映画「教皇選挙」私的考察【ネタバレあり】

雑記
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どうもOGKです。

今回は映画『教皇選挙』の私的考察記事になります。

ちょうど新ローマ教皇の就任と重なり、話題になっていたこともあり観に行ってきました。

私はキリスト教について詳しくないため、あくまでも私的な解釈ということで読んでもらえればと思います。

では早速いってみましょう。

「確定」させないこと

映画全体のメッセージとしては、コンクラーベ冒頭のローレンスの演説に凝縮されています。

そこで言われる「確定させるな」という言葉。

その言葉に託された意味は、通常想定される「確定」のそれより遥かに多く、多様な概念を含意しているのではないでしょうか。

ヘーゲルのように合理主義を極限まで突き詰めるとその終着点に「統一」を構想せざるを得なくなります。

その果てはファシズムのような全体主義にもなりうる。

「統一」とはある種の「確定」です。

この映画自体がそれに対するアンチテーゼになっていると思います。

物語終盤までは、「確定」的な主義主張を持つ存在の象徴としてのアデイエミ、ベリーニ、トランブレ、テデスコが有力な新教皇候補として物語が進みます。

しかし、アフガニスタンの首都カブールの大司教であるベニテス枢機卿が最終的に新教皇に選ばれて物語は終幕します。

この人物の両性具有(インターセックス)というパーソナリティがまさにドゥルーズ的には「中間」であり、アドルノ的な「否定弁証法」を体現した人物であり、そこにヘーゲル的な統一はなく、矛盾を矛盾のまま抱えた存在でもあります。

映画全体のメッセージとしての「確定させないことの重要性」を、「未確定」の象徴としてのベニテスに託したのだろうと私は解釈しました。

「未確定」な状態にあることに伴う恐怖や不安と戦うこと

「未確定」な状態は、恐怖や不安を伴います。

ベニテスが新教皇に決まりホッとするのも束の間、両性具有の事実を知り、驚きの表情を浮かべるローレンス。

その表情は両性具有というある種の「未確定」の象徴を持つ候補者が選出されてしまったことへの不安定感をそのまま表しています。

「敵は外部にはなく、自分自身と戦うということ」

ベニテスが弁舌をふるうシーンがあります。

そのような存在をこそローレンスは求めていたのであり、自らもコンクラーベ冒頭の演説でそれを公言してもいます。

そんなローレンスでさえ、「未確定」な状態に伴う不安や恐怖感に襲われ、

「本当にこれでよかったのか」

と自問自答せずにはいられない。

不安や恐怖に負けて「何か特定の立場」に縋ってしまうのではなく、自らに対する「否定」を持ち続けること、常に「中間」であり続けること。

まさにこれこそがこの映画における一番のメッセージではないでしょうか。

まとめ

今回は映画「教皇選挙」について私の解釈を書いてみましたが、いかがだったでしょうか。

映画全体としてはよくできており、キリスト教やコンクラーベについての事前知識がなくとも楽しめる構成になっており、メッセージ性も比較的わかりやすく表現されています。

この記事では自分が勉強している哲学に引きつけた解釈になっていますが、キリスト教徒の方が観たら全く別の視点や解釈があるのかもしれないと思いました。

書いていて、別にわざわざブログ記事にするほどの解釈でもないように思えてもきましたが、とりあえず書き上がってしまったので公開しておきます。

ではまた。

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