今回は、所用で東京にいった際に写真展を見てきましたのでその感想と、写真に関して以前から感じていたことを書いてみます。
2024年10月1日から12月26日まで東急プラザ渋谷特設イベントスペースにて開催されておりますYOSIGO 写真展「Holiday Memories −旅の瞬間−」を鑑賞してきました。
YOSIGO 写真展 Holiday Memories −旅の瞬間−
写真展自体とても良かったです。
特に気に入ったのは主に展示の前半部分です。
建築物の幾何学的な形状がグラフィックデザインのように切り取られており、無機質な建築物に照りつける日光の光と影が作り出す図形が、画面いっぱいにまるで抽象画のように映し出されていました。
「自分もこんな写真を撮ってみたい」
「私が本当に好きな写真とはこれだったのか」
一眼見た瞬間、心を奪われました。
対して展示の後半では、徐々に人物の写り込む写真にフォーカスが移っていったように思います。
そこでふと、自分は建物の幾何学模様を撮ったものに魅力を感じ、人物が写っている写真に魅了を感じていない、ということに気づきました。
それは、以前にもなんとなく意識していたことではありましたが、ここまではっきりと自覚したことはありませんでした。
なぜ私は人物の写った写真にあまり魅力を感じないのか
なぜなのでしょうか。自分なりに考察してみます。
建築物の幾何学的な形状を撮った写真は、ある種の「普遍性」を纏っているということが言えるのではないでしょうか。
写真に映し出されている建築物はもちろん実物としてこの世界に存在する個別性を持った固有の建築物です。
しかし、写真として切り取られて展示されているそれは、もはやその一つの建築物としての固有性を剥ぎ取られ、ただ単なる抽象的で幾何学的な形状のパターンのように私には感じられました。
つまり、その「曲線」は現実に存在する建築物の「ある特定の」個別的な曲線としてではなく、普遍的で幾何学的な曲線として写真の中に存在していましたし、またその「直線」はあくまでもその写真における画面構成の一要素として普遍的で幾何学的な意味における直線として存在していました。
その画面上を気持ちの良いバランスと比率で適切に配置されるアーチ形状や幾何学図形に感動したのだと思います。
このように私は、建築物の幾何学的な形状を撮った写真に対して普遍性を感じたのだと思います。
それに対して、展示後半では、写真構図の中に無数の人物が映り込んだものや、日の丸構図で一人の人物をクローズアップしたものが展示されていました。
一度人物がそこに写り込んだ瞬間、その写真全体の印象は写っている人物に持っていかれてしまいます。
人の顔にはそれだけの力があるのだと思います。
ある種の普遍性が個別性(人の顔)に喰い尽くされてしまいます。
そこに映し出される一人一人が個別的であり、特殊的な存在として主張することで、普遍性の永遠なる世界から、有限が支配する個別性の世界に引き戻されるような感覚がありました。
YOSIGOの写真が表現している普遍性について
前節で述べたことと矛盾するように思われるかもしれませんが、今回のYOSIGO写真展では、展示作品の中で人物が写った写真に関しても、後ろ姿であったり、シルエットであったり、その人物の個別性(特殊性)が前面に出過ぎることのないように、扱われているような印象を受けました。
おそらく撮影者のYOSIGO自身も、人の顔がもつ「個別性に引き戻す引力」に気づいており、明確な意図を持って人物の個別性をできるだけ排除するような工夫をしたのではないでしょうか。
そのあたり「普遍性」と「個別性」の関係についてヘーゲル『小論理学』から引用します。
自然現象に対する時にも同じ事があります。例えば、稲光りを見、雷鳴を聞いたとしましょう。私たちはこの現象を知っていますし、よく経験してもいます。しかし、人間は単に知っているとか単なる感覚的現象では満足しないもので、その奥に入り込み、その現象について詳しく知り理解したいと思うものです。 そこで人間は追考し、原因を知ろうとします。つまり、現象自体とは別のもの、単なる外面とは違った内面を知りたいと思うのです。かくして人間は現象を二重化し、それを内なるものと外なるもの、力と外化、 原因と結果とに二分するのです。内なるものとか力とかがここでは普遍であり、永続的なものであって、それはあれこれの稲光りやあれこれの植物ではなく、それら個々のものすべてにおいて同一なものなのです。感官で捉えうるものは個別的であり、無常なものですが、追考によって個別の中にある永続的なもの 〔普遍〕を知るのです。自然を見ると無数の個々の形態や現象がありますが、人間はこの多様さの中に統 一を見出したいと思うものです。そこで〔多くの個別を〕比較して、一つ一つのものの中に普遍を認識しようとするわけです。(牧野紀之訳ヘーゲル『小論理学』p286-287)
人間自体の性質として、多様さの中に普遍を、個別性の中に永続性を見出そうとするということです。
現実に存在する建築物の幾何学的な形状やそれが織りなす光と影を「個別の中にある永続的なもの」つまりそれら個々の建築物(個別性)において同一なもの(普遍性)として解釈し、それら多様の中に統一を見出そうとする人間の性質を表現しているのではないでしょうか。
写真という現実世界(つまり個別性)を切り取る表現方法において、できるかぎりその個別性を排除し、普遍性をめざして構成されたものが今回の展示であり、またYOSIGOという写真家のスタイルなのではないかと感じました。
そのようなスタイルには私自身共感を覚え、また満足感のある展示になっていたと思います。
まとめ
いかがだったでしょうか。
最近ヘーゲルにかぶれていますので、なんでもヘーゲルの哲学に変換しようとする自分がいます。
数年後別の哲学者にハマってたら全く別の解釈になるのかもしれません。
さて、現代において写真表現はお手軽なものになり誰もが写真を撮影しWEB上に公開しています。
ある種シャッターを切るだけでも何かしら撮れてしまうわけですから、あらゆる芸術表現のなかで最も手軽であると言ってしまってもいいでしょう。
だからといって写真というジャンルが底の浅いものというわけではないと思っています。
「写真には撮影者その人が如実に現れる」と言われるように、写真表現のなかで撮影者の思想、または哲学的なバックボーンにまで想いを馳せることもできます。
今回の展示を見たことで自分の撮る写真に、劇的な変化がみられるわけではありません。
また、YOSIGOのスタイルを真似てみたところで所詮自分のものにはならないでしょう。
すぐに成果を求めず、もっと気長に、自分のペースで哲学も写真も継続していくことが大切なのかなと思っています。
ではまた。
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