではないということである。

この事例は、第一性の遡及的成立をそのまま証明するものではない。

しかし、第一性という概念を考えるうえで、重要な問題を提起している。

それは、存在論的に第一であることと、ある体系の中で第一のものとして位置づけられることとの間には、どのような関係があるのかという問題である。

3.認識上の遡及性から存在論的な遡及性へ――第二部定理7の意義

前節では、スピノザの『エチカ』において、存在論的な第一性と説明上の順序とが単純には一致しないことを確認した。

しかし、この事実だけでは、認識上の遡及性を存在論的な問題へと接続することはできない。

そこで注目したいのが、第二部定理7である。

Ordo, & connexio idearum idem est, ac ordo & connexio rerum.

「観念の秩序と連関は、事物の秩序と連関と同一である。」

この定理は、スピノザの認識論と存在論の関係を考えるうえで重要な位置を占めている。

スピノザにとって、観念の秩序と事物の秩序は、互いに独立した二つの系列ではない。

思惟と延長は、唯一の実体である神の属性である。観念と物体は、それぞれ思惟と延長という異なる属性のもとで理解されるが、その秩序と連結は同一である。

したがって、観念の秩序を理解することと、事物の秩序を理解することとは、完全に無関係な営みではない。

この点は、認識上の第一性と存在論的な第一性との関係を考えるうえで重要である。

通常、あるものが後から理解されるようになったとしても、その認識上の変化から、そのものの存在論的な位置づけが変化したと結論することはできない。

しかし、スピノザの体系では、観念の秩序と事物の秩序との間に、単なる外的な対応関係以上のものが認められている。

そのため、認識の側で捉えられる秩序についての議論を、存在の側で成立する秩序から完全に切り離すことはできない。

ここから、第一性の遡及的成立について、次のような問題を設定できる。

あるものが第一のものとして理解されるために、そのものから展開される諸関係や、全体的な構造の理解が必要であるとする。

このとき、その理解の過程で明らかになる関係は、単に認識主体が対象を理解するために利用するものなのだろうか。

それとも、その関係は、対象そのものが特定の秩序に位置づけられることと関係しているのだろうか。

第二部定理7は、少なくともスピノザの体系において、認識の秩序と存在の秩序を完全に切り離すことができないことを示している。

しかし、この定理から、あるものの存在論的な第一性が後続するものによって成立するという結論が直接導かれるわけではない。

なぜなら、観念の秩序と事物の秩序が同一であることと、あるものが第一性を獲得するための条件が後続する関係によって構成されることとは、異なる命題だからである。

第二部定理7は、第一性の遡及的成立についての完成した論証ではない。

むしろ、この定理の意義は、認識上の遡及性と存在論的な秩序との関係を考えるための理論的な出発点を与えることにある。

ここから得られるのは、次のような限定された結論である。

認識上の第一性についての議論を存在論的な問題へと接続するためには、認識の秩序と存在の秩序との関係を明らかにする必要がある。スピノザの第二部定理7は、その関係を考察するための一つの理論的な手がかりとなる。

ただし、これを一般的な存在論的主張として成立させるためには、スピノザの形而上学に依拠するだけでは不十分である。

次に、この限界をより明確にしておきたい。

4.特定の哲学体系から普遍的な論証へ進むために

ここまでの考察には、一つの限界がある。

それは、スピノザの体系において認識上の秩序と存在論的な秩序との関係を論じることができたとしても、それだけでは「第一性の遡及的成立」が普遍的に成立することを論証したことにはならないという点である。

スピノザにおいて、観念の秩序と事物の秩序が同一であることは、彼の実体論や属性論と結びついている。

したがって、第二部定理7をそのまま根拠として、あらゆる哲学体系において認識の秩序と存在の秩序が同一であると主張することはできない。

スピノザの体系を受け入れることによって成立する論証と、その体系を前提とせずに成立する一般的な論証とは、区別されなければならない。

では、第一性の遡及的成立を、特定の哲学体系に依存しない理論として展開するには、何が必要なのだろうか。

ここでは、二つの可能性を区別する必要がある。

第一の可能性は、ある哲学体系の内部において、その体系の第一原理がどのように理解され、正当化されるのかを明らかにすることである。

この場合、第一性の遡及的成立は、体系の内部における第一原理の意味や根拠の確定についての理論となる。

第二の可能性は、ある哲学体系の内部における議論を超えて、第一性そのものが成立する条件を一般的に明らかにすることである。

この場合、問われるのは、第一原理が特定の体系においてどのように正当化されるかだけではない。

そもそも、あるものが第一のものとして成立するためには、どのような条件が必要なのかという問題である。

両者は関連しているが、同じではない。

第一の問題について一定の結論が得られたとしても、第二の問題が解決されたことにはならない。

この点を踏まえるなら、スピノザの『エチカ』を分析することの意義も明確になる。

スピノザの体系は、第一性の遡及的成立が普遍的に成立することを証明するための完成した根拠ではない。

しかし、存在論的に第一であるものと、説明の秩序において第一のものとして理解されることとの関係を分析するための重要な事例である。

この事例を通じて、第一性についての議論に必要な区別を明確にし、より一般的な理論の構築に向けた課題を抽出することができる。

その課題とは、第一性が成立する条件を、第一性そのものの存在論的な根拠から区別して考えることである。

この区別を導入することによって、特定の哲学体系の内部で成立する論証と、第一性という概念そのものに関する一般的な論証とを、明確に分けて考えることが可能になる。

5.第一性は、そのものの内在的な性質だけで決まるのか

ここで、議論をさらに一歩進めたい。

あるものが第一であるとき、その第一性は、そのもの自体の性質だけによって決まるのだろうか。

それとも、そのものが他のものとどのような関係にあり、どのような構造の中に位置づけられているのかということも、第一性を規定する条件となるのだろうか。

この問いに答えるためには、第一性そのものと、ある構造における第一性とを区別する必要がある。

まず、あるものが存在論的に第一であるということは、そのものが他のものの存在や成立の根拠であることを意味する場合がある。

スピノザにおける神は、その典型的な事例である。

神は有限な事物の存在論的な根拠であり、有限な事物によって初めて存在するものではない。

この意味で、神の第一性は、有限な事物との関係によって外側から付与されるものではない。

しかし、あるものが特定の構造において第一のものとして成立するという場合、その第一性は、単にそのものが存在しているという事実だけでは尽くされない可能性がある。

たとえば、ある体系の第一原理について考えてみよう。

その原理が体系の最初に置かれているという事実だけでは、その原理がなぜ第一の原理なのかは十分に説明されないことがある。

その原理からどのような命題が導かれるのか、他の命題がどのようにその原理に依存しているのか、その原理が体系全体の説明にどのような役割を果たすのかを理解する必要があるからである。

この場合、第一原理が体系の最初に置かれているという事実と、その原理が体系全体の第一原理として成立する根拠とは区別される。

さらに、ある原理が第一のものとして成立するための条件に、他の命題との関係が含まれる可能性もある。

このとき、他の命題が第一原理の存在を生み出すわけではない。

しかし、他の命題との関係が、その原理が特定の体系において第一のものとして成立するための条件を構成している可能性がある。

ここで重要なのは、第一性を、あるものに最初から備わっている単純な属性としてのみ理解することの限界である。

第一性が何を意味するのかは、そのものがどのような関係に置かれ、どのような構造において何を説明するのかということに依存する場合がある。

ただし、この点から、あらゆる第一性が関係や構造によって成立すると結論することはできない。

存在論的な第一性が、他のものとの関係から独立して成立する可能性は、依然として残されている。

したがって、ここでの問題は、第一性が必ず関係的に成立するということではない。

むしろ、第一性がそのものの内在的な性質だけによって成立する場合と、他のものとの関係や全体的な構造が成立条件に含まれる場合とを、どのように区別するのかという問題である。

この問いを明確にすることによって、第一性の遡及的成立を、単なる認識上の現象ではなく、存在論的な問題として検討するための道筋が見えてくる。

6.存在論的な第一性と、構造における第一性は同じなのか

ここまでの議論を整理しよう。

第一に、あるものが第一のものとして理解される意味や根拠は、そのものから展開される諸関係や、全体的な構造の理解を通じて遡及的に確定することがある。

第二に、この認識上の遡及性から、そのものの存在論的な第一性が後続するものによって成立すると結論することはできない。

第三に、スピノザの『エチカ』は、存在論的に第一であるものと、説明上の順序において第一のものとして証明されることとが異なる事例を提供している。また、第二部定理7は、認識の秩序と存在の秩序との関係を考察するための理論的な手がかりとなる。

第四に、しかし、これらの考察だけでは、第一性の遡及的成立が特定の哲学体系を超えて普遍的に成立することを証明したことにはならない。

ここから、次の問題が導かれる。

存在論的に第一であることと、ある構造において第一性が成立することは、同じなのだろうか。

この問いに対して、少なくとも二つの回答が考えられる。

一つは、ある構造における第一性も、最終的にはそのものの存在論的な第一性に還元されるという回答である。

この立場では、あるものが体系の第一原理として位置づけられるのは、そのものがすでに存在論的に第一であるからであり、後続する諸関係は、その第一性を明らかにする役割を果たすにすぎない。

この場合、第一性の遡及的成立は、第一性の意味や根拠が認識上、遡及的に確定することを意味するにとどまる。

もう一つは、ある構造における第一性には、そのものの存在論的な第一性には還元できない固有の成立条件があるという回答である。

この立場では、あるものが存在論的に第一であることと、そのものが特定の構造において第一のものとして成立することとは、異なる問題となる。

あるものが存在論的に第一であったとしても、そのものが特定の体系の第一原理として成立するためには、その体系を構成する諸関係が必要である場合がある。

この場合、第一性は、そのものの内在的な性質だけではなく、そのものが構造全体の中で占める位置や、その構造を成立させる条件によっても規定されることになる。

ただし、後者の立場を採用するためには、構造における第一性が、存在論的な第一性に還元できないことを論証しなければならない。

単に、ある原理の意味が後から明らかになるというだけでは不十分である。

必要なのは、他のものとの関係や全体的な構造が、その原理を第一のものとして理解するための条件にとどまらず、その原理が特定の構造において第一性をもつための成立条件そのものになっていることを示すことである。

したがって、ここで問われているのは、第一性が認識の過程で遡及的に理解されるかどうかだけではない。

問題は、第一性そのものが、関係や構造から独立して成立しうるのかということである。

この問いに対する回答によって、「第一性の遡及的成立」がどのような理論として成立しうるのかも変わってくる。

もし第一性が常にそのものの内在的な性質だけによって成立するのであれば、第一性の遡及的成立は、基本的には認識や説明の秩序についての理論となるだろう。

反対に、ある構造における第一性の成立条件に、そのものと他のものとの関係が不可欠に含まれることを論証できるならば、第一性の遡及的成立は、存在論的な理論として展開される可能性がある。

ただし、その場合にも、関係や構造が第一性の成立条件となることと、そのものの存在そのものが関係や構造によって生み出されることとは、区別されなければならない。

この区別を維持することによって、第一性の遡及的成立は、単純な認識論にも、あらゆるものを関係に還元する存在論にも陥ることなく、第一性の成立条件そのものを問う理論として展開されうる。

7.結論――第一性の成立条件を問うために

本稿では、第一性の遡及的成立を、認識上の問題から存在論的な問題へと展開するための条件を検討した。

まず、第一性には時間的な先行性、存在論的な先行性、説明上・認識上の先行性という異なる意味があることを確認した。

次に、スピノザの『エチカ』を取り上げ、神が存在論的に第一である一方、その必然的存在が定義や公理から始まる論証の過程を経て証明されることを確認した。

また、第二部定理7における観念の秩序と事物の秩序の同一性を検討し、認識上の遡及性と存在論的な秩序との関係を考えるための理論的な手がかりを得た。

しかし、これらの考察だけでは、第一性の遡及的成立が存在論的に成立することを証明したことにはならない。

認識上の第一性が遡及的に確定することと、存在論的な第一性そのものが関係や構造によって成立することとは、異なる主張だからである。

したがって、第一性の遡及的成立を一般的な存在論的理論として展開するためには、特定の哲学体系における事例を分析するだけでは不十分である。

必要なのは、第一性そのものが成立する条件を明らかにすることである。

この問題を考えるためには、まず、あるものが存在論的に第一であることと、ある構造において第一性をもつこととを区別しなければならない。

そして、両者が同じであるのか、それとも異なる成立条件をもつのかを検討する必要がある。

本稿では、この問題に対する最終的な回答を提示することはできなかった。

しかし、第一性の遡及的成立を存在論的な問題として展開するためには、どのような論証が必要なのかを明確にすることはできたと考える。

すなわち、認識上の遡及性から存在論的な成立へ移行するためには、第一性が何を意味するのかを分析し、その成立条件に関係や構造がどのように関与するのかを明らかにしなければならない。

ここで改めて、次の問いを提示したい。

存在論的に第一であることと、ある構造において第一性が成立することは、同じなのだろうか。

この問いは、第一性の遡及的成立を単に認識の順序についての理論にとどめるのか、それとも存在論的な成立条件についての理論へと展開できるのかを左右する。

そして、その問いをさらに掘り下げるならば、次の問題に到達する。

第一性そのものは、何らかの関係や構造から独立して成立しうるのだろうか。

もし第一性が関係や構造から独立して成立しうるのであれば、第一性の遡及的成立は、どのような意味で存在論的な理論となりうるのか。

反対に、第一性が成立するために関係や構造が不可欠である場合、それは第一性という概念そのものをどのように変えることになるのか。

この問題を明らかにすることが、第一性の遡及的成立を、特定の哲学体系の内部にとどまらない理論として展開するための次の課題となる。

参考テクスト

  • ラテン語原文はSpinoza, Baruch, Éthique, texte latin établi par Carl Gebhardt, présenté et traduit par Bernard Pautrat, Paris, Éditions Points, 2014.から引用した。
  • 邦訳については、スピノザ全集版『エチカ』上野修訳から引用した。

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