どうも、OGKです。
最近、chatGPTに教えてもらいながらドゥルーズを読み始めてます。
それはもう便利すぎて、AIなしの読書には戻れない、ヘーゲルを学んだ時の苦労はなんだったのだ、という感じで効率の良さを実感しています。
哲学の分野で、新書などの入門書の存在意義が問われているのではないかと思うほどです。
でもすごいと思う反面、空恐ろしさのような感覚も確かにあります。
AIについて詳しく学んだわけではないので、かなり主観的な感想のような内容になりますが、「AIについて私が思うこと」を書いてみます。
なお今回は気分で「である」調で書いてます。
それでは、行ってみましょう。
死というシステムによって個人の知識がリセットされるという仕組みが覆ること
たとえどんな天才的な頭脳を持ち、人類の進歩に貢献した人物であとうとも死から逃れる術は2025年4月21日現在において、まだない。(まだないよな)
その書物や業績は残れど、天才もいつか死ぬ。そして残された子孫は、その知識や経験をそのまま引き継ぐことはできない。
遺伝というある種直接的ではあれど、その子はまた一から父または母がその通ってきた道を辿り直さなければならない。
冷静になって考えてみると、なんとも非効率なシステムではないか。
しかしそれは、人類という種を長らえさせるという観点で見れば、人類という種がその進化の過程で獲得してきた生存戦略ともいえるのではないか。
もし、父または母の知識や経験をその子供が生まれた時点で、そっくりそのまま引き継いでいるような生殖のシステムであったとしたらどうか。
そのような爆速な進歩に地球はまず間違いなく耐えられないだろう。
結局それは、人類の滅亡を早めることに繋がるのだろう、ということくらい私にも容易に想像がつく。
それがAIの進歩によって覆るのだとしたら。
人類の集合知のようなものが指数関数的に拡大するのだ。
いくらAIは身体をもたないといったところで、その指数関数的な集合知であるAIにわれわれ人間はいとも容易にアクセスすることができるようになってきているのだ。
つまりAIの進歩は、人類という種をながらえさせるためにその進化の過程で自ら獲得してきた『生殖システム』という生存戦略が働かなくなっていくということを意味しているのではないか。
これがAIに抱く危惧。
ここでの個人的な教訓は、なんでも効率が良ければいいというわけではない、ということ。
AIはまだ受動であるということ
前節で述べたように今後、知能分野において人間はAIに敵わなくなっていくのだろう。(もうすでに敵わないのかもしれない…)
ただ現時点において、AIはその受動性を守っているようにみえる。
人間側の能動的な働きかけ(プロンプト入力)がないと、AI自らが能動性を発揮して何かを出力することはできない。
主導権は人間が握っている。
詳しくはわからないが、いくら指数関数的にAIがその知能を拡大していったとしても、その主従関係が変わらない限りAIが直接的に人類の脅威となることはないのかもしれない。
ならばそのような未来も見てみたい気がしないでもない。
その指数関数的な進歩の果てには果たしてどのような未来が待っているのだろうか。
その未来はユートピアなのかディストピアなのか。
どちらにしてもすでに賽は投げられ、来るべき未来の微分的な傾きはすでに胎動しはじめているのだろう…
まとめ
いかがだったでしょうか。
二つ目のトピック「AIはまだ受動であるということ」に関しては、かなり楽観的な立場であるような気がしてます。
将来的にAGIが実現し、自己改善能力を持って、「自分の目的関数(目標)を再定義する」ようなことができるようになったとしたら、AIが直接的に人類にとっての脅威になりうることももちろん想定されます。
それほどまでにAIが人間に肉薄してきているということなのでしょう。
AIは人類の「終わりの始まり」なのでしょうか。
はたして私が生きているうちになんらかの結論めいたものは出るのでしょうか。
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