「存在の本質」に関するヘーゲルとフォイエルバッハの相違について

ヘーゲル
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どうも、OGKです。

今回は「存在の本質」について、ヘーゲルとフォイエルバッハにおける二種類の解釈を紹介してみようと思います。

レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』を読む中で、両者の解釈が対立しているということに気づきましたので、知識の整理も兼ねてまとめてみます。

なお、ここで取り上げる「存在の本質」に関して前提知識としては、物事を「本質」と「現象」として二重にみて、「現象を理解しても本質はわからない」と主張し「物自体は認識し得ない」としたカントに対して、ヘーゲルは「現象を全て知れば、その中に物自体(本質)がある」として現象の中に本質を見出しました。

ヘーゲルの説

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牧野紀之訳『小論理学』の中に付録として収録されている論文『ヘーゲル論理学における概念と本質と存在』において以下のように述べられています。

要するに、或る物なり事柄なりの本質とは、その物なり事柄なりが「それとして生まれた時の姿」の中にあるのです。なぜなら、それがそれとして生まれた時はそのものの本質だけが純粋な形で出ているからです。(牧野紀之訳『小論理学』p1149)

ヘーゲルの論理学において、人間というものの本質を考えたときには「それとして生まれた時の姿」としての子供がその本質として規定されることになります。

しかし、それが今この瞬間に生きる個別(実在)としての私の本質を考えたとときにはどうでしょうか。

もちろん私は人間であるからして、その「人間として」の本質は「それとして生まれた時の姿」としての始源形態である子供としての私のなかにあるのだろうと思います。

  • しかし、それは「人間として」の私の本質であって、人間とはある種の抽象であり、それら数多の「人間」のなかでもこの実在としての「私」の本質を考えたときにもはたして同じように考えて良いのか。
  • 今この瞬間におけるこの「私」を形作っているものとは、果たしてその始源形態であるところの子供だった頃の私だけなのか。
  • その「人間として」の本質、つまり子供時代の私だけが私の本質であり、その後の生における有機的な外部との相関関係は私の本質には含まれないのか。

以上のような疑問が浮かんできました。

当論文では、

ヘーゲルの論理学において存在の構造は普通は「現象」と「本質」の二段階として理解されていますが、ヘーゲルの言う「概念」はその本質を更に二分して、いわゆる「本質」の奥に「概念」というものを理解したものである

として説明されています。

そして「全体的な立場から見た本質」これこそが概念であると規定されていることから、概念も本質の一種であると見てよいでしょう。

さらに、その概念の辞書的な定義として「対象となるいくつかの事象から共通の要素を抜き出し、それらを総合して得た一般性のある表象」とされることから、「本質」の導出についても「概念」と同様に「対象となるいくつかの事象から共通の要素を抜き出し、それらを総合」するという操作が必要になると思われます。

そこで改めて、数多の「人間」のなかでもさらに限定的なこの実在としての「私」に話を戻そうと思います。

そのような純粋な個別(実在)としての「私」の本質を考えたとき、はたして「対象となるいくつかの事象から共通の要素を抜き出し、それらを総合するという操作」をすることができるでしょうか。

私の解釈ではできません。

ここまでの話をまとめると、ヘーゲルにおける「存在の本質」解釈のフレームにおいては、純粋な個別(実在)としてのこの「私」の本質を規定することはできず、「何らかの共通の要素を抜き出し、総合する」という抽象化の操作があってはじめてその本質を語ることができるようになると考えられます。

たとえば、人間としてのこの「私」の本質とか、動物としてのこの「私」の本質といったようにです。

このようにヘーゲルの説では、そのものの本質というものを考えるためにはその性質上、その純粋な個別(実在)からある一定の距離(抽象化)を取らざるを得ないということになります。

存在の本質に関して、その始源形態の中だけにその根拠を求めてしまうと純粋な個別としてのこの「私」の本質を導き出すことができなくなってしまう。これが存在の本質に関するヘーゲル説における弱点となっているのではないかと解釈しました。

フォイエルバッハの説

次に「存在の本質」に関して、フォイエルバッハの説を紹介したいと思います。

少し長いですが引用します。

「 或る存在が必然的に関係する対象はそれの啓示された本質にほかならない。例えば、草食動物の対象は植物である。そして、この対象によってこの動物はそれとは別な動物である肉食動物から本質的に区別される。たとえば、目の対象は光であって、音でもなく、臭いでもない。ところで目の対象において我々にその本質が明示されている。だから、或る人が見ないということと目がないということは同じことである。だから実生活においても、多くの事物や存在をただそれらの対象によって呼んでいる。目は『光の器官』 である。土地を耕す者は耕作者(Bauer)であり、猟を自分の活動の対象とする者は猟師(Jäger)であり、魚 (Fisch)を捕える者は漁師 (Fischer)である、等々。だからもし神が必然的および本質的に人間の対象であるならば、この対象の本質の中には人間自身の本質だけが言い表わされているのである」(フォイエルバッハ著松村一人・和田楽訳「将来の哲学の根本命題」岩波文庫第七節)牧野紀之訳『小論理学』p1151より孫引き

私は、自分自身が男であると知っていることによって、すでにもう私とは異なる存在が現実に存在することを、私に属しながら、私の生活のあり方をともに規定している存在が現実にいることを承認しているのである。私は私自身を理解する以前にすでに、その本性からして von Natur aus、他者の存在に自己の根拠を持っているのだ。私は考えることによって、実は自分がもともとのありようを意識化・確認するにすぎない。もともとのありようとはすなわち、他者の存在に根拠をおく、決して無根拠でないあり方としての自分のことである。私ではなく、私とあなたこそが、生と思考の真の原則なのだ。(レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』p195)

「真理は他の自我からわれわれに向かって語りだすのであって、自分自身のうちにとらわれたわれわれ自身の自我からなのではない。 伝達による共有を通じてのみ、人間と人間の会話を通じてのみ、理念も浮かんでくるのだ。二人の人間がいっしょになってひとりの人間を作るのだ。精神的にも身体的にもである。人間と人間の合一こそは、哲学の、つまり真理と普遍性の最初にして最後の原則なのだ。というのも、人間の本質は、人間と人間との合一にのみ含まれているからである。その合一は、私とあなたの相違という現実に依拠した合一である。思考と哲学においても私は、人間といっしょにいるからこそ人間なのだ」。(レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』p195-196)

存在の本質を、その物なり事柄なりが「それとして生まれた時の姿」の中にみるヘーゲルの解釈とは対照的に、フォイエルバッハは「人間の本質は、人間と人間との合一にのみ含まれている」とし、存在の本質がそのもの自身の自我に属するのではなく、他者の存在にその根拠を持つとしています。

たしかにフォイエルバッハ説で解釈しますと、ヘーゲル説においてボトルネックになっていた、純粋な個別(実在)としてのこの「私」の本質についても説明することができます。

つまり何の抽象化も行わず、ただ純粋な「私」の個別(実在)としての本質は何か、と問われれば、それは自分と自分の対象との関係性であると、さらにはこの私と他の存在との合一であると回答することができます。

このような考えがフォイエルバッハにおける「存在の本質」解釈になります。

両者を調停することはできるのか。

前節までヘーゲルとフォイエルバッハおける「存在の本質」解釈に関してそれぞれの主張を説明しました。

ここまでの解説では「存在の本質」に関して、ヘーゲル説では個別に対して「存在の本質」を規定することができないため、フォイエルバッハ説の方が優れているのではないかという私の解釈でしたが、フォイエルバッハ説を取ったとしても、それですべてスッキリ解決するというわけではなさそうです。

以下では、両者における対立構造の確認とその調停の難しさをみていきたいと思います。

ヘーゲル説で、存在の本質としての「それとして生まれた時の姿」は弁証法の説明でいうところの即自態をイメージさせます。

即自態は「それ自体としてある対象のあり方」であり、いまだ対自存在と対他存在に分化する前の「直接性」という論理的性格を持ったものと考えられます。

ヘーゲルとしては、そのような論理的性格をもつ「存在の本質」に関して、他の事物との関係性を主張するフォイエルバッハのような立場を取ることができなかったのでしょう。

つまり、フォイエルバッハの説をとると、ヘーゲルの体系内部において矛盾が生じてしまうことになります。

また、ヘーゲル説では「存在の本質」はあくまでも即時態であるところの始源形態の中にだけ求められます。それに対してフォイエルバッハは、他者との関係性が問題になるレイヤーにおいて、その存在の本質が規定されているという立場です。

このように両者において、「存在の本質」に関して所属するレイヤーの相違が認められます。

弁証法に関するレイヤーの違いについては、別に記事を書いていますのでそちらを参照してください。

『論理学』では「存在論」「本質論」「概念論」の三部構成になっており、それぞれが「即自態」「対自態」「即かつ対自態」と対応しています。

ヘーゲルはその『論理学』の本質論の冒頭に「仮象」を置きました。

そこで「仮象」とは「本質論の段階で捉え直された存在」だとされます。

フォイエルバッハは、「存在の本質」を対自態、つまり他者の存在も想定されているレイヤーにおいて規定しており、それをヘーゲルは、「本質論の段階で捉え直された存在」である「仮象」と規定しているということです。

この解釈ではヘーゲル説の方がより根源的な存在の本質をとらえているようにも思えます。

このように存在の本質に関して二人の考えは対立するものとなっており、どちらの説がより存在の本質を真に捉えたものであるのか、現時点での私には判断することはできませんでした。

まとめ

いかがだったでしょうか。

今回の記事ではヘーゲルとフォイエルバッハそれぞれにおける存在の本質に関する解釈の紹介と論点の整理をしました。

両者の説の統一(調停)については現時点での私の身に余る難題ですので、今後なにか新しい視点や解釈に出会った時点で共有したいと思います。

それではみなさま、2024年もお世話になりました。

良いお年を。

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