どうも、OGKです。
今回は「個と無限」佐藤一郎著に収録されております論文「『エチカ』第一部の二つの因果性がめざすもの」を取り上げたいと思います。
当論文は「属性の問題」と並んで、スピノザ解釈史において歴史的に論争を巻き起こしてきた「二重因果性の問題」について筆者の回答を提示している内容となります。
スピノザ哲学の根幹に関わる重要な論点であると同時に、「二重因果性の問題」を考察することで、「実体」「属性」「様態」の特性の違いや、関係性をより明確に理解することができます。
今回はいつにも増して、とても長い記事になってしまいました。相当な物好きでもない限り最後まで読み通してはもらえないだろう、と自覚しています。
論文の要点だけ概観したい方は記事の最後に「まとめ」を記述していますので、そちらに目を通してください。
記事中の「エチカ」から引用している箇所については、スピノザ全集版上野修訳を掲載しています。
それでは気合を入れてやっていきたいと思います。
「二重因果性の問題」とは何か
スピノザは「エチカ」第一部で実体からの様態の生起を二つの因果性によって説明しています。
スピノザは、果たして、因果性Cⅰと因果性Cⅱとを数的に別個のものと捉えていたのか、それとも、数的に同一のものと捉えていたのか。これが「二重因果性の問題」になります。
「実体」「属性」「様態」についての基礎的な知識は下記リンク先の記事でまとめています。先に読まれてからの方が当記事を理解しやすいと思います。
一般的な解釈としては、因果性Cⅰと因果性Cⅱとを数的に同一と見なすという捉え方になります。
それはつまり、無際限に連なる個物の因果連関全体による決定(Cⅱ)が、取りも直さず神の本性の必然性から無限に多くのものが生起するという因果性(Cⅰ)に他ならない、という捉え方です。
同一説の代表的な論者として、
- ヴィム・N・A・クレーファー(Wim N. A. Klever)
- フレア リック・コプルストン (Frederick C. Copleston; 1907-1994)
- オッリ・コイスティネン (Olli Koistinen; 1956-)
が挙げられます。
それに対して、当論文において筆者は定理28より明確に二つの因果性は連続せず別の因果性であるとしています。
定理28の証明は有限な個物が神を原因として生起する仕方を示すが、同時にCⅰとCⅱがともに神を原因としながら不連続であることをはっきり際立たせている。前半部分は次の( i )(ⅱ)(ⅲ)をそれぞれ大前提、小前提、結論とする三段論法の形をとる。
- ( i )存在と作用へ決定されたものはどれも神によってそのように決定された 。
- (ⅱ)有限であり、決定された存在をもつものは、神のある属性の絶対的本性からは産出されることができなかったし、永遠かつ無限な様態的変状に変容した限りでの神あるいは神のある属性からもやはり生起することができなかった。
- (ⅲ)有限であり、決定された存在をもつものは、有限であり、決定された存在をもつ様態的变状に様態化した限りでの神あるいは神のある属性から生起し、あるいは存在と作用へ決定されなければならなかった。
(ⅱ)で行われているのは、Cⅱを成立させる有限な個物がCⅰの要素から生起しうる可能性の吟味である。その結果属性と直接無限様態から生起する可能性は否定されている。(ⅲ)では有限な個物が他の有限な個物から生起すると言われる。有限な個物が間接無限様態(属性から直接産出された様態を介して生起する様態)から生起すると言われていないことに注目しなければならない。その可能性については全く触れられていない。
間接無限樣態からの有限な個物の生起という因果関係の段階が欠落していることは、(ⅱ)と(ⅲ)のあいだに断層があること、すなわちCⅰとCⅱが連続せず、別の因果性として扱われていることを意味する。無限様態と有限な個物は位相を異にするCⅰとCⅱによってそれぞれ生起し、この限りでは無限様態と有限な個物のあいだに繋りを索めることはできないように見える。定理28の証明でスピノザはこのようにCⅰとCⅱを峻別しつつ提示している。しかしCⅰとCⅱの不連続は完全な断絶を意味するのではない。CⅰとCⅱの関係が問題になる。それは不連続の理由、換言すれば峻別の根拠を示すことによって瞭かになる。(p.3−4)
筆者は「しかしCⅰとCⅱの不連続は完全な断絶を意味するのではない。CⅰとCⅱの関係が問題になる」としており、CⅰとCⅱがなんの関係性もなく、完全に断絶しているとは言っているわけではありません。
むしろ因果性CⅰとCⅱの関係性を明らかにしていくことが、スピノザの主張を真に理解する上で重要であるとしています。
不連続説の論者としては筆者の佐藤一郎以外に
- マルシアル・ゲルー (Martial Gueroult; 1891-1976)
- 松田克進(詳細は「スピノザ学基礎論」第3章を参照)
を挙げることができます。
佐藤以外の各論者の詳細な主張内容については、松田克進著「スピノザ学基礎論」の第3章を参照してください。
個物の無限性と永遠性がCⅰの因果性でどのように帰結するのか
ここからは筆者の主張する因果性CⅰとCⅱの不連続について、論文の流れに沿ってみていきたいと思います。
まずCⅰの意味を検討します。
取り上げられる主な定理としては、第一部定理16、定理21〜27です。
最終的にこれらの定理がすべてCⅰについての記述であることが結論されます。
筆者は、Cⅰを提示する定理21-23とCⅱを提示する定理28のあいだに位置する定理24-27が、Cⅰについての記述なのか、それともCⅱの要素である有限な個物を扱っているのかを見極めることが、CⅰとCⅱの関係を確定する手掛かりになる、としているよ。
以下で詳しく見ていきます。
定理21は直接無限様態を扱い、定理22は間接無限様態を扱っています。
定理21-23が提示するCⅰの意味は次のように纏めることができる。Cⅰは属性を原因とする一対一の因果関係であり、様態の無限性と永遠性を可能にする制約である。この因果関係では、与えられた原因の内部に結果が必然的に生起し、結果は原因とともに常に、無限なものとして存在する。(p.6)
属性の絶対的本性(永遠無限である限りの属性)から直接に生起するにしろ、直接無限様態を媒介して生起するにしろ、無限様態の原因は属性であり、その無限性と永遠性は原因としての属性の無限と永遠に依拠する。様態は属性の絶対的本性との関係で考えられる場合に限って無限性と永遠性をもつ。
このようにCⅰにおける因果性では、属性の絶対的本性つまり、神に由来する「永遠性」を様態はもつことになります。
言い換えると、Cⅰは「因果的に連結された様態の集合」である属性内部(Cⅱ)に対して、その外に位置するものであり時間性から逃れた無時間的なもの、すなわち「永遠の相」に属するものであるということになります。
定理16(この定理とともに様態の生起の演繹が始まる)がCⅰの記述であることの予測を次のように立てておきたい。定理16は、神の本性の必然性から生起するのが「無限に多くのもの (infinita)」であることに加えて、これらが「無限に多くの仕方で (infinitis modis)」生起すると言う。その証明からもわかるとおり、これは定理16が無限数の属性で構成される実体を念頭に置いているからである。「無限に多くの仕方で」とは、無限数の属性に応じて異なった仕方でという意味である。定理16は原因の側からみたの様態の生起の記述である。そして定理19で神とその全属性との同一が Deus, sive omnia Dei attributa として示されてから、定理21と定理22は神のある属性から生起する様態ひとつひとつの性格を無限性および永遠性として規定し、定理23ではこれらの性格が属性を原因とすること、従ってこれらの性格を担う様態が属性から生起しなければならなかったことを確認している。つまり定理21-23では、定理16の「神的本性の必然性」すなわち実体と様態の因果性の結果の側に焦点が定められているのである。(p.7)
定理16においては、定理21〜23と比較してそれぞれを原因の側からみた様態の生起の記述(定理16)と、実体と様態の因性の結果の側に焦点が定められた記述(定理21-23)として対比的に分析されています。
定理24は神がすべての物の存在の起成原因であるという主張を含む。この定理が有限様態を扱うと看做す通常の解釈は誤りである。証明が示すように、本質が存在を含むものは自己原因であり、自己の本性の必然性のみによって存在する(つまり神である)。「神によって産出された物」 は、神的実体との対照でそこから生起する一切の様態を包括している。正確にはこれらの物は、有限な個物の生起が示されていないこの段階では、直前の定理21-23で規定された無限様態を指し、定理28を俟って有限様態を含むと言えるのである。(p.7)
定理24はこう読まれなければならない。すなわち直前の三つの定理(定理21-23)で属性を起成原因とする様態に無限性が認められたものの、無限様態の本質は実体の場合と違って存在を含まず、神 (すなわち神の属性)がその存在の起成原因でなければならない。(p.8)
存在することは物の本質ではない。物が存在するとは、様態として他の裡にあること (in alio esse) を意味する。 その有 (esse) を成り立たせるもの、つまり本質 (essentia) は他への還帰であり、それは存在することに固執する努力の形をとる。本質の原因は他すなわち実体としての神である。 定理24の系は「神は物の存在の起成原因であるだけではなく、 本質の起成原因でもある」という定理25をこのように準備している。(p.8)
物の本質と存在の起成原因である神は、無限数の属性で構成される絶対的に無限な実体としての神ではなく、その物が様態となっている属性のもとで考えられた神でなければならない。(p.8)
定理25の備考の「与えられた神的本性」とは無限数の属性で構成される神の絶対的に無限な本性のうちどれかひとつの本性という意味に理解される。(p.8)
神はすべての物の起成原因であるというさきの定理16系1について、どのような意味で起成原因なのかという解明が、存在の起成原因 (定理24)および本質の起成原因(定理25)として与えられている。定理25の備考が示すとおり、この因果関係では属性を起成原因として物の本質と存在が必然的に結論される。この因果関係は暸かにCⅱとは異なる。 属性が原因であること、結果である物が無限様態を指していると考察されたことで、この関係はCⅰと考えられなくてはならない。(p.9)
定理24、25に関して、共にCⅰについての記述であることが結論されています。
そして、定理25系をCⅰとCⅱの関係を確定するためのとりわけ重要な論点としています。
以下のように定理25系がまとめられます。
個物が様態となっている当の属性がその個物の存在と本質によって、ある決定された仕方で表現される。――この個物の本質は存在を含まないけれども、属性を起成原因として個物の本質と存在が必然的に帰結するから、 属性と個物のこの因果関係に依拠する限り、この個物が存在しないということは起りえない。 個物は属性から存在を与えられ、存在することに固執する本質を与えられる。個物を存在しないように決定する原因は個物自身の裡にはないし、個物を決定する唯一のものである属性は、個物の存在を定立し、存在することに固執する個物の本質を定立する原因であって、 限定する原因ではない。 この因果関係は一対一の決定関係であり、個物の存在はここでは何からも限定を受けない。定理25の系は無限様態としての個物の規定であり、属性と個物のあいだの因果関係は定理21-23で認めたCⅰの関係にほかならない。従って個物はCⅰを構成する要素である。(p.9-10)
このあたりの記述(特に上記引用のマーカー箇所参照)から、人間精神をひとつの個物と見立ててみると「われらに似たるもの」でいう「人間精神の非十全性」、「スピノザの世界」でいう衝動と目的のあいだの「ずれ」の議論につながっていくように思います。
詳しくは別記事にまとめていますので、そちらを参照してください。
「人間精神の非十全性」についてはこちら↑
「衝動と目的のあいだのずれ」についてはこちら↑
以上から、作用とは本性から必然的に結果が生起することにほかならず、それは「表現する」 ということと同義であること、そしてこの作用が定理16の帰結であることが確認された。(p.10)
定理23の証明は、様態の無限性と永遠性が属性の絶対的本性を通して結論されなければならないことを言明していたけれども、そこではこの主張にそれ以上の説明は与えられていなかった。 定理24-27は実はこの主張の展開にほかならない。つまりスピノザは物の存在と本質が属性との一対一の因果関係によって必然的に決定されていることを示すことで、様態の無限性と永遠性がどのように属性の絶対的本性を通して結論されるかという問いに答を与えたのである。神がどのような意味ですべての物の起成原因なのかという問いと、物の無限性と永遠性がどのように結論されるかという問いは、Cⅰの解明を要請する同一の問いだったのである。(p.11)
第一部定理24〜27についての筆者の主張をまとめます。
一言で言うと、第一部定理24〜27では間接無限様態の無限性と永遠性がCⅰの因果性でどのように帰結するのか、ということが記述されていますね。
二つの因果性の関係と峻別の根拠
CⅰとCⅱの不連続はCⅰによって個物が無限なものとして生起し、同じ個物がCⅱによって有限になる事態を表す。 CⅰとCⅱの峻別は、Cⅰが個物の無限性の根拠になり、Cⅱが有限の根拠になることに発している。(p.11)
このように佐藤はCⅰとCⅱを、それぞれ個物の「無限性」と「有限性」の根拠になるとして峻別しています。
それに対して「スピノザ学基礎論」での松田は、CⅰとCⅱの峻別を時間性の外部で考える「永遠性」と、時間性の内部で考える「持続」に分けて説明しています。
CⅰとCⅱの峻別の根拠に関して「スピノザ学基礎論」P158から引用します。
「存在が、事物の定義のみから必然的に出てくる」とは、時間性という観点から見て、いかなる事態であるか。様態は、「近傍」と呼ばれる先行する諸様態から因果規則に従って存在せしめられる。すなわち、様態は、先行する事物が後続する事物を産出するという時間経過の内部において、その存在が帰結するものである。これに対して、実体は、何らかの先行する事物に依存することなく、「それ自身の内に在る」という定義、すなわち、自己原因であるというその本性ゆえに、必然的に存在する。すなわち、実体は、先行する事物が後続する事物を産出するという時間経過とは全く別個の次元において、その存在が帰結するのである。このように、「存在が、事物の定義のみから必然的に出てくる」という事態は時間性の外部に属する。それゆえ、 スピノザはそのような事物を「永遠の〔事物〕」と形容し,また,その存在そのものを「永遠性」と呼ぶのである。また、「永遠 〔なるもの〕 の中には 何時ということがなく、また以前ということも以後ということもない」 (第 1部定理 33 備考2) と言い、さらに、「永遠性は時間によって規定され得ず、 時間とは何の関係も有し得ない」(第5部定理 23 備考)と言うのである。 他方,永遠性とは異なり、持続は時間経過の内部に位置する。それは、時間経過の中で事物が (幾ばくかの時間) 現実に存在し続けることである。無論,或る事物は他の事物によって破壊され得る。なぜならば、「自然の中にはそれよりもっと有力でもっと強大な他の事物が存在しないようないかなる個物もない。どんな事物が与えられても、その与えられた事物を破壊し得るもっと有力な他の事物が常に存在する」(第4部公理)からである。しかし、事物そのものの本性や、事物の作出原因の内部には、それを破壊する要因はない。
長いのでまとめると、Cⅰは時間性の外部つまり「永遠性」に属し、Cⅱは時間性の内部つまり「持続」に属しており、両者は全く別の次元の時間性に属している、ということです。
このような時間性の相違を根拠に松田はCⅰとCⅱは不連続な因果性であると主張しています。
「個と無限」に戻ります。
佐藤はCⅰとCⅱが「無限性」と「有限性」において峻別されるとしながらも、ある種の関係性をもつとしています。
CⅰとCⅱは異種の因果性として峻別されてはいても、けっして完全に断絶しているわけではなく、ともに個物に関ることによってある連続性をもつ。つまり定理16で言われた神の本性の必然性から生起する無限に多くのもののひとつひとつについて、起成原因としての属性とのあいだにCⅰが成立するが、無限数のCⅰによって無限数の個物が生起する結果、同時にこれら無限数の個物相互間に必然的にCⅱが成立するのである。(p.12)
そこでCⅰとCⅱの関係性の間を取り持つような役割を果たすのが間接無限様態です。
佐藤は間接無限様態と個物が同一であるということを主張しています。
Cⅰによって最終的に生起するのは無限性をもつ個物だから、これまでの議論から推察できるように、間接無限様態は個物でなければならない。この解釈は従来のどの解釈とも異なると思われる。そこでまずこの解釈の妨げとなる反例を検討して障害を取り除いてから、これまで用いた定理16および定理21-28以外の箇処から、間接無限様態が個物であることを論証したい。これに伴って直接無限様態の性格も検討しなくてはならない。(p.12)
間接無限様態が個物であることの論証
周知のようにスピノザは書簡64のなかで、神によって直接に産出された第一種様態 (直接無限様態)の例として、思惟の属性では「絶対的に無限な知性」、延長の属性では「運動と静止」を挙げ、直接無限様態を媒介して産出される第二種様態(間接無限様態)の例として「無限に多くの仕方で変化しながらも常に同一の儘にとどまる全宇宙の姿」を挙げている。(p.13)
間接無限様態が個物とは言われていないことは動かすことのできない事実である。 しかも無限様態が何であるかはっきりとした形でスピノザが例示しているのはここだけだから、従来の研究は無限様態に言及する場合ほぼ例外なくこの書簡を前提としている。(p.13)
しかしながらこの書簡の記述は「エチカ」やその他のテクストでの主張と必ずしも一致しない。間接無限様態への言及を読みとれる箇処をつぶさに検討してみれば、この書簡の挙げる「全宇宙の姿」が寧ろ特殊な例外に属することがわかるはずである。(p.13)
筆者は、書簡64で間接無限様態の例として「無限に多くの仕方で変化しながらも常に同一の儘にとどまる全宇宙の姿」が挙げられており、間接無限様態が個物とは言われていないことは動かすことのできない事実であるとしながらも、「エチカ」やその他のテクストでの主張を考えると間接無限様態と個物が同一であると認めざるをえないと述べます。
筆者の論証を見てみましょう。
スピノザが「全宇宙の姿」についてそこで参照を促している「エチカ」第二部補助定理7の備考は、個体が複数集まって高次の個体を繰返し形成していけることを述べたすえに、「全体としての自然は一個の個体であり、そのもろもろの部分すなわちすべての物体が全体としての個体の変化なしに無限に多くの仕方で変化する」 と言う。書簡64と「エチカ」第二部補助定理7の備考が同じ主張だとすれば、「全宇宙の姿」もしくは「全自然 」 から物体が生起すると考えられているのではなく、物体が形成する総体を「全宇宙の姿」「全自然」と呼んでいることは瞭かである。 (p.13)
変化は多を前提する。 「全宇宙の姿」が部分の変化にも拘らず同一の儘にとどまるのは、運動と静止の割合が全体として一定に保たれるからであるが、このこともやはり個々の物体の運動と静止を前提している。そうだとすれば、直接無限様態に媒介されて必然的に生起する間接無限様態は端的にはひとつひとつの個物だと言うのが正しい。 「全宇宙の姿」だけを間接無限様態と言い、構成する個物をそれと認めていないことを別にすれば、この二つの箇処の記述は、間接無限様態を個物と同定するわれわれの主張と齟齬を来さないばかりか、これを裏づけてさえいるのである。(p.13-14)
上記では延長属性において、間接無限様態と個物が同一であることが述べられましたが、思惟属性においてもその事実は変わりません。以下で見てみましょう。
思惟属性における、Cⅰで神が諸様態を産出する因果性と、Cⅱで諸様態が諸様態を産出する因果性、それぞれでの作用が説明されています。
証明で「たとえ意志が無限であると仮定しても・・・・・」 と言われるとき、この条件文は単なる仮想の言表ではありません。意志がCⅰの条件のもとでみられた場合という制約を表すのであり、系2の条件文も同様のことを意味しています。
思惟属性において間接無限様態と個物が同一であることを帰結するための前提として、思惟属性におけるCⅰとCⅱどちらの因果性でも「存在し働くように決定されるための原因が必要」であり、「それは自由原因とは言われえず、ただ必然的な、また強いられた原因とのみ言われうる」ということがあります。
第一部定理32系2では、「意志と知性」が「運動と静止」と同列に置かれています。つまり直接無限様態として扱われているということになります。
直接無限様態としての意志もしくは知性から無限に多くのものが間接無限様態として生起することが説明されています。
思惟属性における直接無限様態「絶対的に無限な知性」が、「神の観念」、「意志」と同一であることについては、次節で詳しく取り上げるよ。
以上を次のように纏めることができる。意志はCⅰの条件のもとではまず直接無限様態であり、そこから神の本性の必然性によって無限に多くの意志作用が間接無限様態として生起する。 が、同時にCⅰの制約を取払ってみられる場合には、個々の有限な意志作用は同じ必然性によって順次他の有限な意志作用から存在と作用へ決定され、この因果系列は無際限に続く。定理32の証明も系2も間接無限様態にじかには言及していない。 「神的本性の必然性から出てきてある一定の仕方で存在し働くように・・・・」(定理32系2) 、「たとえ意志が無限であると仮定しても・・・・」 (定理32証明) という二箇処がわずかに間接無限様態を示唆しているのを読みとれるだけであり、表面上は直接無限様態と有限な個物の二つの区別しか行っていないように見える。しかしこれは寧ろ間接無限様態と有限な個物が存在者としては同一物であるということに起因するのであり、直接無限様態である運動・静止と類比的に把えられた意志あるいは知性から無限に多くのものが生起すると言われるとき、間接無限様態が個物であることをみてとるのは困難ではない。(p.16-17)
同じことは定理21の証明で直接無限様態の例とされた「神の(形成した)観念」についても肯定できる。第二部定理7の系は「神の無限な本性から形相的に生起するものはどれもみな神の観念から同じ秩序と同じ聯結で神の裡に客観的(objective〔観念内的〕)に生起する」と言う。「神の観念」から生起するのは「全宇宙の姿」もしくはそれに照応するような思惟様態ではなく、 個々の観念であることがわかる。(p.17)
このように佐藤は、間接無限様態が個物であるという主張が、延長と思惟のいずれの属性をとっても肯定されると主張しています。
まとめると、「延長属性(運動と静止)」においても「思惟属性(無限な知性)」においても、
「Cⅰの条件のもとではまず直接無限様態であり、そこから神の本性の必然性によって無限に多くの作用が間接無限様態として生起する。 が、同時にCⅱの条件のもとでは個々の有限な作用は同じ必然性によって順次他の有限な意志作用から存在と作用へ決定され、この因果系列は無際限に続く」
という基本構造は変わらず、そこで言われている「間接無限様態」つまり「無限に多くの仕方で変化しながらも常に同一のままにとどまる全宇宙の姿」とは、「ひとつひとつの個物」のことを指しているとみなしてよい、ということです。
直接無限様態としての「無限な知性」と「神の観念」と「意志」が同一であるということ
書簡64では思惟の直接無限様態として「絶対的に無限な知性」が挙げられていますが、上記のように「エチカ」においては「無限な知性」だけではなく「意志」も「神の観念」も直接無限様態の扱いを受けているように思われます。この三つはどのような関係をもつのでしょうか。
まず「神の観念」と「無限な知性」が同じものとして把握されていることが第一部定理16及び21、第二部定理4の記述から証明されます。
第一部定理16及び定理21は先に引用していますので、そちらを確認してください。左記のテキストリンクから該当箇所に飛べます。
「無限に多くのものを無限に多くの仕方で思惟することができる」思惟実体のうちには「神の本質およびその本質から必然的に生起するすべてのものの観念 (idea)」 がある。これが「神の観念」である。(p.18)
一方「無限知性は神の属性とその変容以外は何も把握しない」と第二部定理4証明で言われる。(p.18)
定理16の「無限な知性のもとに落ちてきうるすべての事物」は、「神の本質およびその本質から必然的に生起するすべてのもの」と同じことを意味しており、結局神の属性とその変容を指す。 (p.18)
「神の観念」は思惟実体としての神が「形成する」 (EiiP3d) ものである以上、結果であり、 知性と同様所産的自然に属する様態である (cf. EiP31)。 換言すれば、「無限な知性」は神の自己認識の結果であり、その内容が「神の観念」にほかならない。(p.18)
これらから以下が帰結します。
- 知性それ自身が観念であれば、知性がその観念を形成するのではない。従って、知性が観念対象に先行しないことを推察できる。
ある属性の絶対的本性を起成原因とする無限数のCⅰによって無限数の個物(間接無限様態)が生起するとき、それを媒介する直接無限様態は無限数のCⅰを通じて共通であり、単一の直接無限様態である。
直接無限様態と個物(間接無限様態もしくは有限様態)とは、普遍と個として対蹠的関係にあることになります。
直接無限様態と個物(間接無限様態もしくは有限様態)との間の「普遍と個」としての対蹠的関係については、次節でのテーマとなってくる直接無限様態としての存在形式に関わってくる議論ですが、ここでは両者の関係性から「無限な知性」と「意志」が同じものであることが結論されます。
第二部定理48と定理49を検討します。
精神の裡には絶対的な、つまり自由な意志はない。精神は思惟のある決定された様態であるから、自己の働きの自由な原因ではありえず、従って意志したり、意志しなかったりする絶対的な能力をもつことができないからである。却って精神はこのことあるいはあのことを意志するように原因によって決定され、その原因も他の原因によって決定されており、このように無際限に遡る。
定理48で証明した内容をもとに「意志」と「無限な知性」が同一であることが定理49で導かれます。
精神がある物について肯定・否定する意志作用はその物の観念にほかならず、精神の裡には観念が観念である限り含む以外のいかなる意志作用も、言い換えれば肯定も否定もない (定理49)。意志は個々の意志作用そのものであり、知性は個々の観念そのものである。ところが個々の意志作用と観念は同一であるから、意志と知性は同一である(定理49系)
はじめに直接無限様態としての「無限な知性」と「神の観念」が同一であることが証明され、次に「無限な知性」と「意志」同一であることが証明されました。
このように「エチカ」において直接無限様態としての「無限な知性」と「神の観念」と「意志」が、それぞれ視点の違いはあるものの、存在としては同じものとして扱われているということが導かれています。
直接無限様態としての意志が第二種認識『理性知』の対象となること
直接無限様態の考察を始める際に携えた課題のひとつは、思惟の直接無限様態と認められた「(絶対的に)無限な知性」「神の観念」 「意志」の三つの関係を問うことだった。このうち無限な知性と神の観念が同じ内容であることはすでに示したが、定理48と49の議論からさらにこの三つが結局同一であることが了解される。しかしながら意志が個々の意志作用にほかならず、知性が個々の観念にほかならないとすれば、問わなくてはならないのは寧ろ直接無限様態がスピノザの形而上学のなかでそもそも存在する資格をもつのかということではないだろうか。(p.20-21)
定理48と定理49の主張はこう集約される。 精神の裡には絶対的な意志、つまり意志したり意志しなかったりする絶対的な能力はない。そうした意志は個々の意志作用から形成される普遍概念であって、精神がある物を肯定・否定する個々の意志作用 (その物の観念)から区別されない。——この主張は普遍概念としての意志の存在そのものを否定しているのではない。スピノザの意図は、普遍概念としての意志が、意志したり意志しなかったりする(肯定否定の)絶対的な能力として精神の裡に存在することを否定することにある。 (p.21)
意志はある物の肯定・否定としては個々の意志作用と同定される。その限りでは普遍性をもたないが、そうでない場合には普遍概念として存在する資格をもつと言える。どういう場合にそれは個々の意志作用から区別されて存在するのか、定理49の備考はその消息を語る。(p.21)
スピノザは、精神のうちには意志したり意志しなかったりする絶対的な能力はないとしながらも、普遍概念としての意志を否定しているわけではない、としています。
普遍概念としての「意志」、つまりは直接無限様態としての「意志」とはどのようなものなのでしょうか。
つまり直接無限様態としての意志とは、すべての個々の観念に共通する普遍であり、かつすべての個々の観念に共通する肯定である。その意味において直接無限様態としての意志の十全な本質は、どのような個々の観念の中にも存在しており、それはすべての観念において同一であるということです。
しかし、そのような直接無限様態としての意志の十全な本質が、個々の観念の本質を構成すると見られる限りにおいては、それらは互いに同一ではありません。
個々の観念の本質を構成すると見られる限りにおける肯定は、個々の観念同志が互いに異なるのと同じだけ異なるということになります。
このことが思惟と延長、それぞれの場合における直接無限様態の普遍性として解説されます。
(思惟の直接無限様態の場合)
直接無限様態としての意志は、個々の意志作用のすべて、つまり個々の観念のすべてに共通な「肯定」(の働き)を意味するのであって、個々の観念が何を肯定するかに関係しない。この意味で、「肯定」はおのおのの観念の裡にあって同一であり、 そのすべてに妥当する。だが意志は個々の観念の本質を構成すると看做される限りでは、普遍性をもつことができない。この場合の意志は個別的な意志作用、つまり当の物についての肯定になる。 当然、観念が何の観念であるかによって、観念の含む肯定すなわち意志作用は異なるはずである。従って個物の本質を構成する普遍は存在しえない。 結論は次のようになる。定理48と定理49の議論は直接無限様態の存在を否定するものではない。直接無限様態の普遍性は、直接無限様態が個物の本質を構成しないということを意味し、またそのことによって直接無限様態は普遍性を担う。(p.22-23)
(延長の直接無限様態の場合)
この結論は延長の直接無限様態の場合にも確認される。 運動・静止が個々の物体の本質を構成する場合、それは個々の物体の運動・静止であって普遍性をもたない。個々の観念の肯定が互いに異なるように、個々の物体の運動・静止も互いに異なる。 「もろもろの物体は運動と静止、速さと遅さに関して相互に区別される」 (EiiL1) と言われるのは、 個々の物体の本質を構成する運動・静止が念頭に置かれているからである。これに対して、運動・静止はすべての物体に共通なものとして考察される限り、直接無限様態として普遍性をもつ。これは運動・静止が第二部補助定理2の証明の「じっさいすべての物体は・・・・・・あるときは運動し、あるときは静止しうるという点で一致する」という規定に即して考察される場合である。この場合、すでに思惟の直接無限様態の検討によって指摘した結論から推察できるように、運動・静止は個々の物体の本質を構成しない。これはスピノザ自身がこの補助定理2を踏まえて下している断定でもある。(p.23)
これらより第二種認識(理性知)の対象としての直接無限様態が帰結します。
結論を先に言えば、直接無限様態は第二種認識すなわち 「理性知 (ratio)」の対象として了解される。 すべてに共通であり、等しく部分の裡にも全体の裡にもあるものは充全にしか考えることができない (cf. EiiP38)。 直接無限様態はすべての個物に妥当することによって、共通概念として認識されて (cf. EiiP38c)、 第二種認識を齎すのである(cf. EiiP40s2)。(p.24)
スピノザが第二種認識を「普遍的認識」 (EvP36s) と呼ぶのも、この認識が対象とする直接無限様態の普遍性のためである。 第二種認識は共通概念の認識から得られるが、その共通概念は「多くの物を同時に観想することから、それらの一致や相違や対立を理解することへ決定される」 (EiiP29s)ことによって「物を明晰かつ判明に観想する」場合に認識される。こうして共通概念はこの認識すなわち理性知の基礎になるけれども、「それらの概念はすべてに共通なものを説明し、いかなる個物の本質をも説明することがない」 (EiiP44c2d)。つまり第二種認識は個物相互の「一致や相違や対立」という関係だけに着目して、 個物の本質と存在を捨象する。それによって法則性を認識し、普遍妥当性を確保するのである。直接無限様態は個物の本質を構成しないことによって普遍性を担い、第二種認識の対象になる。(p.24-25)
直接無限様態 | 普遍 | 第二種認識(理性知)の対象 |
個物(間接無限様態もしくは有限様態) | 個 | 第一種認識(表象知)の対象 |
これらから第三種認識すなわち直観知について洞察できることがあるとされます。
まず、Cⅰのなかでの直接無限様態の位置は、個物に対する存在論的先行を明示する。それとともに直接無限様態が個物の位相と截然と区別される位相にあって、Cⅱの聯関から超越することを表している。(p.25)
直接無限様態の位置付けに関して、Cⅰにおけるそれと、Cⅱにおけるそれが異なっていることです。
Cⅱにおいては、直接無限様態は属性内部に収まっており、あくまでも属性内部において個物を産出する媒介となっています。
詳しくは「スピノザ学基礎論」p.161「3.4.4ゲルーの議論の問題点」を参照してくれ。
それに対して、Cⅰでは「直接無限様態が個物の位相と截然と区別される位相にあって」「Cⅰのなかでの直接無限様態の位置は、個物に対する存在論的先行を明示する」ということです。
Cⅰにおける直接無限様態に関してさらに以下のように言及されています。
直接無限様態と個物との普遍と個という関係は、理性の存在物 (ens rationis)、抽象的存在物 (ens abstractum)と実在的存在物 (ens reale) という対蹠的関係でもある。(p.25)
実在的存在物としての個物の本質と存在は直接無限様態の位相で了解してはならないのである。(p.25)
「個物の認識」 (EvP36s) とも呼ぶ第三種認識をスピノザは「神のいくつかの属性の形相的本質の充全な観念から、物の本質の充全な認識へ進む」 (EiiP40s2) 認識と規定する。そしてこの認識によれば、すべてが本質と存在に関して神に依存していることが「神に依存するとわれわれの言うどの個物の本質そのものからも結論される」 (EvP36s) と言う。以上からわたしは、スピノザがこの認識を、Cⅰの三つの項の両極である属性と個物の関係を、中間項の直接無限様態を経由せずに、直観する認識として捉らえていたことが了解できると思う。(p.25-26)
個物の存在形式の違いから導かれる能動性と受動性
Cⅱの検討に移ります。
第一部定理28は当記事の冒頭で引用しています。左記テキストリンクから引用箇所に飛べます。
定理28は有限な個物が「同じように有限であり、決定された存在をもつ他の原因によって存在と作用へ決定されるのでなければ、存在することも作用へ決定されることもできない」と言う。個物は他の個物によって存在へ決定されているあいだしか存在できない。 個物はこうしてCⅱでは無限性と永遠性を奪われ、その存在は限定された持続、つまり一定の時間的存在になる。個物のCⅱのなかでの持続はこれを直接に限定する他の個物だけによって決定されているのではない。原因である個物はまた同時に結果として他の個物によって決定されており、この因果の聯関は無際限に続く。Cⅱのなかで存在する個物の持続は結局Cⅱの因果聯関全体から決定されている。 Cⅰの決定形式が起成原因との一対一の完結した関係なのに対し、無際限に聯なる個物の因果聯関全体によるこの決定がCⅱの決定形式である。(p.36)
Cⅰで必然的に存在することへ決定されている個物が同時に多のなかで存在するためには、 Cⅱの因果聯関全体から存在へ決定されなければならない。スピノザはこの Cⅱの因果聯関を「自然の共通の秩序」と呼ぶ。個物はこの秩序のなかでは「存在することに固執する力量 (vis) が制限され、その力量は外部の諸原因の力によって無限に 「凌駕される」 (EivP3)。 Cⅰでは無限性と永遠性をもつ同じ個物が「自然の共通の秩序」すなわち Cⅱのなかでは有限でしかありえない。(p.36)
Cⅱにおける個物の産出について確認されています。
それは一言で言うと、「無際限に聯なる個物の因果聯関全体によるこの決定がCⅱの決定形式である」ということです。
そしてこのCⅱでの因果連関を「自然の共通の秩序」と呼び、個物はこの秩序のなかでは、存在することに固執する力量 (vis) が制限され、その力量は外部の諸原因の力によって無限に凌駕されます。
Cⅱである個物を存在と作用へ決定する他の有限な個物に様態化した神は、Cⅰの起成原因としての神とどのような性格の違いをもつのだろうか。Cⅱのなかで、ある個物Rnの持続を決定してそれを有限化する他の個物Rmは、Rnに対して「外部原因 (causa externa)」である。 Rmは、存在することに固執するRnの本質の原因ではない。RmはRnの時間的存在を決定する原因であり、存在することに固執するRnの力量はこの決定を受けてCⅱのなかで制限されざるをえないが、存在することに固執しようと力めるRnの本質そのものはこの制限によって何ら変化を受けない。(p.37)
Cⅱは従って本質に関る因果性ではない。個物は属性を起成原因とするCⅰで存在と本質を決定されて無限性をもつが、同じ個物がCⅱでは外部原因から持続を決定されて有限になるのである。(p.37)
Cⅱに関して、個物に対する存在と作用への決定形式が「外部原因 (causa externa)」に依るものであり、存在することに固執しようと努める個物の本質そのものはこの「外部原因」による制限によって何ら変化を受けません。
Cⅰでの決定形式が個物の「内部原因」に依ることに対して、Cⅱでの決定形式が個物の「外部原因」に依るものであることと、個物がCⅰでは無限性をもつことに対して、Cⅱでは「外部原因から持続を決定されて有限になる」ことが対比的に述べられています。
因果性 | 個物の決定形式 | 個物の存在形式 |
---|---|---|
Cⅰ | 内部原因に依る | 個物は無限性をもつ |
Cⅱ | 外部原因に依る | 個物は外部から持続を決定されて有限になる |
二つの因果性のそれぞれに依拠する個物の存在形式の違い
CⅰとCⅱそれぞれにおいて、どのように個物は存在しているのでしょうか。
個物が無限であるとはどういうことで、有限であるとはどういうことなのか、より掘り下げて考察していきます。
Cⅱによって決定される個物の存在は持続である。持続は時間によって決定され、その時間とともに表象される (cf. EiiiP8d)。また、スピノザは言っていないが、物が多のなかで存在する場合その占める場処と位置の関係とを規定するのは空間である。Cⅱのなかで存在する個物は時間と空間に規定される。 二通りの存在形式は従って、時間および空間によって規定される存在とそうではない存在として了解される。(p.37)
筆者はCⅰとCⅱの違いについて、時間と空間によって規定されるか(有限)、されないか(無限性)の違いとして区別しています。
Cⅱのなかで原因と結果の関係にある二つの個物RmとRnの関係を三の1(当記事における「個物の存在形式の違いから導かれる能動性と受動性」を参照)で考えたが、さらに原因Rmに着目すると、定理28からわかるとおり、Rmは先行する原因R1によって存在と作用へ決定されるのでなければ、存在することも作用へ決定されることもできない。Rmは従って「自己の本性の必然性だけから存在し、かつ自己自身によってのみ働きをなすことへ決定される物」 (EiD7) ではなく、「ある仕方で存在と作用へ決定される原因を必要とする」(EiP32c2, Gii738-9) のであり、この意味で「必然的原因(causa necessaria)」あるいは「強制された原因(causa coacta)」と呼ばれる (cf. EiP32d)。だが個物は有限な場合にだけ必然的原因なのではない。Cⅰに依拠 して無限と考えられる場合にも同様である。第一部定理三二は「意志は自由原因 (causa libera) と呼ばれることができず、ただ必然的原因と呼ばれうる」と言う。その証明(二の1「間接無限様態が個物であることの論証」で別の意図から言及した、一六頁参照)はまず有限な個々の意志作用が順次他によって存在と作用へ決定されて無際限に遡ることを示してから、「そしてもし意志が無限と仮定されても、それは神が・・・・・思惟の無限で永遠な本質を表現する属性をもつ限りで(定理二三により)、神によってやはり存在と作用へ決定されなければならない。従ってどんな仕方で考えられても、すなわち有限と考えられても無限と考えられても、意志は原因を要求し、それによって存在と作用へ決定されるであろう。こうして・・・・・・」と述べる。二の1で指摘したように、無限な意志は直接無限様態としての普遍的な意志と間接無限様態としての個々の無限な意志作用の両方を想定している。どちらも属性を起成原因として存在と作用へ決定されるから、必然的原因(強制された原因)である。結局、Cⅰの原因である神(実体属性)だけが自己以外に原因をもたず、「自己の本性の必然性だけから存在し、かつ自己の本性の必然性だけから働きをなす」自由原因である (cf.EiP17c2)。それに対してCⅰのほかの構成要素である直接無限様態も間接無限様態も、Cⅱの構成要素である有限な個物も「他のものからある決定された関係で存在と作用へ決定されている」 (EiD7) ものであり、必然的原因(強制された原因)として一括される。(p.38-39)
個物はCⅱで決定された関係で作用する場合も、Cⅰで決定された関係で作用する場合も、自己の作用の必然的原因に渝りはない。 この限りでは、原因の規定は決定する原因の違いを通して個物の無限性と有限を規定するものではあっても、そのように規定された無限性と有限を内実の点から識別させるものではない。個物そのものを原因として考察することからはその無限性と有限を区別できず、却って必然的原因という規定で無限な場合も有限な場合も一括されてしまう。(p.40)
因果性 | 個物の存在形式 | 持続規定 | 原因規定 |
---|---|---|---|
Cⅰ | 無限性 | 時間と空間により規定されない | 必然的原因 |
Cⅱ | 有限 | 時間と空間により規定される | 必然的原因 |
Cⅰは内部原因に依って決まり、Cⅱは外部原因に依って決まるということ、すなわち原因の規定は決定する原因の違いを通して個物の無限性と有限を規定するものでしかなく、どちらもその内実については「必然的原因」という規定で一括されてしまうということです。
つまり、Cⅰの構成要素である直接無限様態も間接無限様態も、Cⅱの構成要素である有限な個物も「他のものからある決定された関係で存在と作用へ決定されている」 (EiD7) ものであり、必然的原因(強制された原因)として一括されてしまい、内実の点から識別させるものではありません。
どちらも必然的原因として一括されてしまうとすると、この存在形式の区別はいったい何を意味しているのでしょうか。
個物はCⅰでは起成原因によって本質を決定されており(この意味で内部から決定されていると言うことができる)、作用は決定された本質から必然的に生起する。Cⅱの場合はそうではない。Cⅱでの個物の作用はその本質だけからは生起せず、外部原因によって決定されて生じるからである。(p.40)
CⅰとCⅱにおける存在形式の区別の意味に関しては、内部から決定されているCⅰと、外部原因によって決定されているCⅱ、両者の性格の違いを考えることから明らかになります。
Cⅰでの個物の作用は、決定された本質から必然的に生起する結果であるから、個物の本質を原因として明晰判明に理解される。個物はその作用の「充全な原因 (causa adaequata)」 である。これに対してCⅱでの個物の作用はその個物だけを原因としては理解されず、さらに外部原因によっても考えられなくてはならない。この場合の個物はその作用の「不充全な原因 (causa inadaequata)」「部分的原因(causa partialis)」であることがわかる。スピノザは続く(第三部)定義2で、われわれが充全な原因であるようなあることが生じるとき、つまりわれわれの本性からその本性のみによって明晰判明に理解されうるあることが生起するとき、われわれが「働きをなす (agere)」と言い、われわれが部分的原因でしかないようなあることが生じたり、われわれの本性から生起したりするとき、われわれが「働きを受ける(pati)」と言う、と規定している。従ってCⅰでの作用を能動、Cⅱでのそれを受動と言い直すことができる。Cⅱの聯関のなかで「われわれは他の部分なしにそれ自身によって考えられることができないような自然の一部分である限りで働きを受ける」(EivP2)。Cⅱに依拠する限り、「人間が自然の一部分ではないということ、また自己の本性だけによって理解されることができ、〔みずからが〕その充全な原因であるような変化以外のいかなる変化も受けえないということは起りえない」 (EivP4) のであり、「ここから、人間は必然的に常に受動のもとに置かれ、自然の共通の秩序に順い、これに服し、しかも物から成る自然(rerum natura)が要求するだけこの秩序に適応するということが帰結する」 (EivP4c) のである。これがCⅱのなかでの人間も含めた個物の存在性格である。(p.41)
個物はCⅰでは作用の根拠を自己の内部の決定された本質のうちにもち、その作用の十全な原因になっています。Cⅱではその根拠を内部にもつことができず、部分的な原因であらざるをえません。このことによって個物の二通りの存在形式はそれぞれ「個物の能動性と受動性の根拠になっている」という内実の違いをもつということです。
因果性 | 個物の決定形式 | 個物の作用原因 | 個物の作用 |
---|---|---|---|
Cⅰ | 内部原因に依る | 十全な原因 | 能動 |
Cⅱ | 外部原因に依る | 部分的な原因 | 受動 |
二つの因果性のそれぞれに依拠する個物の認識形式の違い
Cⅰでの作用を能動、Cⅱでの作用を受動と峻別した理由については、それぞれの場合における認識を考察することで一層明確になります。
まずCⅱに関しては本質に関る因果性ではないから、Cⅱに依拠する認識は個物の本質を開示しません。それではCⅱに依拠することでどのような認識が得られるでしょうか。本文から引用します。
第一部公理4は「結果の認識は原因の認識に依存し、 かつこの認識を含む」と言う。このことと、Cⅱの個々の構成要素が結果を自己の外に生む超越的原因であり、それぞれが他に対して部分的原因であることを併せて考えれば、Cⅱに依拠した個物の存在の認識が結局Cⅱ同様無限遡行にならざるをえないことは推測に難くない。ところが有限な知性にとってはCⅱの聯関の全体を把えることも、無際限になる部分的原因を辿って最後まで到達することも不可能である。第二部定理29の系は次のように言う。(p.42)
結論だけを言うと、Cⅱに依拠したこの知覚ないし認識は「感官によって知性に即した秩序なしに毀損し錯雑した形でわれわれに提示されるもろもろの個物から」(EiiP40s2,ここでスピノザはいま引用した定理29系の参照を促している)形成される認識、 つまり「表象知(imaginatio)」と呼ばれる第一種認識にほかならない。定理29の系の引用箇処に続く部分で瞭かにされているように、これは「身体の変状の観念」を媒介する認識、換言すれば身体が外部原因から刺戟されることによって形成される認識であり、精神はその際「事物との偶然的な出会いからこれこれしかじかのことを観想するように決定される」(EiiP29s)。このことは結局( i )Cⅱのなかで身体が有限であること、従って(ⅱ)身体の観念と規定される精神も(cf. EiiP13)Cⅱの因果聯関全体の充全な認識をもたないこと(cf. EiiP9c; EiiP11c)、に起因する。物が「毀損し、錯雑して、知性に対する秩序を欠いて表され」るのもこのためである。この認識は( i )を原因として生じ、それが充全ではないのは(ⅱ)による。 スピノザは定理29の系と備考でこの第一種認識をそれとは断らずに提示したあと、続く二つの定理で、われわれが自己の身体の持続についても(定理30)、外部にある個物の持続についても(定理31)、全く不充全な認識しかもつことができないことを、( i )と(ⅱ)を論拠に証明している。有限な個物の持続がCⅱの因果聯関全体から決定されており、精神にとってCⅱの因果聯関全体を把えることが不可能である以上、Cⅱのなかでの個物の持続を充全に認識しようとするのは成算の見込みのない試みである。(p.43-44)
第一種認識(表象知)すなわち、身体が外部原因から刺戟されることによって形成される認識は、Cⅱのなかで身体が有限であることを原因として生じ、それが十全でないのは、身体の観念と規定される精神もCⅱの因果聯関全体の十全な認識をもたないことに起因するということです。
このようにCⅱにおける個物の存在は非十全にしか認識されないと言う性格をもっています。したがって個物の本質と存在の十全な認識の可能性はCⅰに依拠して「神の中に含まれかつ神の本性の必然性から帰結してくる」ものとして個物を捉える場合に求められなければならないということになります。
二の2(当記事における「直接無限様態としての『無限な知性』と『神の観念』と『意志』が同一であるということ」参照)でわれわれは直接無限様態の考察との関聯で、第三種認識を、Cⅰの三つの項の両極にある属性と個物の関係を、中間項の直接無限様態を経由せずに、直観する認識として把えた(その際スピノザ自身によるこの「直観知 scientia intuitiva」の規定も引用した)。この関係は個物の本質と存在が神の属性によって決定されている関係であるから、この関係を直観する認識は「事物の本質の十全な認識」(EiiP40s2)を獲得させ、同時に原因としての神を認識させる。個物を考える二つの仕方を区別している第五部定理29の備考に言及した際に示唆したように、Cⅰに依拠して個物を考えることは、個物の無限性と永遠性に触れさせると同時に、個物を通して神を認識することを意味する。これはスピノザ自身二つの仕方を区別したあとで、「だがこの第二の仕方で真なるものないし事象的なものとして考えられる事物をわれわれは永遠の相のもとに考えているのであり、そうした事物の観念は神の永遠かつ無限な本質を含んでいる——第二部定理45で示したように。その備考も見よ。」(EvP29s)と言っていることでも裏づけられる。「事物を永遠の相のもとに考えるとは、事物が神の本質によって事象的な存在者として考えられるその限りで事物を考えること、言いかえると、事物が神の本質によってみずからの現実存在を含むその限りで、事物を考えることである。」 (EvP30d)とスピノザは説明している。Cⅰに依拠する認識はこのように個物の本質と存在を開示する。こうして物の実在性の把握に到達するのである。(p.44)
ここまでの論文の流れで、CⅰとCⅱが存在論的に個物の無限性と有限という二通りの存在形式の根拠であること、また人間の能動性と受動性の根拠でもあることが示され、そのうえでCⅰとCⅱのそれぞれに依拠する認識について考察されてきました。
ここから内容は、論文全体のまとめに入っていきます。
われわれが最初に問題にした「エチカ」第一部定理28の証明でCⅰから峻別するという形でCⅱを提示したスピノザの手続きは、第二部以降で展開される認識の問題と倫理学の見通しを内蔵した方法的出発点だったことが了解できる。個物認識の二つの道を拓くCⅰとCⅱの峻別は「エチカ」の企図の根幹に関るスピノザの存在に関する了解から発している。さきの第五部定理29の備考が参照を促す第二部定理45の備考はCⅰとCⅱの峻別、およびこの峻別が根ざす存在に関する了解を余すところなく語っている。(p.45)
CⅰとCⅱの峻別とその意図が見落されるとしたら、ここで語られている 「存在」の意味の拡がりは把えられない。 「エチカ」の構図と展開は見失われるし、スピノザが「エチカ」と名づけた著作をなぜ存在論から始めたのかということも窮極的に理解できなくなる。その結果、様態の生起を扱う議論が何か宙に浮いたような、空疎な印象を与えるものとして受けとられてもやむをえないと思う。(p.46)
スピノザの哲学は、認識論、感情論、倫理学、宗教哲学、政治哲学などの多様性を持っているが、それはここまでみてきたような形而上学を土台として、そのうえに築かれたものであるということです。
「CⅰとCⅱの峻別とその意図」を把握すること、このことがスピノザの哲学を、その意図を過たずに理解するための第一歩になるということと捉えています。
「第三種認識」に到達するためには
異種の因果性CⅰとCⅱには連続性が認められた。われわれはこの連続性を、無限数のCⅰによって無限数の個物が生起する結果、それら無限数の個物相互間に必然的にCⅱが成立する関係として理解した。ここに認められる順序は存在論的順序である。Cⅰによって決定されるときCⅱから免れているのでもなければ、CⅱのなかにはいることによってCⅰが消失するのでもない。われわれは二つの因果性の両方から同時に決定されている。だがCⅱのなかで感情に隷属している受動の状態で、スピノザ自身による比喩的表現を藉りれば「外部の諸原因から多くの仕方で揺り動かされ、逆風に波立つ海浪のように自分の行く末と運命を知らずに動揺する」 (EiiiP59s) ような状態で、もうひとつのいわば自己の内部、物の内部に眼を向けることで見出される因果性に依拠した認識を行うことは、不可能と言うほかない。スウィッチを切り換えるような具合にCⅱを見えなくしてCⅰだけを現前させることはできない。Cⅱの聯関のなかで決定されながら第三種認識に到達することはどのようにして可能なのだろうか。(p.46-47)
「第三種認識」つまり自己の内部、物の内部に眼を向けることで見出される因果性に依拠した認識を行うことこそが個物の本質と存在を開示するとされますが、では「第三種認識」に到達するためにはどのようにしたらいいのでしょうか。
第三種認識に到達しても依然Cⅱによって規定され、感情をもつことは渝らない。ただ感情に支配される状態からは脱している。論拠とされている諸定理からその道筋はこう要約できる。( i )われわれは感情(すなわち身体の変容の観念)について明晰で判明な概念を形成でき、それによって感情は受動であることをやめる。このようにしてわれわれは感情から働きを受けることをより尠くする能力をもつ。(ⅱ)精神は身体のすべての変容について明晰で判明な概念を形成できるから、それら諸変容を神の観念と関係させることが可能である。――( i )(ⅱ)はともに第五部定理4(「明晰判明な何らかの概念をわれわれが形成できないような身体の変状はない。」)を根拠とする。定理は「すべてに共通したものは十全にでなければ考えられることができない(第二部定理38により)。なので(第二部定理12、および定理13の備考のあとにある補助定理2により)、明晰判明な何らかの概念をわれわれが形成できないような身体の変状はない」と証明されている。つまり身体を構成するすべての物体(勿論身体全体も)が 「同じ一つの属性の概念を含むという点で一致し」 (EiiL2d)、身体の裡に起ることはどれも精神によって知覚されるために (cf. EiiP12)、身体の諸変容の明晰で判明な概念が形成され、それら諸変容は神と関係させられうる。「感情そのものが外部原因についての思惟から分離され、真なる思惟に結びつけられるようにする」 (EvP4s) 道筋は以上のように辿られる。第三種認識に到達した人間はもはや外部原因から衝き動かされず、受動である限りの感情が「精神の最小部分を構成する」ような状態を保つ。だが第三種認識を可能にする条件を整えるものとして、この意味で第三種認識への道筋をつけるものとしてスピノザが想定している径路は、共通概念を基礎とする第二種認識(理性知)にほかならないことを、以上は瞭かにしている。(p.47-48)
第五部定理4から以下が帰結します。
( i )われわれは感情(すなわち身体の変容の観念)について明晰で判明な概念を形成でき、それによって感情は受動であることをやめる。このようにしてわれわれは感情から働きを受けることをより尠くする能力をもつ。
(ⅱ)精神は身体のすべての変容について明晰で判明な概念を形成できるから、それら諸変容を神の観念と関係させることが可能である。
そして、身体を構成するすべての物体が同じ一つの属性の概念を含むという点で一致し 、身体の裡に起ることはどれも精神によって知覚されるために、身体の諸変容の明晰で判明な概念が形成され、それら諸変容は神と関係させられうる、と言われます。
このように筆者は、共通概念を基礎とする第二種認識(理性知)が第三種認識にいたるための道筋をつけるとしています。
その結果、第三種認識に到達した人間はもはや外部原因から衝き動かされず、受動である限りの感情が「精神の最小部分を構成する」ような状態を保つ、とされます。
概念を基礎とするこの第二種認識の意味をわたしはまだ充分見定めていない。また第三種の直観知に到達する道筋の検証は存在論のうえに築かれた「エチカ」の認識論と感情論と倫理学をつぶさに検討することを最低限の条件とする。それが検証できたとき、スピノザが最高の認識としての直観知に託した真の意味も甫めて瞭かになるのだと思う。しかしそれでもわたしは、この問題の根柢を形成しているのは人間が二つの異なった因果性によって決定されている事態だということを、小論を通じて示すことができたと考える。スピノザは第五部定理42(「エチカ」の最後の定理)の備考で、「自己と神と事物をある種永遠の必然性において意識する」 知者 (sapiens) の所有する「心の真の充足」に導く「道」が「峻険 (perardua)」(畠中尚志氏の訳語にもとづく)であることを認めている。人間が異質な二つの因果性によって決定されている事実を根柢に据えなければ、心血を注いだ思索の結実を書きとめたすえにこう告白せざるをえなかったスピノザの真意を読みとることはできない。「だがすべて高貴なものは、稀であるとともに難しいのである (Sed omnia praeclara tam difficilia, quam rarasunt)」という「エチカ」最後の言葉もわたしはこの意味で理解している。(p.48-49)
ここまで因果性CⅰとCⅱの不連続性について筆者の主張を辿ってきました。
それぞれの因果性における存在形式や認識形式の違いを分析することで最終的に「第三種認識」とはどのようなもので、そこに至るための道筋がどのようなものかが示されました。
ただし、筆者は「第三種認識」に至るための鍵を握る「第二種認識の意味をわたしはまだ充分見定めていない」としており、「また第三種の直観知に到達する道筋の検証は存在論のうえに築かれた『エチカ』の認識論と感情論と倫理学をつぶさに検討することを最低限の条件とする」としています。
まとめ
いかがだったでしょうか。
今回解説をした「個と無限」佐藤一郎著は、スピノザを研究するならば避けては通れない必読書です。
ただ論文中に「エチカ」からの引用が少ない上に、言い回しも難しいものが多く、かなり読みづらい印象がありました。
今回ブログという形で「エチカ」からの引用を記事内に併記することで少しでも読みやすくならないものかと、解説記事を作ってみました。
とても長くなってしまい、却ってわかりづらくなってしまったかもしれません。
論文内で参照されている「エチカ」の定理等は、記事内にできるだけ掲載するようにしています。
私としては、スピノザについての基礎的な知識がある方に対して、この記事だけで理解してもらえるように作ったつもりです。
ご意見等いただけると、今後のブログ運営の参考になり助かります。
最後に全体の流れをまとめて終わりにしたいと思います。
二重因果性の問題に関して筆者は
- 「因果性CⅰとCⅱは、不連続ではあるが完全な断絶を意味しておらず、両者の関係性を把握することがスピノザの真意を読み取るための基礎となる」
と主張していることを冒頭で確認しました。
そしてスピノザの真意を読み取るための鍵となる「因果性CⅰとCⅱの関係性」に関して、ここまで長々と解説してきました。
因果性Cⅰについてまとめると
- 「属性の絶対的本性から直接にあるいは間接に生起するものの因果性である」ということ。
- Cⅰにおける因果性では、属性の絶対的本性つまり、神に由来する「永遠性」を様態はもつ。
- Cⅰは「因果的に連結された様態の集合」である属性内部(Cⅱ)に対して、その外に位置するものであり時間性から逃れた無時間的なもの、すなわち「永遠の相」に属する。
CⅰとCⅱは「無限性」と「有限性」において峻別されるとしながらも、ある種の関係性をもちます。
- 神の本性の必然性から生起する無限に多くのもののひとつひとつについて、起成原因としての属性とのあいだにCⅰが成立するが、無限数のCⅰによって無限数の個物が生起する結果、同時にこれら無限数の個物相互間に必然的にCⅱが成立するのである。
そこでCⅰとCⅱの関係性の間を取り持つような役割を果たすのが間接無限様態です。
筆者は「延長属性」においても「思惟属性」においても、間接無限様態と個物が同一であるということを主張します。
- 「意志」はCⅰの条件のもとではまず直接無限様態であり、そこから神の本性の必然性によって無限に多くの意志作用が間接無限様態として生起する。 が、同時にCⅱの条件のもとでは個々の有限な意志作用は同じ必然性によって順次他の有限な意志作用から存在と作用へ決定され、この因果系列は無際限に続く。
ここで言われる神の本性の必然性によって導かれる「間接無限様態」と、順次他の有限な意志作用から存在と作用へ決定される「個物」が同一であるということです。
次に直接無限様態としての「無限な知性」と「神の観念」と「意志」が同一であるということが証明されます。
「無限な知性」と「神の観念」の同一について
- 神の自己認識の結果である「無限な知性」とは、神の属性とその変容のすべてを指す。その「無限な知性」の内容が「神の本質およびその本質から必然的に生起するすべてのものの観念 」 である「神の観念」と一致するということが第一部定理16及び21、第二部定理4から証明される。
「無限な知性」と「意志」の同一について
- 精神がある物について肯定・否定する意志作用はその物の観念にほかならず、精神の裡には観念が観念である限り含む以外のいかなる意志作用も、言い換えれば肯定も否定もない (第二部定理49)。意志は個々の意志作用そのものであり、知性は個々の観念そのものである。ところが個々の意志作用と観念は同一であるから、意志と知性は同一である(第二部定理49系)
さらに意志が個々の意志作用にほかならず、知性が個々の観念にほかならないとすれば、直接無限様態がスピノザの形而上学のなかでそもそも存在する資格をもつのかということが問われます。
ここでのスピノザの意図は、直接無限様態としての意志が、意志したり意志しなかったりする(肯定否定の)絶対的な能力として精神の裡に存在することを否定することにあります。
直接無限様態としての意志とは、すべての個々の観念に共通する普遍であり、かつすべての個々の観念に共通する肯定である。その意味において直接無限様態としての意志の十全な本質は、どのような個々の観念の中にも存在しており、それはすべての観念において同一であるということ、そのような意味において存在しています。
これらから結論されることとして、直接無限様態は第二種認識すなわち 「理性知」の対象として了解されます。 すべてに共通であり、等しく部分のうちにも全体のうちにもあるものは十全にしか考えることができない。 直接無限様態はすべての個物に妥当することによって、共通概念として認識されて、 第二種認識をもたらすとされます。
次に因果性Cⅱの考察に移ります。
因果性Cⅱについてまとめると
- 「無際限に聯なる個物の因果聯関全体によるこの決定がCⅱの決定形式である」ということ。
- そしてこのCⅱでの因果連関を「自然の共通の秩序」と呼び、個物はこの秩序のなかでは、存在することに固執する力量が制限され、その力量は外部の諸原因の力によって無限に凌駕される。
- Cⅱに関して、個物に対する存在と作用への決定形式が「外部原因」に依るものであり、存在することに固執しようと努める個物の本質そのものはこの「外部原因」による制限によって何ら変化を受けないということ。
Cⅰでの決定形式が個物の「内部原因」に依ることに対して、Cⅱでの決定形式が個物の「外部原因」に依るものであることと、個物がCⅰでは無限性をもつことに対して、Cⅱでは「外部原因から持続を決定されて有限になる」ことが対比的に述べられます。
ただし、そのようなCⅰとCⅱの原因の違いは、個物の無限性と有限を規定するものでしかなく、どちらもその内実については「必然的原因」という規定で一括されてしまいます。
つまり、Cⅰの構成要素である直接無限様態も間接無限様態も、Cⅱの構成要素である有限な個物も「他のものからある決定された関係で存在と作用へ決定されている」 (EiD7) ものであり、必然的原因(強制された原因)として一括されてしまい、内実の点から識別させるものではないということです。
どちらも必然的原因として一括されてしまうとすると、この存在形式の区別はいったい何を意味しているのでしょうか。
個物はCⅰでは作用の根拠を自己の内部の決定された本質のうちにもち、その作用の十全な原因になっています。Cⅱではその根拠を内部にもつことができず、部分的な原因であらざるをえません。このことによって個物の二通りの存在形式はそれぞれ「個物の能動性と受動性の根拠になっている」という内実の違いをもつということです。
このことからCⅱに依拠した認識が第一種認識(表象知)つまり身体が外部原因から刺激されることによって形成される認識にほかならないとされます。
このようにCⅱにおける個物の存在は非十全にしか認識されないと言う性格をもっています。したがって個物の本質と存在の十全な認識の可能性はCⅰに依拠して「神の中に含まれかつ神の本性の必然性から帰結してくる」ものとして個物を捉える場合に求められなければならないということになります。
Cⅰに依拠した認識は「事物の本質の十全な認識」を獲得させ、同時に原因としての神を認識させる。個物の無限性と永遠性に触れさせると同時に、個物を通して神を認識することを意味します。
「第三種認識」つまり因果性Cⅰに依拠する認識こそが個物の本質と存在を開示するとされます。
- 「個物の認識」とも呼ぶ第三種認識をスピノザは「神のいくつかの属性の形相的本質の充全な観念から、物の本質の充全な認識へ進む」認識と規定する。そしてこの認識によれば、すべてが本質と存在に関して神に依存していることが「神に依存するとわれわれの言うどの個物の本質そのものからも結論される」と言う。以上からわたしは、スピノザがこの認識を、Cⅰの三つの項の両極である属性と個物の関係を、中間項の直接無限様態を経由せずに、直観する認識として捉らえていたことが了解できると思う。
第三種認識に関して「中間項である直接無限様態を経由せずに、直観する認識」とは言われるものの、論文の最後の部分では「共通概念を基礎とする第二種認識(理性知)が第三種認識にいたるための道筋をつける」とも言われています。
筆者自身も「第三種認識」に至るための鍵を握る「第二種認識の意味をわたしはまだ充分見定めていない」と自ら認めています。
ただし、「問題の根柢を形成しているのは人間が二つの異なった因果性によって決定されている事態だということを、小論を通じて示すことができたと考える」としており、「第三種の直観知に到達する道筋の検証は存在論のうえに築かれた『エチカ』の認識論と感情論と倫理学をつぶさに検討することを最低限の条件とする」として論文は終わっています。
以上が論旨のざっくりしたまとめになります。まとめですら長いですね・・・
スピノザ哲学の奥深さを少しでも感じていただけたら幸いです。
この記事を編集する過程で、自分自身の理解も幾分か深まったように感じます。
ではまた次回。
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