どうもOGKです。
今回は、私が自分のためにやっていること・やめたことを共有する記事になります。
普段の生活において、できるだけ当記事の中で紹介している生活スタイルで過ごすように心がけています。
といっても完璧にこなせているわけではなく、自分の体調と相談しながら、完璧主義にならないように気をつけて実践しています。
記事内で紹介する内容は私一個人の経験と体感に基づいて書いているに過ぎません。
その人それぞれの状況によっては悪影響や、デメリットの方が大きくなることもあると思われますのであくまでも一個人の体験談として読んでもらえるとありがたいです。
瞑想
近年の体調不良とその対処法としての瞑想
ここ数年、日常生活において体調が悪いと感じることが増えました。自分なりに体調が悪い原因を考えてその対処法として「瞑想」を実践しています。
まず体調の悪い時の自分が感じている具体的な不調を挙げてみます。
- 不眠。とにかく夜間の睡眠がうまく取れていない感覚。前日にうまく眠れないと当然ながら翌日のパフォーマンスが全体的に悪い。
- 仕事でストレスがかかるとそれに比例して睡眠の質も悪くなっている印象。
- ひどくなると、首筋や背中の身体の凝りを感じるようになり、のどの詰まり(声が出しづらくなる)と咳の症状が出るようになる。
- 頭がスッキリせず、思考がもたつくような感覚。
- 倦怠感
特に、喉の詰まりで声が出づらくなる症状が出始めると、日常生活にも支障をきたす状態になり、悪循環に陥ってしまい不調が長期化する傾向があります。
「これはまずい、なんとかしなくては」と思い、「瞑想」を日々の生活習慣として実践するようになりました。
瞑想で自分の体調がどうなるか実験してみた
大学時代からヨガをやったり、数年前からマインドフルネス瞑想に取り組んだりした時期もありましたが、継続的な習慣になるところまでにはなっていませんでした。
最近、心身ともに不調が続いた時期があり、実験的に2ヶ月間朝晩の瞑想をやってみて、その効果を検証してみました。
やったこと
朝起きてすぐと寝る前にそれぞれ20分ずつの呼吸瞑想を行いました。
- 半跏趺坐で座って背筋を伸ばし、ただ自分自身の呼吸に意識を向け続ける。
- 瞑想中さまざまなことに意識、イメージが飛ぶが、その度ごとに呼吸に意識をもどす。
- 呼吸瞑想では一つのイメージが浮かんだ時点でそれに意識を向けて呼吸に戻す、また他のイメージが浮かぶ、呼吸に意識を戻す。これの無限ループをひたすらに繰り返す。
意識したポイント
☆ 穏やかに呼吸を意識するということ。
- 緊張して呼吸の一挙手一投足を見逃さないぞ、と力むのではなく、呼吸から意識が離れた時にそれに気づくことのほうが大切。
☆ 何度も何度も意識が呼吸から離れるたびに呼吸に意識を戻すこと。
- 呼吸を意識することそのものと同じくらいに「離れた意識」に気づいて、それを呼吸に戻すことが重要。
2ヶ月継続してみて
- 明らかに睡眠の質が上がったのと、読書に集中できるようになったことを感じました。
- 瞑想を継続していくと、普段の生活ではイメージの連鎖が止まらず頭がパンク状態になっているということを実感として感じることができるようになってきました。
- それ以降も不眠や、首筋や背中の身体の凝りからくる喉の詰まり感などの症状が出ることはありますが、その症状に対して苦痛を感じなくなったというか、瞑想以外の日常生活の中でも、今この瞬間の感覚や、思考に気づくようになったことで、不安感や苦しみにまで思考が発展する前に、イメージの連鎖を断ち切ることができるような感覚がありました。
参考文献
瞑想の実践にあたって以下の文献を参照しました。
デジタルデトックス
次に、自分らしく生きるために「やめたこと」になりますが、SNS(主にX)の視聴をやめました。
X(Twitter)を見ていると日々ありとあらゆる情報が画像や動画、文字を通して自分のなかに取り込まれます。
もちろんそれは自分の興味のある哲学の情報がメインにはなってきます。
SNSを通して哲学分野の情報を取り入れることにもメリットとデメリットがあるということは、以前からなんとなく意識していたことなのですが、改めて自分にとってはデメリットの方が大きいということに気づきました。
SNS視聴のメリット
新刊本や各哲学者における必読本の情報を入手できるということに関して、大きな利点があります。
X(Twitter)上では日々様々な哲学者や哲学書が紹介されていたり、自分が勉強している哲学者についての必読書を知ることができたり、哲学界全体のトレンドを知ることができます。
それによって自分が学んでいきたい哲学者を探したり、その哲学者を学ぶ上で読むべき本や順序を効率的に知ることができます。
これは、私のように大学に所属せずに哲学を学ぶ者にとって、なくてはならない情報収集手段でした。
そしてある程度の期間、X(Twitter)で哲学界隈をフォローしていたことで、哲学に対する感覚のようなもの(各哲学者の一般的なイメージや哲学界隈での位置付けなど)が身についたように思います。
また、日々自分と同じように哲学に取り組む方々の読書記録等の情報が入ってくるので、哲学に対するモチベーションの維持という面でもメリットがあります。
SNS視聴のデメリット
本を買うことが目的化してしまう本末転倒な状態に陥る
哲学を学び始めて当初3年ほどは、上記のようにX(Twitter)で情報収集しながら独学で哲学を勉強していました。
徐々に自分が深く研究していきたい哲学者が決まってきて、読むべき文献も手元にそろってきます。
というか、書棚には未読の読むべき文献ばかりが増えていき、実際に読んだ本よりも積読している本の方が多い状態になってきます。
そうなってくると、X(Twitter)での情報収集は、実際には読まない本の情報を際限なく漁りつづけてしまうという、自分にとってデメリットの多いツールになります。
すでに自分の手元に「読むべき本」はあります。X(Twitter)で情報収集に時間を取られるよりも、実際に本を読んだり、文章を書いたりする時間に当てたほうがよいのではないかと思うようになりました。
さらに、SNSをみていると自分の取り組んでいる分野以外の無駄情報に時間と自分の脳の容量を持っていかれます。
自分の場合、1日うちSNSを見てもよい時間を制限したとしてもダメで、自分の意志ではどうしようもなくだらだらとSNSに時間を奪われてしまうことになります。
生活の中からSNSを見るという選択肢ごとなくしてしまうというところまで徹底しないと、私の場合は意味がないということがわかりました。
情報の過剰摂取による凡庸化という弊害
また、自分の取り組んでいる分野の情報に関しても、なんでも情報収集すればいいというわけではないと考えています。
なぜなら、SNS上に上がっている情報は自分以外の他の誰かがアウトプットした情報であり、それを視聴した自分は、否応なしにその動画なり文章から問答無用に影響を被ってしまうからです。
この問題に関しても自分の意志でどうこうできる問題ではなく、その動画なり文章なりを摂取した時点で決定的に影響を被ってしまうことになります。
では、無作為の情報が大量に自分の中に取り込まれてしまうこと、それの何がいけないのでしょうか。
SNSの特性として不特定多数の人間が視聴しているということがまず問題であると考えます。
不特定多数の人間が視聴して、否が応でも無意識的な影響を被ってしまっている情報を自分も右にならえとばかりに摂取したところで、何かそこから自分のオリジナルなものが出てくるでしょうか。
それは自分というものが不特定の大衆によって規定されてしまうようなものだと私は思うのです。
その人のスタイルとは、オリジナリティとは何でしょうか。
それは、自分の生まれ持った特性、住んでいる地域、興味を持った分野、家族、仕事、真剣に取り組んでいることなどが複雑に絡み合って、出来上がっているはずです。
そのような自分だけのスタイルを形作る上で、SNSに溢れるその他大勢が影響を受ける情報に大部分を持っていかれたくはないです。
スタイルとは自分の直接的な経験や環境から受ける影響などが有機的に結合して自ずと出来上がっているもの、すでにそこにあるものでしかなく、なにか自分の意志の力で作り出せるようなものではないということを肝に命じたいと思います。
しかし、このあたりの考え方はその人によって様々なものがあるのだろう、と思います。
大量の情報を摂取する中でその人なりの個性が出てくるということもありそうなので、一概にどちらがいいとは言えません。
もちろん全ての情報をシャットアウトすることは出来ません。
SNSを見ようが見まいが自分の存在が(他のコンテンツなどから)他者によって規定されてしまっていること自体は変えようもない事実ではあります。
自分が視聴するコンテンツが、自分の人生や、人格形成についてどのような影響を与えているのかに関して、常に実験的な気持ちで自分の心と身体を自己観察する意識はもっておいて損はないと思います。
ある一定期間を決めてデジタルデトックスをやってみるとか、この本を読み切るまではSNSを見ないようにする、とかいろいろ試してみて、自分の中でバランスを見極めつつ、最適点を探っていくしかないのかなと思っています。
複数の趣味をもつこと
哲学を学ぶこともそのひとつですが、私は仕事以外に複数の趣味をもっています。
これは自分の性格の影響も大きいと思いますが、基本的に「趣味は多ければ多いほどよい」と考えています。
なぜなら、シンプルにたくさん趣味があったほうが「気が紛れる」からです。
何から「気が紛れる」のでしょう?
「ひとつのこと」からです。
世の中ままならないものですから、今自分の人生における一側面(例えば仕事、家族、健康、趣味1、趣味2、趣味3・・・の内のどれかひとつ)でうまくいっているからといって、未来永劫うまくいくとは限りません。むしろ、うまくいかないことの方が人生において多いと感じる人が過半数を占めるのではないでしょうか。
ある「ひとつのこと」がうまくいかないときに「それ以外のこと」がその時、その瞬間の自分自身を助けてくれることがあります。
例えば私の場合、趣味のひとつである「自転車」で怪我をして乗れなくなってしまったとしても、「哲学」がありますので悲観的になることなく、これまで自転車に使っていた時間を怪我が治るまでの期間一時的に哲学に没頭することができます。
そういう意味で「気の紛れ」先は多いに越したことはありません。
やりたいと思ったことはジャンルを問わず、自分にできる範囲でまずやってみることにしています。
自分に合わないと思えば、他の趣味を探せばいいだけですから。
マインドセット
最後に「マインドセットを変えること」について少し書いて終わりにしたいと思います。
私は、今年(2024年)で38歳になりました。
歳を重ねるごとに体調が優れなかったり、どこか身体に不調を抱えていることも多くなってきていることを実感します。
自分にはやりたいことがまだまだあるし、そのやりたいことを体調や年齢を言い訳にしてあきらめることはしたくありません。
「やりたいことはたくさんあるのに身体と心がついてこない」
昔だったら考えもしなかったことです。
夜眠れなくて体調がすぐれなかったり、どこか身体が痛いとか、何か不調があってベストコンディションでない状態、日常生活においてそのような状態が「ある意味、当たり前である」という意識に、そもそものマインドセットを変えないといけないのかもしれません。
そして、そのような不調の中において、どれだけ「一生懸命」に生きることができたか、どれだけのパフォーマンスを出せたか、それはある種の自己満足の領域になってくるのかも知れませんが、そこに価値を置くべきではないでしょうか。
いちいち体調が悪いことに一喜一憂していたらキリがありません。
その時々の状態がそのまま、何の言い訳もできない自分自身の正体である、と思っています。
「不眠上等、体調不良上等」くらいの気持ちで、その時その時のベストを尽くしていたらそれでよいのではないかと思います。
つまり、他人の評価を基準にするのではなく、自分自身の中に基準を設定しておくということだと思います。
まとめ
今回は、私自身ここ数年で心身の不調を感じることが増えたこともあり、「健康を維持するためにやっていること・やらないようにしていること」や、「自分らしく生きるために意識している考え方」などをテーマに記事を書いてみました。
途中まとまりのない「オリジナリティ」論に脱線したり、最後は「根性論」のようなものになってしまいました。
自分自身の頭の中を整理するために記事を書いているようなものですので、どこかの誰かの参考になることがあるのかわかりませんが、いつものように自分の備忘録も兼ねて記事化しておきます。
なにかと生きづらい世の中になってきているとは思いますが、なんとか自分なりの生きがいを見つけて、楽しんで生きていきたいものです。
気になったところなどありましたらコメント欄からご質問ください。
ではまた。
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