どうもOGKです。
さて今回は、牧野紀之訳ヘーゲル『小論理学』の中から、第20節 注釈「感覚と表象と観念の違い」について、自分自身の知識の整理も兼ねてまとめておきたいと思います。
いつもだらだらと長くなりがちなので、今回はあまり長くならないように、三つの主な違いを簡潔に挙げておき、今後の読書において新たな知見があればその際に追記していくことにします。
2024/11/20 内容修正を行いました。
当初の記事公開時点では、表象の「内容」は個別的とし、「形式」は普遍的としていましたが、その後『小論理学』p303第二四節付録1でその内容が「感覚に由来するもの」と「自己意識に由来するもの」それぞれにおいて、その内容と形式がもつ性質が逆になっているという記述があったため、その内容を記事に反映しました。
ただし、その解釈に関しては難しいものがあるようです。詳細は「表象」の項目を参照してください。
ヘーゲルにおける「感覚と表象と観念の違い」については、その内容と形式がそれぞれ「個別性」をもつのか 、「普遍性」をもつのかということが区別の基準になってきます。
まずは以下の表でイメージをつかんでもらってから次に進んでもらえればと思います。
内容 | 形式 | |
---|---|---|
感覚 | 個別性 | 個別性 |
表象 | ①個別性 ②普遍性(個別性) | ①普遍性 ②個別性(普遍性) |
観念 | 普遍性 | 普遍性 |
感覚
- 「みそ汁の味」といったように感覚で捉えるしかないもの
- 論理的性格として「個別性」をもつ。
「個別性」とはつまり相互外在的であるということです。
さらに詳しい説明として、「個別性」を空間的に捉えたものが並存性で、それを時間的に捉えたものが継起性(前後性)です。
表象
表象は大きく二種類に分かれます。
私たちの表象を観察してみますと二つの種類があります。一つは、内容は思考から来るが形式はそうでないというもので、もう一つは、逆に、形式は思考に属するが内容はそうではないというものです。例えば、怒りとかバラとか希望という言葉を口にする時、この言葉の内容はみな感覚によって知られているものなのですが、その内容を私は普遍的に、観念という形式で表しているわけです。その際には多くの特殊的なもの〔或るバラを例に取ると、そのバラの大きさや色や香りなど〕を度外視してその内容を単に普遍的なものとして言い表しているのですが、内容はやはり感覚的〔個別的〕なものです。逆に、神を表象する時には、たしかにその内容は純粋に思考に由来するものですが、形式はいまだに感覚的です。つまり、 私は神という観念を直接私の中に見出す形式のままで取り上げているわけです。そのように、或る対象をただ観察するという場合にはその内容はつねに感性的でしょうが、表象においては必ずしもそうではなく、 内容が感性的で形式は思考的という場合と、その逆の場合とがあります。前者の場合では素材は〔感覚から〕与えられており、〔その内容を捉える〕形式が思考に属しています。後者の場合にはその内容は思考から来るのですが、〔それを感覚という〕形式で捉えるために、その内容が与えられたもの、つまり外から精神にやってくるものになってしまうわけです。(牧野紀之訳ヘーゲル『小論理学』p303第二四節付録1より引用)
「内容が自己意識に由来する表象」には、例えば「憲法から北東へ二キロメートル行くと刑法がある」というような意味での空間的な併存性はなく、「明治憲法と新憲法の間には五八年という時間的へだたりがあるが、五八年という時間が新憲法の内容そのものを規定しているわけではない」というように、時間が内容に関係しているわけでもありません。
つまり「内容が自己意識に由来する表象」は、上記のような「個別性」における特徴(並存性と継起性)を備えていない、すなわちその内容において「普遍性」を示しています。
しかし、以下のように「第20節 注釈」では、「内容が自己意識に由来する表象」の内容が「個別化されている」との記述があることから、ヘーゲルの主張としてはその内容が「個別性」を示すと言っているようにも思えます。
- この場合の表象の表象たる所以は、一般に、表象の中ではそのような普遍的な内容でさえ個別化されているということ
- それらのそれ自体としては精神的な諸規定が、表象一般の内的で抽象的な普遍性という広い地盤の上ではやはり個別化されているということ
- それらの規定は、例えば法、義務、神といったように、個別化されて単純なものになっている。
翻訳者の牧野紀之はその訳註(p279)において「やはり、表象では結局は内容が個別=感性化されたもので、形式は普遍ということになるのだと思います。」と書いていることからも、「内容が自己意識に由来する表象」がその内容において個別性を示している、という解釈をしているのだと思います。
そのような解釈を取ると、上で引用した牧野紀之訳ヘーゲル『小論理学』p303第二四節 付録1の赤マーカー部分の内容と矛盾するように思うのですが、難しいところです…
(②の「内容が自己意識に由来する表象」において)神を表象する時には、たしかにその内容は純粋に思考に由来するものですが、形式はいまだに感覚的です。つまり、 私は神という観念を直接私の中に見出す形式のままで取り上げているわけです。
(②の「内容が自己意識に由来する表象」)の場合にはその内容は思考から来るのですが、〔それを感覚という〕形式で捉えるために、その内容が与えられたもの、つまり外から精神にやってくるものになってしまうわけです。
ここだけ読むと、「神とか法律などの内容が自己意識に由来する表象は、その個々の内容としては普遍的だが、それを言葉にした瞬間に”私の認識する神”とか”私のイメージしている法律”というように個別的な形式において現れてくる」とも読み取れます。悩ましいものです。
また、②の「内容が自己意識に由来する表象」の中でもさらに二種類に分けられます。
観念
- 論理的性格として「普遍性」をもつ。その内容も普遍なら形式も普遍である。
- 観念とか普遍であるということは、自分自身であるとともに自己の他者でもあり、自己の他者をも覆い、何物をも逃さないことである。言語は思考の作ったものだから、普遍的でないものは言語の中で言い表すことができない。
私が 「この個別」とか「ここ」とか「今」と言うとすると、その時、これらの言葉は、すべて実際には普遍であるということです。つまり、どんなものでもあらゆるものが「個別」であり、「このもの」であり、たとえその「このもの」が実際に感性的なこのもの、つまり「ここ」や「今」であっても、ともかくそれは「このもの」です。
同様に、私が「私(Ich)」と言う時、私はこの全ての他者を排除した「私」を言い表していると思っていますが、誰でもがその人自身の立場で自分自身を考えたときには「私」です。つまり誰でもが私の言い表しているものと同じものであり、自己から全ての他者を排除する「私」であるといえます。
つまり、「感覚(感性的なもの)」の規定として「個別性」と「相互外在性」とを挙げましたが、これらの規定自身もまた(言葉にした時点から)観念であり普遍であるということになります。
まとめ
いかがだったでしょうか。
「感覚と表象と観念の違い」に関して「弁証法」的な関係性を構成しているということに、今回記事を書いている途中で気がつきました。
ことヘーゲルに関しては、どこを切り取っても「弁証法」的な関係性を見出すことができ、その体系ののなかにおいて「弁証法」が入れ子構造のようになっていることが特徴的です。
「弁証法」の金太郎飴みたいなものですね。
ヘーゲルの弁証法については以前に解説記事を挙げておりますのでよろしければそちらも読んでみてください。
リンク先の記事で紹介している概念との対応関係でいうと、
- 「即自存在」⇄「感覚」
- 「対自存在」⇄「内容が自己意識に由来する表象」の「① 孤立的把握」
- 「対他存在」⇄「内容が自己意識に由来する表象」の「② 属詞(述語)を与えて並列させる」
にそれぞれ対応しているのではないかと思いました。
ではまた。
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