上野修「無数に異なる同じもの」を解説してみた

スピノザ
当サイトはアフィリエイト広告を利用しています

こんにちは、OGKです。当ブログにおいて、記念すべき初めての記事になります。

今回は、講談社学術文庫「デカルト、ホッブズ、スピノザ」上野修著に収録されております論文「無数に異なる同じもの」を読み解いていきたいと思います。

当論文はスピノザ解釈史において歴史的に論争を巻き起こしてきた「属性の問題」について、筆者の回答を提示している内容となります。

ある程度、実体や属性のついての基礎的知識を持っている前提で解説させていただいておりますので、まだの方は先に「スピノザの世界」など入門書で基礎知識をつけてから読んでいただいたほうがわかりやすいと思います。

「属性の問題」に関するその他の解釈については、松田克進「スピノザ学基礎論」の第4、5章に詳しいので、そちらも合わせて読まれることをおすすめします。

¥6,252 (2024/03/12 16:12時点 | Amazon調べ)

「属性論争」

まず前提知識として「属性の問題」について簡単に解説します。

属性の問題は,すでにスピノザの生前に彼の友人シモン・ド・フリース (Simon J. de Vries: 1633/34-1667) によって指摘された問題でありまた 19 世紀および20世紀において研究者の間で、 『属性論争』 と呼ばれる論争を引き起こした問題でもある。

上記「スピノザ学基礎論」第4章冒頭の記述から「属性の問題」はスピノザ解釈史において歴史的に議論されてきたことがわかります。

スピノザのテキストにおいて、矛盾と思われる概念をどのように解釈して、調停するのかこれまでの研究者の間で長年議論されてきたわけですが、それはどのような矛盾だったのでしょうか。

属性の問題とは何か

「多くの属性が存在し、かつ唯一の実体が存在する」というテーゼとともに「属性と実体とは同じものである」という主張も同時にスピノザのテキストに存在するが、そのようなことはいかにしてありえるのか。

「属性の問題」を一言で表現してみました。

つまり「属性の問題」とはスピノザのテキストにおいて、「唯一実体テーゼ」と「複数属性テーゼ」をどのように調停するのか、という問題になります。

  • 「唯一実体テーゼ」:実体が唯一個存在する。
  • 「複数属性テーゼ」:属性が無限個存在する。
  • 「〈属性・実体〉同一説」:属性と実体とは同じものである。

これらのテーゼが同時に成り立つことは不可能であり、この三竦みの関係をどのように解決するのか、それが「属性の問題」ということです。

「観念論的解釈」と「実在論的解釈」

ここからは、当論文における筆者の主張を詳しくみていきたいと思います。

上記のような属性の問題については、解釈史から見て大きく二つの立場「観念論的解釈」と「実在論的解釈」があります。

  • 観念論的解釈:属性は実体の主観的像であるとする解釈。この立場をとると「属性の問題」を解決することができる。
  • 実在論的解釈:属性は客観的な実有であるとする解釈。この立場をとると「属性の問題」を解決することが困難になってしまう。

筆者は下記のような記述から明らかに「実在論的解釈」をとっています。

・スピノザははっきりと属性を知性の外にそれ自体としてある差異、それも実体の差異に等しい実在的差異として考えている。

・スピノザの理解する属性は存在するものの実在的な特質として実体とぴったり重なっているのである。

ただし、実在論的解釈をとった場合、属性の問題が解決されるわけではなく、「複数属性と唯一実体の調停の困難」という問題は依然として残ったままになってしまいます。

実体には数がない

ここからは、筆者が実在論的解釈をとった上で「属性の問題」をどのように解決するのかを見ていきたいと思います。

・神が諸実体から複合されるとすると、必然的に観念論的解釈に陥らないわけにはいかないということはスピノザ自身も「形而上学的思想」の中で自ら確認している。(CM2/5,pp.258-259)

・にもかかわらず、スピノザは反対に属性の差異をあくまでも「実在的区別」として維持し、属性によって区別される実体はすべてそれ自身で存在する自己原因であるとする。

つまりスピノザ自身も「属性の問題」に気づいた上で、それでもあえて観念論的解釈をとらず、属性を実在的なものとして定義しているというのです。

そこにはスピノザの実体解釈における数の概念の捉え方があります。少し長くなってしまいますが本文から引用します。

・全く頭を切り替えてこう考えねばならない。 そもそも「寄せ集め」が前提としているような数的差異というものをスピノザの「実体」は持ってはいない、実体には数がないのだと。

・じっさい「われわれはものを共通の類に還元した後でしかそのものを数の概念のもとに考えることはできない」のであって、例えば手にした一枚の銅貨と銀貨は、それが「貨幣」という同一名称で呼びうる限りにおいてはじめて「二つ」と数えることができるのである。 ものを一とか唯一とか呼ぶのも同じで、それは「そのものと同じ類の他のものを考えた後でしか」可能でない。しかし神の本質については「何ら一般的観念を形成することが 「できない」のだから、それを一とか唯一とか名付ける者は 「神についての真の観念を有せず、あるいは神について不適当な語り方をしている」のである (Ep 50, pp.239-240)。

・もし実体が多として数えられるとしたらそれは共通する何らかの「類」ないし「種」のもとでのみ可能なわけだが、このことは、異なる属性を有する実体が「それ自身によって考えられ」 (E1D3) かつ「たがいの間に共通点を全く持たない」 (E1P2) というスピノザの規定に明白に反するからである。

・実体はたしかに属性によって実在的に区別されるが、しかしそのように区別された諸実体を、あたかも「実体」という一般観念のもとで種や個体を数えるようには数えることはできないし、ましてや神的実体を諸実体の 「最高類」のように考えることもできない。同様に、無数の実体が集合して神という「全体」を形成すると考えることはできないし、また単純で単一な神が諸々の実体という 「部分」に分割される恐れもない。そもそも「実体」は絶対に無限な神的実体と解されようと、属性の差異のもとで 相互に不可通約的な実体と解されようと、その定義は一義的で数量というものを含まない。それゆえこの一義的に定義された本性から帰結する実体の存在にも数はない。つまり二度あらわれる実体は数のうえでは区別されないのである。

一言で言うと、「われわれが認識するようないわゆる『数』の概念で実体を考えることはできない」といったところでしょうか。

つまり、「唯一実体テーゼ」、「複数属性テーゼ」どちらの場合においても、実体には数の概念が適応できないので、実体が一義的であることに変わりないということであると私は解釈しています。

無数に異なる同じもの

さらにここから怒涛のように筆者の解釈が語られます。

・属性の無数性とは、一義的な「実体」の無数に異なる反復でなければいったい何であろう。互いに通約不可能な無数の属性の各々はおよそ「実体」と考えうるものを、こう言ってよければそのつどそっくり「実体」として反復するのであり、 その無限反復の外に「実体」なるものはない。じっさい、 もし属性の各々が実体として知覚されず「それ自身によって考えられないなら、あるいはもし属性が神的実体の中でその不可通約的な特異性と実体的差異を失ってしまうなら、どうしてそれぞれの反復がほかならぬ「実体」なるものの反復だと分かるだろう。それゆえこう言わねばならない。無数の属性がその無数の差異において一義的な「実体」を無数に反復するのだと。そしておそらく、スピノザ が神にふさわしい実在性の最大量として考えているのはこの実体の無限反復としての属性の無数性なのだ。

・同じものの無数に異なる反復、あるいは無数に異なるもののそのつど同じ反復(通約不可能な差異なしに実体の反復はありえず、しかも反復は「同じ一つのもの」の反復なのだから)

・無数の属性の「外」では本質も存在もない。無数の属性、ないしその各々が神と等しく自己原因たりうるような実体の、その無限反復からなる自然がすなわち神だというのだ。

・無数に異なる同じもの。そうしたスピノザの神は「同じ一つのもの」であるとはいえ、もはや無数の差異の外では存在せぬ同じもの、類的同一性・種的同一性・数的同一性のいずれをも逃れ去る表象不可能な同一者、多を統一する超越の高みすらもたず絶対反復のなかにのみ内在する一者である。

筆者の解釈する実体は「無数に異なる同じもの」という一語に集約されるように思います。

あくまでも属性を実在的なものとして残したまま、それを無限に異なる実体の反復であると捉える。

これが当論文における筆者の結論ではないでしょうか。

無数に異なる同じものとしてのわれわれ

付論として、実体と属性の関係に置き換えてわれわれ人間の身体と精神の関係が考察されています。

・実体が反復されるのと同様に、われわれの身体と精神すなわち「延長の様態とその様態の観念」もまた「同じ一 つのもの」であって、「ただこれが二つの仕方で表現されているだけ」

・ある属性内の客体に思惟属性のなかで対応する観念 (およびその観念の観念)があって、これがその客体の精神である。しかるに同じ一つの個物ないし様態は相互に通約不可能な無数の属性にわたって無数の「客体」として反復されている。それゆえその各々についての観念すなわちその個物の精神もまた無数に反復され、かつ「相互に何らの連結も持たない」ことになる。つまりは同じ個物が、無数の異なる精神を有するのである 。 「相互に何らの連結も持たない」ような 「無数の精神」をもち、無数の知られざる「客体」をおのが身体とするところの「同じ一つのもの」、つまりは無数に異なる同じもの、それがこの私なのである。

・精神が身体を支配するのでも、また身体が精神を支配するのでもない。両者の間に共通するものは何もなく、したがって一方から他方への影響といったものはありえない。

・同様に、魂が個体に同一性を与えるのでもなければ、肉体が魂を個体化するのでもない。われわれは無数の身体と無数の魂の反復体、われわれ自身の知りえぬ無数の力能の反復体であり、そのうちのどれかを同一性の範型として特権化することはできない。

ここでは本論で考察された「無限に異なる同じもの」である実体と属性の関係性がわれわれ人間の身体と精神にも適応されています。

われわれ人間にとって認識することができない無数の属性が存在しており、そのそれぞれに対して対応する思惟属性における観念が存在しているということが言われています。

つまりわれわれの精神とは、あくまでも身体という延長属性の一様態に対する観念でしかなく、それ以外にも無数にあるうちのたった一つである「身体の観念」としてしか、われわれ人間は自分自身を意識することができない。

では、それ以外の無数に存在するであろう属性とはどんなものなんだろうと気になってしまいますが、それは人間には認識することは不可能であると、スピノザは考えているようです。

まとめ

今回は、「デカルト、ホッブズ、スピノザ」上野修著に収録されている論文「無数に異なる同じもの」を読んで、読み解けた内容や自分なりの解釈をお伝えしてみました。

この論文によって「属性の問題」を完全に解決することができているのか、正直なところ現時点で私には判断できていません。

しかし、「属性の問題」についての一つの解釈の到達点であることに間違いはありません。

また、当論文がスピノザ理解において重要であるということは言うまでもないことかと思います。

今後も「属性の問題」について考える際には、この論文を参照することになると思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました