丸眼鏡に現れる本質からのずらし方について

雑記
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よく文豪が掛けているような丸眼鏡を買った。

しかしこの丸眼鏡よくよくみてみるとただの丸眼鏡ではない。

ものすごく繊細に絶妙なバランスでデザインされている。

昔から眼鏡は好きでちょくちょく新調しているが、ここまでそのデザインに作り手のこだわりを感じるものは初めてだ。

別に私は眼鏡に詳しいわけではないが、そんな私でもこの繊細さには唸らざるを得なかった。

二つの視点から検証してみたい。

玉型

まずは玉型から。

レンズが収まるフレーム部分(玉型)が真円のものを純粋な丸眼鏡とすると、そこから玉の縦幅を短くしていくと所謂オーバル型と呼ばれる楕円形のジャンルの眼鏡になっていく。

とくに玉型が真円のものだけを丸眼鏡というわけではなく、少し縦幅を短くしたものでも丸眼鏡とされている。

真円の玉型は、人間の目の構造上少し縦幅が長く見えてしまうという。

そのため、玉型を若干横長にする必要がある。

たしかに私の眼鏡も真正面から見ると縦幅が若干だけ短い。

でもそれはオーバル型まではいかない。

あくまでも丸眼鏡の範疇に収まるぎりぎりのラインを攻めている。

あと数ミリ玉型の縦が短くなればなればそれはもうオーバル型の眼鏡になってしまうし、逆に数ミリ長くなれば真円になってしまう。

その中間の絶妙なバランスの玉型になっている。

智の位置

次に智の位置について

玉型とテンプルをつなげる智というパーツが取り付けられている。

玉型に対する智の位置の高低もその眼鏡の性格を表す重要なデザイン上の要素になっている。

智がその玉型の上部につくとそれはボストン型の眼鏡に分類される。

必然的に玉型自体も逆三角形のような形状になり、丸眼鏡の定義から外れる。

丸眼鏡において、もちろん玉型の上下幅の中心に智が着いていても良いのだが、それでは大阪の「くいだおれ太郎」のようなすこし間抜けな印象になってしまう。

つまりボストン型まではいかず、あくまでも丸眼鏡の範疇に収まる程度だけその玉型の中心から上に数ミリずらした位置に智を設置するというデザイン上の最適解が導かれる。

私の丸眼鏡は、そのような設計思想のもと智が取り付けられているようにみえる。

少しだけずらすこと

どちらの観点も針の穴を通すような数ミリ単位の繊細なこだわりである。

真円の玉型と、上下幅の中心に位置する智をもつ丸眼鏡を純粋な丸眼鏡の本質としたときに、その本質からほんの少しずらす。

「神は細部に宿る」

その本質からのずらし方が「細部に宿った神」であり、その眼鏡の様態としてのあり方を決めている。

眼鏡に限らず最近はそのような「そのものの本質から少しずらす」ということについて考えている。

例えば、スピノザの哲学からほんの少しだけヘーゲルの哲学の方向にずらすとか。

エッセイと小説と短歌のバランスポイントを探るとか。

今回の記事のように少しだけいつもの自分の書き方からずらすとか。

何かと何かを掛け合わせるのではなくて、その目盛りを少しだけ違うベクトルに振り向ける、重心を移動させる。

大幅にずらすのではなく、あくまでも繊細に絶妙にずらすということにセンスが求められるのだろうなと思う。

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