natura の訳語と存在論的位相
『エチカ』第一部 定理11 別の証明 において示される次の一節を取り上げる。
At ratio cur circulus vel triangulus existit vel cur non existit, ex eorum natura non sequitur sed ex ordine universæ naturæ corporeæ.
だがなぜ円や三角形が存在するのか、あるいは存在しないのかの理由は、それらの本性からは出てこず、普遍的な物体的自然全体の秩序から出てくる。
すなわち、円や三角形が存在するか否かの理由は、それらの 「本性(natura )」からではなく、「物体的自然全体の秩序(ordo universæ naturæ corporeæ)」から導かれる。
ここで問題となるのは natura の訳語である。既出の日本語訳では、この語は文脈に応じて「本性」と「自然」に訳し分けられている。上野訳、畠中訳、工藤・斎藤訳では「本性」と「自然」と訳し分けており、佐藤訳では「自然の性」と「自然」と訳し分けている。たとえば
| ラテン語 | 訳語 |
|---|---|
| ex eorum natura | それらの本性から |
| universæ naturæ corporeæ | 物体的自然全体 |
しかし、ラテン語において natura は本来この二つを語彙的に区別する語ではない。語源的に natura は nascor(生まれる)に由来し、そこから以下のような意味領域を持つ。
- ものがそれとしてある仕方(本性)
- 内的構造・構成
- 生成の原理
- 自然界・宇宙秩序
したがって、「本性」と「自然」という区別は翻訳上の便宜であり、原語のレベルでは単一の語で表現されている。
個体レベルと全体レベルの natura
本節においてこの訳し分けが生じる理由は、主として 対象のスケールの違いにある。すなわち、ここでは次の二つの natura が対置されている。
| 表現 | 指しているもの |
|---|---|
| ex eorum natura | 円や三角形という個体の natura |
| universæ naturæ corporeæ | 延長属性のもとでの自然全体の natura |
この対比のため、前者が「本性」、後者が「自然」と訳されるのである。したがってここで対置されているのは、本性と自然という異なる概念というよりも、むしろ
- 個体レベルの natura
- 全体レベルの natura
という二つの存在論的スケールである。
両者の連続性
もっとも、スピノザにおいてこの二つの natura は断絶しているわけではない。スピノザの体系では、個物はすべて自然の様態(modus)であり、その存在は自然の必然的秩序の中で生起する。したがって、個物の natura と自然全体の natura は本質的に連続している。
この関係は次のように整理できる。
| レベル | 存在論的地位 |
|---|---|
| 神 | 無限実体 |
| 自然全体 | 実体の展開としての自然 |
| 個物 | 自然の様態 |
この意味で、円の natura もまた自然の自己展開の一様態として理解されることになる。
natura corporea の意味
この点は、文中の corporeæ の意味を考えるとさらに明確になる。
corporeæ は corpus(身体・物体)に由来する形容詞 corporeus の女性属格形であり、ここでは naturæ を修飾している。したがって universæ naturæ corporeæ は直訳すれば「物体的自然全体の」となる。
しかしここで言われる「物体的」とは、単に「物質的」という意味ではない。スピノザの体系では、自然は思惟属性(cogitatio)と延長属性(extensio)のもとで表現される。したがって natura corporea とは、延長属性のもとで把握された自然を意味する。
言い換えれば、ここで問題となっているのは単なる物質界ではなく、
幾何学的・力学的秩序としての延長の自然
なのである。
有限物の natura と存在の非帰結 ― 定理11への存在論的準備
この一節は、一見すると幾何学的対象の存在理由を述べているだけのように見える。しかし実際にはこれは、第一部定理11における神の必然存在の証明へ向けた準備的議論として理解されるべきである。
この一節の核心は次の原理にある。
有限物において natura からはその存在は導かれない。
円の定義からは円の諸性質は導かれるが、そこから円が実際に存在するかどうかは導かれない。この点はスピノザが区別する 本質(essentia)と存在(existentia) の関係に関わる。
有限物においては両者は同一ではない。
| 有限物 | 関係 |
|---|---|
| 本質 | それが何であるか |
| 存在 | それが存在するか |
両者は区別されるため、存在は本質からは導かれない。
明日人類が滅亡して存在しなくなったとしても、人間の本質にはなんの影響もないということである。
したがって、円や三角形が実際に存在するかどうかは、それらの定義ではなく 自然全体の因果秩序 の中で決定されることになる。
有限物の存在の説明
有限物の存在は次の構造をもつ。
- 個物の natura
→ 性質は導かれる - 個物の存在
→ 外的原因によって説明される
したがって有限物の存在は
自然全体の因果連鎖
の中に位置づけられる。
神との決定的対比
しかしこの原理は神には適用されない。定理11においてスピノザは、神を 絶対に無限な存在者(ens absolute infinitum) と定義し、その本質には存在が含まれると主張する。
この点を整理すると次のようになる。
| 存在者 | 本質と存在 |
|---|---|
| 有限物 | 本質 ≠ 存在 |
| 神 | 本質 = 存在 |
すなわち、有限物の存在は自然の秩序から説明されるが、神の存在はその本質そのものから必然的に導かれるのである。
存在論的構造
以上を踏まえると、この箇所で提示されている存在論的構造は次のようにまとめることができる。
- 有限物において natura からはその存在は導かれない。
- 有限物の存在は自然全体の因果秩序から説明される。
- 神においてのみ本質と存在は同一である。
この意味で、この議論は単なる幾何学的例示ではなく、定理11の存在論的前提を提示するものである。有限物の存在が自然の秩序に依存するのに対して、神のみがその本質から必然的に存在する存在者として位置づけられる。ここにおいてスピノザの一元論的存在論は明確な形をとるのである。
存在の二つの導出様式 ― 本質からの存在と因果秩序からの存在
ここまでの議論をさらに整理すると、スピノザはここで 存在がどのように導かれるかについて、二つの異なる仕方を区別していることが分かる。
| 存在の導出 | 対象 | 存在の根拠 |
|---|---|---|
| 本質から導かれる存在 | 神 | 本質そのもの |
| 因果秩序から導かれる存在 | 有限物 | 自然の因果連鎖 |
この区別は、スピノザの存在論においてきわめて重要である。
本質から存在が導かれる場合
神においては、本質の概念の中にすでに存在が含まれている。
スピノザは定理11において神を
ens absolute infinitum
すなわち「絶対に無限な存在者」と定義する。そしてこの存在者の本質には存在が含まれるため、神は必然的に存在する。
したがって神の場合、存在は
本質 → 存在
という形で導かれる。
ここでは存在は外的原因によって付与されるのではなく、存在者の本質そのものから必然的に帰結する。
因果秩序から存在が導かれる場合
これに対して有限物の場合には事情が異なる。円や三角形の例が示しているように、有限物の natura からはその存在は導かれない。
有限物の存在は常に
- 他の有限物による原因
- さらにその原因となる別の原因
という因果連鎖の中で説明される。
したがって有限物の存在は
自然全体の因果秩序
すなわち
ordo universæ naturæ
の中で決定される。
両者の関係
この二つの存在の導出様式は、スピノザの存在論において次のような階層構造を形成している。
| レベル | 存在の根拠 |
|---|---|
| 神 | 本質から存在 |
| 自然の秩序 | 神の本質の必然的展開 |
| 有限物 | 自然の因果秩序 |
したがって有限物の存在は、最終的には神の本質へと遡ることになる。しかしそれは直接に本質から導かれるのではなく、自然の因果秩序を媒介して導かれる。
「表現」としての自然
この構造は、スピノザの自然観を理解するうえで重要である。
神は自然の外部にある超越的原因ではなく、自然そのものとして存在する。
したがって
- 神の本質
- 自然の秩序
- 個物の存在
は互いに切り離されたものではない。
むしろ
神の本質が自然の秩序として表現され、その秩序の中で個物が生起する
と理解されるべきである。
この意味で、円や三角形の存在理由を自然の秩序に求めるという議論は、単なる幾何学的例示ではない。それは
神の本質 → 自然の秩序 → 有限物
という存在論的連関を示すための議論なのである。
まとめ
以上の点を踏まえると、この箇所の議論は次の構造を持つ。
- 有限物においてのその本性からはその存在は導かれない
- 有限物の存在は自然全体の因果秩序から説明される
- 神のみがその本質から必然的に存在する
そしてこの三つの命題は、最終的に
神の本質が自然の秩序として展開し、その秩序の中で有限物が存在する
というスピノザの一元論的存在論へと収束するのである。

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