どうもOGKです。
今回は、武市健人「ヘーゲル論理学の体系」から引用しつつ、スピノザの体系が抱える「意志の自由」に関する矛盾について、ヘーゲルの哲学においてどのように調停されているのか、いつものように私の独断と偏見により考察してみました。
スピノザにおける「意志の自由」に関しての矛盾
有論においても、本質論においても、一者は他者の対立を通してのみ自己の本質を明らかにする。他者との対立、関係を離れては、自己の本質そのものがあり得ないのである。ただ、有論では時間的過程の上でそれが証明せられるのに対して、本質論では一者の存在と同時にそれが証明せられる。そのかぎりでは、本質は本質として、あくまでも可能性であり、影の国である。またそのかぎり、ヘーゲルの本質もスピノザの静的実体を出でない。その点でまた、前にすでに述べたように、有の論理とその有の根底としての本質の論理は共に客観的論理学に属す。 有の論理が現象的存在の論理だとすれば、本質の論理はスピノザの実体論に定位する。第二巻本質論は、一般にスピノザの実体の必然性に定位していると云ってよい。後に本質論の最後に展開せられるように、本質は必然性であって、そこには自由はない。たとえ、そこにも自由があると云えるにしても、それはスピノザにおける必然が自由であるという意味においてのみ自由であり、 消極的自由にすぎない。
(武市健人「ヘーゲル論理学の体系」p90)
ここに言われる「自由」とは「意志の自由」のことを指していると思います。
「意志の自由」とはなんでしょうか。
ひとまず、われわれ人間がなにか行動を起こす際に、主体的な行動選択の余地が残されていること、としましょう。
そのように人間の「意志の自由」を考えたときに、スピノザの決定論とは矛盾するように私には思われるのですが、スピノザに言わせるとそれは矛盾ではありません。
上記引用で『消極的自由』といわれる「神の必然性によって決定された事物こそが自由である」というスピノザの論理は、私にはどうしても納得できません。
すべては神の幾何学的な証明から必然的にその存在を決定されているスピノザの決定論においては人間の「意志の自由」は想定されていないので、その決定論の哲学の中で自由を語るスピノザにおいての自由とは「意志の自由」を意味してはいないのでしょうか。
上記引用のスピノザにおける『消極的自由』が「意志の自由」を含まないということを意味するのであれば、ヘーゲルにおける『積極的自由』とは、「意志の自由」を含み込んだより広義の自由ということになるのでしょうか。
ヘーゲルによる相互方向的な存在論解釈と弁証法的統一
ところが、本質が真に動的な本質であるということは、本質があくまでも現実、有においてあり、有との現実的な関係においてあることでなければならない。可能的本質は現実的な有の過程の中においてはじめて開示されねばならぬ。神は世界の中ではじめて神の光を発揮する。と云うことは、現実的な有が可能的本質の必然的契機となることである。なるほど、本質はそれ自身本質である。神はそれ自身で神であるから全能である。従って有こそ本質の現象したものである。けれども、この本質の現象したものとしての有が、たとえ現象として、実は仮象として、一面では本質の単なる様相にすぎないにしても、本質は有、即ち自己自身の他者としての様相を自身の現象の必然的契機としなければならない。つまり、それ自身本質であり、同時的反省としての可能的本質が現実的な有における本質となり、従って同時に現実的な有がそれ自身本質となる。云いかえると、現実的な有がそれ自身本質となり、本質が有の中に現われるのである。すなわち、 本質はもはや単に可能的にあるのでなく、現象としての有そのものの中にあるのであり、現象がそれ自身本質となるのである。更に云いかえると、反省的なものとしての本質が、再び移行的なものとしての有に帰り、有と本質とが統一し、有の中に本質が帰るのである。従って移行的な有の過程の一歩一歩が本質そのものなのである。このことは、これを裏から云えば、本質は有の移行的な過程を離れてはあり得ないということである。そしてこの有と本質との統一、有における本質が「概念」であるから、概念は本来的に移行的である。しかし、この概念の移行は、単に現象としての有の部分的な移行でなくて、可能的な本質そのもの、云わば物自体そのものの全面的な移行であるから、これをヘーゲルは「発展」と呼ぶのである。
(武市健人「ヘーゲル論理学の体系」p90-91)
ヘーゲルにおける「自由」とは、何を意味するのでしょうか。
上記引用中の文言を下記のように言い換えることもできます。
- 「本質」= スピノザ的〈実体(神)〉
- 「有」 = スピノザ的〈様態(個物)〉
引用文中にもあるように、ヘーゲルの弁証法的な世界観の中では、スピノザ的〈様態(個物)〉はスピノザ的〈実体(神)〉によって一方向的に、神の現れとして措定されているわけではありません。
偶然的に実存する個物(有)が神を規定している、つまり〈様態(個物)〉⇨〈実体(神)〉というスピノザとは逆方向のベクトルをも措定しています。
つまりヘーゲルにおいては、個物が必然的な神の現れである( 実体 ⇨ 様態 )と同時に、〈偶然的〉な存在であるはずの個物が〈必然的〉な神をも規定している( 様態 ⇨ 実体 )とされていることになります。
ここにヘーゲル哲学における「循環論」としての側面が現れているのではないでしょうか。
そしてその両者を弁証法的に止揚することで「発展」の概念を持ち出しています。
どこかに私の誤読があるとは思うのですが、そのようなヘーゲルの論理において、どうしてもスピノザ的矛盾を感じてしまいます。
例えば、偶然的な存在である「個物(人間)」が、その偶然性ゆえに「意志の自由」を持っていると仮定してみましょう。
必然性の支配するスピノザ的世界では「意志の自由」の入り込む隙はないので、特に不自然な仮定ではないと思います。
ヘーゲルはその偶然的であるがゆえに「意思の自由」を持っている個物が、すなわち実体としての神であると主張していることになります。
そんなことになれば〈偶然的な神〉が誕生してしまうことになりはしないでしょうか。
しかし、ヘーゲルはスピノザにおけるこの矛盾に気づいていただろうと思います。
だからこそ、あえて対立・矛盾する関係を前提とする弁証法的な哲学体系の構築をめざしたのではないでしょうか。
つまり、「そこ(スピノザ)に間違いなく矛盾はあります」と認めた上で、その矛盾を統一する体系を示すことでスピノザを乗り越えようとしたのではないでしょうか。
ヘーゲルによる「意志の自由」解釈
本質は天上の神の立場、即ち始元の本質である。しかしこの本質は、前に天上の神が神自身であると共に自己の存在の根拠として、神における自然を反面にもち、それ自身対立の統一としてあって、これを一元として見れば神そのものであったのと同様の関係にある。始元はただ本質であり、天上の神はここでは本質であるが、それは反面に有をもち、有との対立の統一としてただ本質である。このことをただ一言で云えば、本質が始元であり、天上の神である。そしてこの対立の統一は、 世界または時間の創造以前のものとして、同時的であり、無時間的である。ところが、この本質が対立の統一としてそれ自身二元の統一であり、それが表面上ただ一元的に本質そのものとしてあることは、必然に自己の反面を台頭せしめ、対立物である有を措定せざるを得ない。これをエンチクロペディーの体系で云えば、天上のロゴスは反面に自然をもちながら、それ自身ロゴスとしてあるために、自然を現実的に措定せざるを得ない。これを自然の面から云えば、そこにおのずから自然が台頭せざるを得ないのである。
(武市健人「ヘーゲル論理学の体系」p96)
ヘーゲルはスピノザの矛盾をどのように乗り越えようとしたのでしょうか。
スピノザの論理では「神の幾何学的な証明から必然的にその存在を決定されている事物、そのような決定形式そのものを指して自由である」といいます。
それを次のように翻訳できないでしょうか。
上記の引用にもあるように、
「それが表面上ただ一元的に本質そのものとしてあることは、必然に自己の反面を台頭せしめ、対立物である有を措定せざるを得ない」
つまり別の例で言うと、〈一〉という概念はそれのみ単体では存在することはできず、その反対概念である〈多〉という概念をも無時間的に生み出さざるを得ません。
〈一〉があればその反対の概念である〈多〉も必然的に存在してしまうということです。
とすると、以下のように考えることもできるのではないでしょうか。
スピノザのエチカにおいて、無限な神や決定論が幾何学的に導かれるということは、必然的にその反面を台頭せしめ、対立物である「有限な事物」や「意志の自由」を措定せざるを得ない
「無限」や「決定論」があるなら、その対立概念としての「有限」や「意志の自由」も当然あるだろう、ということです。
そこにヘーゲルは着目し、弁証法的な対立構造をその論理学の基礎として据えたのではないでしょうか。
つまりヘーゲルは、このような論理を「有限な事物の世界において意志の自由は存在している」ということの証明に転用できないだろうかということを考えているのではないか、とまで言ったらおそらく言い過ぎでしょうね…
まとめ
いかがだったでしょうか。
今回もかなり自分勝手に想像を広げて解釈していますのでツッコミどころ満載な感じがしますが、ひとまずは書いたことを出しておきます。
記事内でも書いたように、その成否はともかくヘーゲルがスピノザの哲学における矛盾を意識していたこと、そしてその矛盾を乗り越えようとしたのではないかと思います。
そしてヘーゲルとしてはそれを成し遂げたと自負していたことでしょう。
しかし、このようなヘーゲルの観念的な考察によって、はたして我々実存的な人間の「意志の自由」を証明することに果たしてなるのだろうか、という後の批判はもちろん出てくるのだろうとは思います。
ヘーゲル哲学の弱点や、それに対する批判についても今後その批判者の哲学含め読んでいきたいところです。
ではまた。
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