「ヘーゲルに取り込まれるスピノザ・ホワイトヘッド」仮説 version1.0

ヘーゲル
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ヘーゲル哲学難しいですね。

私も哲学を勉強し始めて比較的早い段階から『精神現象学』に着手してはいました。

読み始めて数年は、読んでいてもまったくわからない、面白くない、という期間が続きました。

私の場合はヘーゲルを読んでは挫折を繰り返し、いろんな哲学者を行きつ戻りつするなかで、少しずつ読めるようになってきた感覚があります。

一次文献(ヘーゲル自身の書いたテキストの翻訳書)だけを読んでいたのでは永遠に理解できなさそうだったので、まずは「定評のある解説書を一冊に絞り、それを何度も読み込みつつ、一次文献も読む」という戦略のもと取り組んできました。

解説書としては、絶版本ではありますが、金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』を選びました。

本書は、ヘーゲル哲学の解説書としては出版年は古いものの、定評のある入門書とされているようです。

しかし私にとっては普通に難しく、また最初読んだ時にはその内容におもしろさを感じることはできませんでした。

ことあるごとに読み返しているうちに何となくではありますが。『精神現象学』の全体像といいますか、やろうとしていることの雰囲気が掴めてきたのだと思います。

最初はまったくわからなく、面白くもなかったヘーゲル哲学に対して、3年くらい行きつ戻りつしながら読んでいるうちに、世の中のあらゆる事象に弁証法的な関係性を見出せることに気づき、その適応範囲の広さに凄みを感じるようになってきました。

それからは少しずつ他の解説書も読めるようになってきて、一気にヘーゲルにハマり始めたという感じです。

この記事では、自分自身がこれまで読んできた中で、少し理解できたことや、ヘーゲル哲学へのとっかかりとして重要になってくるのではないか、と思っていることを主に書いています。

また記事の後半では、「ヘーゲルに取り込まれるスピノザ・ホワイトヘッド」という仮説を立ててを簡単に検証してみました。

ヘーゲル弁証法理解の一助になればいいかなと思います。

弁証法の理解について ー「矛盾」と「相互転換」ー

まずは「弁証法」について解説です。


例えば、自分が勉強している哲学者についての記述が、全く別の哲学者の著作を読んでいるときに出てきたとします。

その本の中で、その(自分が勉強している)哲学者の名前が持ち出され、さもそのようなことは知っていて当たり前であるかのように、何の説明もなく、比較対象としてその哲学者の概念が持ち出されることがあります。

その哲学者の名前だけである特定の概念や、主張を暗示しているようなケースです。

そのとき、ある程度理解の進んでいる哲学者についての言及ならば、その文脈において、どのような概念が持ち出されているのか、咄嗟に察知してスムーズに読書をすすめることもできますが、大抵そううまくはいきません。

つまり「書いてある文章の裏側に暗示されていることや、暗黙的にイメージを促されている概念などを察することができないと内容を理解することができない」ということになります。

これが哲学書を読むことを難解にしている一つの要因ではないでしょうか。

もちろんヘーゲルの哲学に関しても、後世の様々な哲学者に影響を与えていることから、上記のような形での引用や暗示が他の哲学者の著作において多く見られます。

ことヘーゲルに関していうと、そのような多くのケースにおいて「弁証法」的考え方が取り上げられていることが多いのではないでしょうか。

そこで、『精神現象学』を読む上でも、他の哲学者の著作を読む上でも、ヘーゲルの弁証法についての正しい理解が重要になります。


ヘーゲルの「弁証法」について、よく挙げられる例で解説してみます。

「Aさんは洋菓子が食べたい一方、Bさんは和菓子が食べたい」

という状況があった場合において、お互いの欲求を満たせる物を考えた結果

「一緒にいちご大福を食べることにする」

これは、ヘーゲルのいう弁証法にあたるのでしょうか。

いいえ。このケースは単なる折衷案を取っただけで、ヘーゲルのいう弁証法にはあたりません。

次に、ヘーゲル自身が『精神現象学』で挙げている例として「塩」をとりあげます。

「塩」

この塩には、「一」と「多」という「存在」の解釈の仕方において相関関係にある二つの側面があります。

私たちは頭で「塩」というものを考える時には、色は「白」で、舐めると「辛」く、「粒子状のつぶつぶ」など「塩」の様々な性質を総合した上で、「塩」というものを識別しています。

その「塩」というもの自体は「一」ですが、その性質の上では様々なものがあり「多」とも捉えられます。

そしてその「一」という側面は「多」の側面がないと成り立ちませんし、その反対もまた然りです。

つまり、その一方の「一」という側面が成り立つ為には、もう一方の「多」の側面も存在せざるを得ないような関係になっている、ということです。

このような「一」と「多」はそれぞれが矛盾・対立する関係性にあり、「一」の側面を考えたと思ったとたんに、それは「多」の側面も持つことになり、また「多」が「一」になる、というような相矛盾しながら相互に転換し合う関係性になっているということです。

そして、このような関係性こそがヘーゲルの弁証法における重要な要素になっています。

最初の例えでいうと、「いちご」と「大福」は、一方が成り立つ為にはもう一方も存在せざるを得ないような相矛盾しながら相互に転換し合う関係性にはなっていません。このような対象同士はヘーゲルの弁証法では説明することはできません。

たとえば「一」という側面を考えるとき、「一」は「多」に転換し、「多」における様々な性質を経験・把握した上で、また「一」に帰ってきます。

その帰ってきた「一」は、最初の「一」と同じではなく、「多」の側面をも含み込んだ上での「一」になっているということです。

このような運動をヘーゲルは「止揚(アウフヘーベン)」と呼び、このような運動を構成する構造自体を「弁証法」と呼びました。

ここでは「塩」という物質の「一」と「多」の側面を例に出しました。

それ以外にも、世の中のさまざまな概念にこのような弁証法運動という思考の枠組みを適用することが可能なのではないかと思索を深めることができます。

例えば、「自と他」「個別と普遍」「時間と空間」「連続と非連続」「哲学と宗教(または科学)」「観念論と唯物論」「有限と無限」「具体と抽象」「主観と客観」「偶然性と必然性」など、いくらでも候補はあるでしょう。

その対象どうしが真に弁証法的関係性にあるのかどうか、自分自身のなかで考察すること、それがすなわちそのままヘーゲル哲学的な考察をしているということになるのではないでしょうか。

また、このような弁証法的枠組みのなかで物事を考えることでしか見えてこないものがあるのだと思います。

詳細を述べることはできませんが、『精神現象学』では弁証法運動が入れ子状に無数にくり返されていきます。

まとめると、対立・矛盾関係にある二者間の構造的統一こそが弁証法であり、『精神現象学』においては、位相を異にした無数の弁証法運動が反復することによって、最終的に「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識すること」という絶対知に至るということですが、「絶対知」については私自身まだよくわかっていません。

【即自存在】と【対他存在/対自存在】の区別

上の例では「塩」という対象に対する「意識」をもとに「弁証法」を解説しました。

次は、私がヘーゲルを読む上で、意味を掴むのに苦労した用語について解説してみようと思います。


『精神現象学』を読んでいると「即自存在」や「対他存在」や「対自存在」などの言葉が頻出します。

単語自体はその漢字だけからでも、ある程度の意味の推測はできます。

しかし『精神現象学』を読む上で難しいのは、その単語が指し示す対象を特定すること、「誰に取っての(対他存在)?」みたいなことを文脈から推測していかなくてはならないということです。

最初の頃はその度に何のことかわからなくなり、議論についていけなくなっていました。

まずは各用語のポイントを以下に挙げた上で、さらに補足説明していきたいと思います。

無媒介な存在/直接態
即自存在【真】
  • それ自体としてある対象のあり方
  • 自己認識がなく、ただ存在している状態
相関関係/限定態
対他存在【知】〈多〉⦅イメージ:円錐体の底面⦆
  • ”意識に対して(にとって)ある”対象のあり方(対象が意識に対して見せる側面)
  • 他者との関係を通じて自分を認識し、他者の視点から自分を意識する状態(他に対して在ること)
  • 他との連関に身を置いている状態(一物と他物との関係を考える)
    ex.塩の「辛さ」、「白さ」、「立方体」などの諸性質の媒体としての〈多〉の側面
対自存在〈一〉⦅イメージ:円錐体の頂点⦆
  • 自己認識があり、自分の存在を意識している状態(自分だけで在ること)
  • 自分の中だけでその関係性が終わっている状態(その対象一物だけの範囲で考える)
    ex.塩がそのものとして〈一〉であることの側面

これらの言葉をヘーゲルを読む上において正しく理解しようとすると、一般的な、辞書に載っているような意味において理解するだけでは足りないということがあります。

それぞれヘーゲル独自の意味において理解する必要がありますし、またそれぞれをヘーゲルの体系の中で構造的に理解する必要があるということです。

まず、大枠として、【即自存在】と【対他存在/対自存在】とはその意味のレイヤーが異なっているということを意識的に押さえることが重要になってきます。

上記の用語解説では、レイヤーの違いを表すために「無媒介な存在/直接態」「相関関係/限定態」として、それぞれグループ分けしています。

意味のレイヤーの相違という点で重要なこととして【即自存在】は自己認識がなくただ存在している「無媒介な存在」であることに対して、【対他存在/対自存在】は(円錐における頂点と底面のように)お互いに規定し合うような相関関係において存在しているということです。

言い換えると、【即自存在】のレイヤーにおいては、「私」とか「自他」とかいった区別はなく、ただ無媒介に存在している非人称的な位相であり、【対他存在/対自存在】のレイヤーではすでに「私」という「意識」や「他の存在」が対象化されており、「自他」の区別がなされ、お互いがお互いを規定しあっているような二元論的な位相とも言えます。

まずは、そのレイヤーの違いの感覚を掴むということが必要と考えます。

意味のレイヤーの違いについては、田端信廣著「ヘーゲル『精神現象学』の建築術」に詳細に解説されています。あわせてそちらを読まれることをおすすめします。

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その上でそれぞれの存在間での関係性について構造的に把握していくのが理解しやすいのではないでしょうか。

以下にそれぞれの意味の違いについて詳しくみていきたいと思います。

「即自存在」と「対他存在」の違い

わたしたちの「意識」が「対象」を認識する際の二つの契機として「即自存在」と「対他存在」を区別する見方があります。

わたしたちが何か物を認識する際に「それ自体としてある対象のあり方」(即自存在)【真】と「”意識に対して(にとって)ある”対象のあり方」(対他存在)【知】を区別しています。

そして両者が一致するかどうか確かめること、それが認識の営みと言えます。

しかし、よくよく考えみるとある対象が「意識に対して」存在するあり方を「対他存在」と呼び、これに対して対象がそれ自体として存在するあり方を意識が想定して、これを「即自存在」と呼んだというだけで、その両者の区別自体、わたしたちの「意識」のうちで生じているということに変わりありません。

つまり「即自存在」がカントのいう「物自体」である確証はありません。なぜならその「即自存在」自体も「意識」のうちで想定されているだけのものにすぎないからです。

つまり、われわれの「意識」が「即自存在」であると想定しているもの、それはあくまでも主観的な「意識」の内部で「対他存在」と区別しているだけでしかないということです。

ここにおける「即自存在」は「それ自体としてある対象のあり方」とは定義されているものの、それはあくまでも主観的な「意識」がそのように想定しているもの、という意味において、そのように定義されているにすぎないということになります。

ただし、それはあくまでもわれわれの「意識」が「対象」を認識する際の話であって、「即自存在」が「自己認識がなくただ存在している状態」を指すことには違いはなく、最初に述べたように【即自存在】と【対他存在/対自存在】とが意味のレイヤーを異にするということに変わりありません。

「即自存在」と「対自存在」の違い

「即自存在」と「対自存在」の違いに関しては、自己認識の有無をイメージできるかどうかがポイントとなります。

「即自存在」「自己認識がなく、ただ存在している状態」を指し、「対自存在」自己認識があり、自分の存在を意識している状態」を指します。

非人称的で無意識的な存在である「即自存在」に対して、「対自存在」は自分の存在を対象化した上での存在形式であるというイメージです。

また、上で述べているように両者は意味のレイヤーを異にしており、弁証法を構成する上での段階の違いという側面もあります。

「対他存在」と「対自存在」の違い

どちらも「私」という「意識」や「他の存在」が対象化されており、「自他」の区別がなされ、お互いがお互いを規定しあっているような二元論的な位相、つまり同じレイヤーに属する存在ではあります。

その違いとしては、

「対他存在」「他との連関に身を置いている状態(一物と他物との関係を考える)」です。

それに対して「対自存在」は、あくまでも「他」の存在も想定されている上で「自分の中だけでその関係性が終わっている状態(その対象一物だけの範囲で考える)」です。

また、対他存在」は、塩の「辛さ」、「白さ」、「立方体」などの諸性質の媒体として〈多〉の側面を担っています。

それに対して「対自存在は、塩がそのものとして〈一〉であることの側面を担っています。

「ヘーゲルに取り込まれるスピノザ・ホワイトヘッド」仮説version1.0

スピノザとホワイトヘッドの哲学を、ヘーゲルの弁証法における対象として、とらえることができないか、自分勝手に妄想をしましたので、一応記録しておきます。

何の裏付けもない私の勝手な妄想ですので、その前提で読んでもらえればと思います。

ヘーゲル弁証法の対象としてのスピノザ・ホワイトヘッド

もしスピノザとホワイトヘッドの体系が、ヘーゲルの弁証法の対象として認められるとしたら、ある一つのもの、例えば「存在」の解釈の仕方においてスピノザとホワイトヘッドの体系間に相矛盾するものがなければなりません。

つまりそれぞれの体系がそのものだけで成り立っているのではなく、他の一方の体系との連関においてのみ成り立っている、そしてその一方が成り立つ為にはもう一方も存在せざるを得ない〈一〉と〈多〉のような相関関係になっているはずです。


それをごく簡単に検証してみます。

ホワイトヘッドにおいては、関係性のみが実在し主語的なものは完全に消え去っています。起源も目的もない過程、意識のない過程、「私」もないし、神もない、あるのは一瞬一瞬の全宇宙的な関係性における非人称的で即自的な過程のみです。

一方スピノザの体系では唯一「神」である実体のみが存在し、全ては実体である「神」の現れであるとされることから、少なくとも「神」という主語は想定されています。というか存在のすべては「神」のみで尽くされている、という一元論の哲学です。

これはスピノザの『エチカ』において、その存在論を構成する幾何学的な論証の前提として「何もないのではなく、何かは在るのだ」ということ、そのことが仮定された上で『エチカ』は構成されているということ。つまり何かは「在る」ということの仮定の上で成り立っている哲学体系であるということです。

それに対して、ホワイトヘッドにおける「有機体の哲学」では、行為主体を想定しない、つまり固定的に確固として存在しているものは「無い」のだという哲学体系です。

両者を対比的に捉えたとき、互いに矛盾する相関関係にあるということが言えるのではないか、つまりヘーゲル弁証法の対象になるのではないか、という見込みに基づく妄想的仮説を立てているということです。

そこに「在る」と「無い」の無限の相互転換、つまり弁証法運動が構成されているのではないか、ということが私の主張になります。

が、何度も言いますが私が勝手に妄想しているだけです…

スピノザの『エチカ』においては、途中から誰が論証の主体になっているのか、誰がそれを語っているのか、わからなくなるような非人称的な構成になっているという指摘があります。

つまりスピノザの哲学を一概に主語の想定された「一元論の哲学」とは言えないような気もします。

もしくは、ヘーゲルの弁証法において「対自」から「対他」、〈一〉から〈多〉へ転換するように、スピノザにおいても「在る」から「無い」へその体系ごと転換するというような弁証法的な運動が起こっているのかもしれません。

このように二つの体系の統一を説明するものとしてのヘーゲル哲学を考えることができるのではないでしょうか。

どんなものも他のものとの関係性や対立なしに、あるものや概念の本質だけを取り出して説明することはできません。

その行きつ戻りつする体系全体の統一、相互に他に転換して帰一する、そして統一がまた対立に分裂するという「無限性」の運動、これがヘーゲルにおける弁証法だとすると、このように一見矛盾するようなものの中にも統一を見出していく哲学こそヘーゲルの哲学であり、スピノザとホワイトヘッドの哲学という遠大な体系にさえ適応し、弁証法的構造の中に両者の体系ごと取り込んでしまう可能性さえもち得ます。

言い換えるとヘーゲルの弁証法の枠組みにおいては、「これが真実だ」という他の体系そのものをすべて破壊する力をも持っているとも言えてしまうということになります。

ヘーゲルの弁証法においては、ある種スピノザやホワイトヘッドの体系さえもお互いの哲学体系との対立や矛盾なくしては、その存在自体が無効化されてしまうような威力をもってしまうという怖ささえあるということです。

スピノザ・ホワイトヘッド体系内部での弁証法運動

また、「それぞれのものがそのものだけで成り立っているのではなく、他のものとの連関においてのみ成り立っている」という弁証法的な概念は、スピノザとホワイトヘッドそれぞれの体系内部においても、見つけることができます。

それぞれひとつずつ例を挙げておきます。

ホワイトヘッドの体系内部における弁証法的関係

その一瞬一瞬の過程において生起する「現実的存在」が規定されるためには、その「現実的存在」以外のすべてのものが、その「現実的存在」自体の成立に影響を与えている、ということがいえます。

つまり目の前に「扉」があると認識したその瞬間に、その他の(「扉」という認識対象以外の)すべてのものが「扉」があるという「現実的存在」に関わっているということです。

その関係性において、目の前にある「扉」と、「その扉を除く全て」とは、ヘーゲルにおける〈一〉と〈多〉のように弁証法的な関係性を構成しているといえるのではないでしょうか。

スピノザの体系内部における弁証法的関係

スピノザの神について『エチカ』第一部 定義6で以下のように規定されています。

  • 「神」によって私は、絶対的に無限な存在者、すなわちその一つひとつが永遠かつ無限な本質を表現する無限に多くの属性において成り立つ実体、と解しておく。

また、そのような事情を上野修は、講談社学術文庫「デカルト、ホッブズ、スピノザ」において以下のように表現しています。

  • 同じものの無数に異なる反復、あるいは無数に異なるもののそのつど同じ反復(通約不可能な差異なしに実体の反復はありえず、しかも反復は「同じ一つのもの」の反復なのだから)

ここにおける実体(神)と属性の関係性は、ヘーゲルにおける〈一〉と〈多〉のように弁証法的な関係性を構成しているともいえるのではないでしょうか。

スピノザにおける「実体」と「属性」の関係性については、以下のブログ記事でも詳しく解説しています。

よかったら読んでみてください。

このように、ホワイトヘッドとスピノザにおける弁証法的理解は、その体系間の比較だけではなく、各々の体系内部においても弁証法的運動が展開されているように自分には感じられました。

そしてそれはまさに、ヘーゲルが『精神現象学』において弁証法的運動を入れ子構造にして無数に配置していることとも合致しているように思います。

ざっとこんなことを漠然と考えたりしましたが、現時点での私にはそのような妄想を膨らませているだけで、これ以上詳しく分析する能力はありません。


以上が「ヘーゲルに取り込まれるスピノザ・ホワイトヘッド」仮説 version1.0になります。

そんなことにヘーゲルの弁証法を持ち出すまでも無いとお叱りをいただきそうではあります。

また、この仮説自体まだまだ漠然とした思いつきという域を出ておらず、細部の論証が粗雑であることは重々承知していますが、今回へーゲルを勉強してみて思いついた仮説をひとまず書き留めておきます。

「本当に検証に値する仮説になっているのか」も含めて、これからそれぞれの哲学者についてさらに学んで行く必要があると思います。

そのような事情もあり、タイトルに「version1.0」とつけています。

新たな発見や、より詳細に論証できる実力がついた際には、いつかアップデート版を書いてみたいと目論んでいます。(そう思っているだけで実現できるかどうかはわかりません…)

まとめ

いかがだったでしょうか。

今回は、ヘーゲルの『精神現象学』を読む上で基礎的な概念の解説と、スピノザ・ホワイトヘッドを絡めた私なりの解釈について記事にしてみました。

自分自身の体験として、「ヘーゲル難しすぎて全然面白くない」から「弁証法すげぇ。ヘーゲルおもしろすぎる!」に変わったきっかけとなる概念について解説したつもりです。

素人解説ですので、あくまでも参考程度でお願いします。

「その解釈違うんじゃないの?」という箇所がありましたらコメント欄からご教授いただければ私の勉強にもなり助かります。

私自身はまだまだヘーゲルから抜け出せそうにありません。

引き続き勉強していきたいと思います。

ではまた。

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