説得力とはなんなのかと考えてみた。
AとBの二人が全く同じ思想、たとえばこの世に神は存在していると信じて生きているとしてみよう。
一口に神と言ってもいろんな神がいるが、まぁ大雑把に同じような神を信じているとしよう。
一神教でも多神教でも、人格神でも八百万の神でもスピノザの神でもイエス・キリストでもなんでもいい。
とにかく、最終的な結論として二人は全く同じ神を信仰している。
ある時その二人が偶然にも知り合う仲になり、そしてお互いに同じ神を信仰しているということがわかったとしたら。
当然二人は意気投合するだろう。無二の友を得たと言わんばかりにお互いを認め合うことだろう。
初めはそれだけで満足だったろう。
しかし、Aにとっての神とBにとっての神は当然全く同じではない。
そのバックボーンとなる知識体系も違えば、その細部の解釈も微妙にズレていることに気づくのにそこまで時間はかからない。
鳥が上空からある街を見下ろしている。
その街を上空から見下ろしているだけでは、全体が景色として視認されているだけで当然その細部まではわからない。
鳥はどんどん街に降りていく。
家の屋根が見えるがその内部がどうなっているのか、その鳥からは想像することしかできない。
もしかしたら、スポンジケーキのようなスカスカなものでその内部が埋め尽くされているだけかもしれない。
はたまた一つ屋根の下で、さまざまな人間ドラマが繰り広げられているのかもしれない。
鳥には実際に見えている屋根から、実際には見えないその内部を想像することしかできない。
でもたとえ実際には見えていないとしても、その「内部という領域」はたしかに存在する。
それだけは確かだ。
それはスカスカのスポンジケーキみたいなものかもしれないし、精巧に作られた機械式時計のようなものかもしれないし、人間が住める居住空間が広がっているのかもしれない。
ただどんなものにでも分け隔てなくその内部は存在する。
話をAとBに戻そう。
つまり、二人が同じく信仰していると思っている神なんてものは、鳥が上空から見た家の屋根みたいなものだということ。
二人が信仰している神にも当然その内部は存在する。
同じ神でもその中身がスポンジケーキと機械式時計ではまったく話が噛み合わない。
「神は細部に宿る」とかいうけど、「説得力は内部に宿る」と自戒を込めて言っておきたい。
そして人は、一歩一歩地道にその内部を仕上げていくという戦略しか取りようがないだろう。
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