第一性の遡及的成立――スピノザ・ヘーゲル・ドゥルーズを横断する哲学的仮説

哲学全般
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※ この記事は生成AIで作成したものを一部修正しています。

はじめに――私たちは、何が第一であるかを本当に知っているのか

スピノザの『エチカ』やヘーゲルの哲学を原典から読み、ドゥルーズの「何を構造主義として認めるのか」を読み進めていると、三者の哲学が互いに大きく異なっているにもかかわらず、ある共通した問題を扱っているように感じられる。

もちろん、三者の主張を同一視することはできない。

スピノザは、神すなわち自然の必然性と、そこから生じる個物の因果連関を論じる。ヘーゲルは、概念の規定が内的な必然性によって別の規定へと移行する過程を論じる。ドゥルーズは、差異的な関係からなる構造が、現実的な事物や主体の成立にどのように関わるのかを論じる。

それでも、三者を読み比べていると、私たちが普段当然のものとして受け入れている「先」と「後」の関係が、それぞれ異なる仕方で問い直されていることに気づく。

私たちは通常、目の前に現れている事物を出発点とし、それらの原因や関係を後から考える。また、目的が先にあり、その目的を実現するために手段が選ばれ、最後に結果が生じると考える。あるいは、概念は最初から一定の意味をもっており、哲学的な議論はその意味を詳しく説明する作業だと考える。

しかし、これらの理解は、本当に妥当なのだろうか。

目の前に現れているものは、それ自体で成立しているのだろうか。私たちが最初に理解した概念は、本当にそれだけで意味を確定できるのだろうか。あるものを成立させる条件と、そのものが現実に現れた後で私たちに知られる姿とのあいだには、どのような関係があるのだろうか。

本稿では、この問題を考えるために、「第一性の遡及的成立」という概念を提案する。

ここでいう第一性とは、時間的に最初に生じることだけを意味しない。あるものが存在論的、論理的、あるいは説明上の出発点として優先されることを意味する。

また、遡及的成立とは、後から生じたものが時間を逆行して過去の原因を生み出すという意味ではない。あるものの成立過程や成立条件を理解することによって、そのものが何であったのか、なぜそれを第一のものと見なせるのかが、改めて明らかになることを意味する。

したがって、本稿の中心的な問いは次のようになる。

あるものが第一のものとして成立するためには、そのものに先行する条件だけでなく、そのものがどのように成立し、どのような関係のなかで理解されるのかを考慮しなければならないのではないか。

この問いを、スピノザ、ヘーゲル、ドゥルーズの哲学を通じて検討する。

ただし、三者がすでに「第一性の遡及的成立」という同一の理論を主張していたと考えるわけではない。この概念は、三者の哲学を比較するために本稿で提案する仮説である。その妥当性は、原典の解釈と論証によって検証されなければならない。


  1. 第一章 「第一性の遡及的成立」の定義
    1. 1. 第一性とは何か
    2. 2. 遡及的成立とは何か
    3. 3. 成立条件と成立したものとの関係
  2. 第二章 スピノザ――目的の第一性から因果的必然性へ
    1. 1. 目的は自然の第一の原因ではない
    2. 2. 結果から目的を遡及的に理解する
    3. 3. 個物の理解と因果連関
  3. 第三章 ヘーゲル――始まりは、展開の結果によって理解される
    1. 1. 哲学は何から始まるのか
    2. 2. 純粋存在という始まり
    3. 3. 始まりの正当性は、始まりの後から明らかになる
    4. 4. ただし、ヘーゲルの遡及性は、単なる後付けではない
  4. 第四章 ドゥルーズ――構造の第一性と、現実的な事物の成立
    1. 1. 個々の事物から構造を考えることの限界
    2. 2. 象徴界の第一性
    3. 3. 空白のマス目――構造は完成した盤面なのか
    4. 4. ドゥルーズにおける第一性の遡及的成立
  5. 第五章 三者の比較――何が第一であるかは、どのように決まるのか
    1. 1. 三者に共通する構造
    2. 2. 共通性は、同一の存在論を意味するのか
  6. 第六章 「第一性の遡及的成立」は独自の哲学理論になりうるか
    1. 1. 原因の発見との違い
    2. 2. 解釈学的な理解との違い
    3. 3. 弁証法的な遡及性との違い
  7. 第七章 この仮説への反論と応答
    1. 1. 反論一――あらゆる探究が第一性の遡及的成立になるのではないか
    2. 2. 反論二――三者を結びつけるための恣意的な解釈ではないか
    3. 3. 反論三――遡及的に理解されるからといって、第一性が成立するわけではない
    4. 4. 反論四――「第一性の遡及的成立」は既存の概念の言い換えではないか
  8. 第八章 結論――第一のものを問い直す哲学

第一章 「第一性の遡及的成立」の定義

1. 第一性とは何か

まず、第一性という言葉を明確にしておきたい。

あるものが第一であるという場合、少なくとも三つの異なる意味が考えられる。

第一に、時間的な第一性である。これは、ある出来事が別の出来事よりも先に生じることを意味する。

第二に、存在論的な第一性である。これは、あるものが他のものの存在を成立させる根拠となっていることを意味する。

第三に、説明上の第一性である。これは、あるものを理解するために、別のものよりも先に考慮しなければならないことを意味する。

これらは互いに関係することがあるが、同一ではない。

たとえば、私たちが最初に目にする事物は、時間的には認識の出発点であっても、その事物が存在するための原因ではないかもしれない。また、説明において最初に提示される概念が、存在論的にも第一のものであるとは限らない。

したがって、何かを第一のものと見なす場合には、何についての第一性なのかを明らかにしなければならない。

本稿で問題にするのは、とりわけ存在論的な第一性と説明上の第一性との関係である。

私たちは、あるものを説明の出発点に置く。しかし、そのものが成立する条件を明らかにすると、最初に出発点としたものの位置づけが変化することがある。

このとき、第一性は単に発見されるのではない。何が第一であるのかという判断そのものが、探究の過程を通じて修正されるのである。

2. 遡及的成立とは何か

ここで、遡及的成立という概念を定義しよう。

ある事物、概念、現象をXとする。

私たちは、Xをそれ自体で成立したものとして認識し、そこから説明を始める。しかし、探究を進めると、Xが成立するためには、Xとは異なる条件や関係を考慮しなければならないことが明らかになる。

そこで、Xをその成立条件との関係において捉え直すと、Xが何であるかという理解が変化する。

このとき、Xは、最初に認識されたものと同じ対象でありながら、説明上の位置づけを変える。

つまり、Xは最初から完全に理解された第一のものだったのではなく、成立条件を明らかにする過程を通じて、初めて十分な仕方で理解されるのである。

これを、本稿では第一性の遡及的成立と呼ぶ。

この概念を、次のように定式化できる。

定義:第一性の遡及的成立とは、あるものの成立条件を明らかにする探究によって、そのものの第一性、意味、説明上の位置づけが遡及的に再規定されることをいう。

ここで「遡及的」という言葉は、時間的な逆行を意味しない。後から生じた結果が過去の出来事を物理的に変化させるという主張でもない。

それは、理解の順序に関する概念である。

あるものを最初に認識することと、そのものが何であるかを十分に理解することとは異なる。後者は、前者を出発点としながらも、その出発点を捉え直すことによって成立する場合がある。

ただし、この定義だけでは、まだ一般的な解釈学や科学的探究の説明と区別できない。

そのため、次に、どのような条件のもとで遡及的成立という概念が有効になるのかを明らかにする必要がある。

3. 成立条件と成立したものとの関係

第一性の遡及的成立が問題となるのは、単にある事物に原因がある場合ではない。

たとえば、ある石が地面に落ちた理由を調べ、重力や初速度などの条件を明らかにしたとしても、それだけで第一性の遡及的成立が生じたとは限らない。

原因を発見することと、第一性そのものが遡及的に再規定されることは、別の問題だからである。

ここで必要なのは、少なくとも次の三つの条件である。

第一に、探究の出発点となるものが、何らかの意味で自立的、直接的、あるいは第一のものとして理解されていること。

第二に、そのものを十分に理解するためには、それ自体には還元できない成立条件や関係を明らかにする必要があること。

第三に、その条件や関係を明らかにすることによって、最初に出発点としたものの意味や位置づけが変化すること。

この三つが満たされる場合、私たちは単に既存の知識を追加しているのではない。

最初に何を第一のものと見なしていたのか、その判断そのものを捉え直しているのである。

本稿では、この構造がスピノザ、ヘーゲル、ドゥルーズにおいて、それぞれ異なる形で現れている可能性を検討する。


第二章 スピノザ――目的の第一性から因果的必然性へ

1. 目的は自然の第一の原因ではない

スピノザの『エチカ』第一部付録は、第一性の遡及的成立という問題を考えるための重要な出発点となる。

スピノザは、自然が何らかの目的を実現するために存在しているという考え方を批判する。

私たちは、自然のなかに有用なものを見いだすと、それが私たちのために用意されたものであるかのように考える。

目が見えることから、人間が見るために目を与えられたと考える。太陽が地上の生命を支えていることから、太陽が人間のために存在していると考える。

しかし、こうした説明では、私たちが結果として認識した有用性が、自然そのものの目的として投影されている。

スピノザは『エチカ』第一部付録で、目的因を自然の説明原理とする考え方を批判し、人間が自然を目的に従って解釈する仕組みを明らかにする。

ここで重要なのは、目的が自然の因果連関を成立させているのではないという点である。

スピノザの『エチカ』第一部定理16によれば、神の本性の必然性から無限に多くのものが、無限に多くの仕方で生じなければならない。

また、第一部定理28によれば、有限な個物は、他の有限な原因によって存在と作用を条件づけられる。

これらの命題を踏まえるなら、自然の事物は、人間が設定した目的を実現するために存在しているのではない。個々の事物は、自然の必然的な因果連関のなかで成立する。

ここで、通常の目的論的な説明とスピノザの説明との違いが明らかになる。

目的論的な説明では、目的が先に設定され、その実現のために手段が選ばれ、結果が生じると考えられる。

しかし、スピノザの自然観では、人間の目的が自然の因果連関を支配しているわけではない。人間が目的として認識するものも、自然のなかで成立した人間の欲求や認識に関わる。

したがって、目的の第一性は、自然そのものの第一性ではない。

目的は、自然の作用を説明するための根本原理なのではなく、自然のなかに存在する人間が形成する観念として理解されなければならない。

2. 結果から目的を遡及的に理解する

ここで、第一性の遡及的成立という概念を適用してみよう。

人間は、ある事物が存在することを認識し、その事物が自分にとって有用であることを経験する。そして、その有用性を、事物が存在する目的として解釈する。

この場合、認識の順序は次のようになる。

事物との遭遇 → 有用性の認識 → 目的の観念の形成。

ところが、目的論的な説明では、この順序が逆転する。

目的 → 手段 → 事物の存在。

この逆転によって、自然の結果として生じたものが、あたかも自然の原因であるかのように理解される。

スピノザの批判は、この逆転を解消するものとして理解できる。

ただし、ここで区別しなければならないことがある。

自然の因果関係そのものが、人間の認識の後から成立するわけではない。人間が目的を形成する以前から、自然の因果連関は成立している。

したがって、スピノザにおける遡及性は、自然の存在が後から作られることを意味しない。

遡及的に再規定されるのは、私たちが目的をどのようなものとして理解していたのか、そして、何を自然の第一の原因として認めるべきなのかという、説明上の位置づけである。

私たちは最初、目的を自然の第一の原因として考える。しかし、自然の因果的必然性を理解することによって、その目的の観念を、人間の認識と欲求の側へと位置づけ直す。

ここで、第一のものと見なされていた目的は、自然を説明する第一原理ではなくなる。

この意味で、スピノザの目的論批判は、第一性の遡及的成立を考えるための重要な事例となる。

3. 個物の理解と因果連関

この問題は、目的論批判にとどまらない。

『エチカ』第一部定理28では、有限な個物は、別の有限な原因によって存在と作用を条件づけられるとされる。

この命題が示しているのは、有限な個物を、その個物だけで完結した存在として説明することができないということである。

ある個物がなぜ存在するのかを理解するためには、それを成立させている原因を考えなければならない。そして、その原因もまた有限な個物であるならば、それも別の原因によって条件づけられている。

こうして、個物の理解は、より広い因果連関へと進んでいく。

ここでは、目の前に現れている個物が、認識の出発点であることと、存在論的に自立した第一のものではないこととが区別される。

私たちは個物から出発する。しかし、個物を十分に理解するためには、その個物を成立させる因果連関を考察しなければならない。

また、『エチカ』第二部定理7では、次のように述べられる。

Ordo, & connexio idearum idem est, ac ordo, & connexio rerum.

「観念の秩序と連結は、事物の秩序と連結と同一である。」

この命題は、自然の秩序と観念の秩序とを、互いに独立した二つの秩序として扱わないための重要な原則である。

スピノザにおいて、事物の因果的な秩序を理解することと、観念の秩序を理解することとは、単純に切り離せない。

ただし、この命題を、後から得られた人間の認識が自然の秩序を生み出すという意味に解釈してはならない。

むしろ、自然の秩序と観念の秩序とが同一の必然的な秩序を表現することによって、私たちが自然を理解する仕方も、自然そのものの秩序から切り離せないことが示されている。

ここで重要なのは、個物を理解することが、その個物の内部に閉じた説明では完結しないという点である。

個物は、自然の因果的必然性のなかで理解されなければならない。

このことは、第一性の遡及的成立という仮説にとって、次のような意味をもつ。

私たちが最初に認識する個物は、説明の出発点ではある。しかし、その個物が何であるかは、それを成立させる因果連関を理解することによって、より十分に明らかになる。

スピノザにおいては、個物の第一性が、自然の因果的必然性との関係において捉え直される。

ただし、ここで遡及的に再規定されるのは、個物が自然の因果連関のなかに存在するという事実そのものではない。個物を自立的な説明原理として扱う私たちの理解の仕方である。

この区別を維持することによって、スピノザの因果論を、単純な「結果から原因を考える」という認識論的な話に還元せずに理解できる。


第三章 ヘーゲル――始まりは、展開の結果によって理解される

1. 哲学は何から始まるのか

ヘーゲルの『大論理学』では、哲学が何から始まるべきなのかという問題が、独自の仕方で論じられる。

『大論理学』「何をもって学は始まるべきか」において、ヘーゲルは、哲学の始まりが媒介されたものなのか、それとも直接的なものなのかという問題を検討する。

ここで問題となるのは、単に哲学者が何を最初に考えるべきかという手続き上の問題ではない。

哲学の始まりが何であるのか、その始まりがどのように正当化されるのかという問題である。

ヘーゲルは、次のように述べる。

Die absolute Wahrheit muß ein Resultat sein.

「絶対的な真理は、結果でなければならない。」

(『大論理学』「何をもって学は始まるべきか」。引用はドイツ語原文の趣旨を示す。)

ここで重要なのは、真理が単に最初から完成した形で与えられているのではないという点である。

哲学的な探究は、何らかの始まりを必要とする。しかし、その始まりがなぜ正当なのかは、始まりの時点ですべて明らかになっているわけではない。

始まりは、展開を通じて、その正当性を示さなければならない。

この点において、ヘーゲルの論理学は、第一性の遡及的成立を考えるための重要な事例となる。

2. 純粋存在という始まり

『大論理学』の存在論は、純粋存在から始まる。

純粋存在とは、何の規定ももたない直接的な存在である。

ヘーゲルは、純粋存在を、あらゆる規定を取り除いた純粋な直接性として考える。しかし、そのような純粋存在は、何の規定も含まないため、純粋無と区別できない。

このことから、存在と無との移行が生じ、生成という規定が現れる。

重要なのは、この移行が、哲学者の恣意的な判断によって生じるのではないという点である。

純粋存在を、その概念の規定に従って考え抜くと、そこには何の区別も規定も存在しない。したがって、純粋存在は純粋無と区別できない。

このことによって、存在から無への移行が生じる。

ここでは、最初に置かれた概念が、それ自体の規定を通じて、別の概念へと移行する。

つまり、概念の展開は、外部から与えられた設計図を実現する過程ではない。

概念が何であるかを考え抜くことによって、その概念が別の規定へと移行する必然性が示されるのである。

3. 始まりの正当性は、始まりの後から明らかになる

ここで、第一性の遡及的成立という概念を適用してみよう。

哲学は、何らかの始まりを必要とする。しかし、その始まりが本当に正当なものであるかどうかは、始まりの時点では十分に明らかではない。

始まりは、展開を通じて、その正当性を示す必要がある。

ヘーゲルは、論理学の展開を、単なる直線的な進行として理解していない。

『大論理学』の「何をもって学は始まるべきか」では、進展がその根拠へと立ち返ること、そして進展の線が円環を形成することが論じられる。

この円環的な構造は、始まりと結果との関係を考えるうえで重要である。

始まりは、結果へ向かって展開する。しかし、結果は、単に始まりの後に付け加えられるものではない。

結果を理解することによって、始まりがどのようなものであったのかが明らかになる。

ここでは、始まりと結果が、互いに無関係な二つのものとして扱われない。

始まりは結果への展開を通じて理解され、結果は始まりからの展開を通じて理解される。

この関係において、始まりの第一性は、単純に最初に置かれたという事実だけでは正当化されない。

始まりは、展開の全体において、その正当性を示すのである。

したがって、ヘーゲルにおいては、第一性は単に発見されるのではなく、展開を通じてその意味が明らかになる。

ヘーゲルにおいて、始まりは、展開の結果によって遡及的に理解される。

4. ただし、ヘーゲルの遡及性は、単なる後付けではない

ここで誤解を避けなければならない。

結果によって始まりが理解されるということは、結果が出た後で、都合のよい説明を始まりに付け加えてよいという意味ではない。

ヘーゲルの論理学では、概念の展開は、その概念の規定そのものによって導かれる。

後から得られた結果によって、過去の始まりを恣意的に解釈し直すことは、ヘーゲルのいう必然的な展開とは異なる。

重要なのは、始まりから結果への移行が、内的な必然性によって説明できることである。

結果は、始まりを外部から変更するのではない。始まりの規定がどのような展開を可能にし、どのような結果へと移行するのかを明らかにする。

その意味で、ヘーゲルの遡及性は、単なる時間的な後知恵ではない。

それは、始まりと結果とが、一つの論理的な全体を形成するということに関わる。

ここで、第一性の遡及的成立という概念は、スピノザの場合とは異なる意味をもつ。

スピノザでは、個物や目的の第一性が、自然の因果的必然性との関係において捉え直される。

ヘーゲルでは、始まりそのものが、概念の内的な展開を通じて、その正当性と意味を明らかにする。

両者は同一ではない。

しかし、どちらの場合も、最初に与えられたものを、そのまま最終的な説明原理として受け入れることはできない。

それを成立させる関係や必然性を理解することによって、第一のものの位置づけが変化するのである。


第四章 ドゥルーズ――構造の第一性と、現実的な事物の成立

1. 個々の事物から構造を考えることの限界

ドゥルーズの「何を構造主義として認めるのか」は、構造と現実的な事物との関係を考えるうえで重要な論文である。

この論文では、構造主義の特徴を、単に対象を分類したり、対象のあいだに規則性を見いだしたりすることに求めない。

重要なのは、構造が、個々の事物や主体に還元できない差異的な関係の体系として理解されることだ。

通常、私たちは、まず個々の事物が存在し、それらのあいだに関係が形成されると考える。

たとえば、言語を考える場合、個々の語がそれぞれ独立した意味をもっており、その語が集まることで言語体系が成立すると考えるかもしれない。

しかし、構造主義的な考え方では、語の意味は、その語自体に完全に備わっているわけではない。

語の意味や機能は、他の語との差異や、言語体系のなかで占める位置によって規定される。

つまり、個々の要素を理解するためには、それらが位置づけられている関係の体系を考えなければならない。

この意味で、構造は、個々の事物から後から構成されるものではない。

むしろ、個々の事物や主体の意味を説明するために、構造的な関係を考える必要がある。

2. 象徴界の第一性

ドゥルーズは、構造主義を論じるなかで、現実界と想像界に還元できない象徴界の重要性を強調する。

ここで、象徴界は、単に現実的な事物と、その事物についてのイメージとを仲介する領域ではない。

それは、個々の事物や主体の位置づけを説明するための、差異的な関係の体系に関わる。

この点から見ると、構造の第一性は、時間的な先行性とは区別されなければならない。

構造が第一であるということは、現実的な事物が存在する以前の時間に、完成した構造が物理的に存在していたという意味ではない。

むしろ、現実的な事物や主体が何であるかを説明するためには、それらが位置づけられている構造を考えなければならないという意味である。

ここで、第一性の遡及的成立という問題が現れる。

私たちは、まず現実的な事物や主体を認識する。しかし、それらの意味や位置づけを理解するためには、個々の事物だけでは説明できない関係の体系を考察しなければならない。

その構造を理解することによって、最初に認識した事物が何であるかが、改めて明らかになる。

ただし、ここで注意したいのは、ドゥルーズの構造主義論において、構造が単に現実的な事物の背後に隠れた完成済みの設計図として存在しているわけではないということだ。

構造は、差異的な関係や特異点を含む体系であり、現実的な事物の成立や変化に関わる。

したがって、構造の第一性は、単に「構造が先で、現実が後」という時間的な順序では捉えられない。

それは、現実的な事物を理解するための説明上の優先性であると同時に、事物の意味や位置づけを成立させる関係の優先性でもある。

3. 空白のマス目――構造は完成した盤面なのか

ドゥルーズの構造主義論で特に重要なのが、「空白のマス目」という概念である。

空白のマス目は、単に何かが欠けている場所ではない。

それは、構造のなかを移動し、異なる系列の関係を結びつけることによって、構造の作動に関わる。

ドゥルーズは、構造のなかで、ある要素が固定された位置を占めるだけではなく、位置の移動そのものが関係の変化を可能にすることを論じる。

ここから、構造を、すべての位置があらかじめ完成した要素によって占められた盤面として理解することの限界が明らかになる。

構造は、単に個々の事物を配置するための静的な枠組みではない。

構造のなかでは、位置や関係が変化し、その変化によって、各要素の意味や機能も変化する。

空白のマス目は、このような構造の作動を理解するための重要な概念である。

この点は、第一性の遡及的成立という仮説にとっても重要である。

もし構造が、あらかじめ完成した盤面にすぎないならば、現実的な事物がその位置を占めることは、単に既存の場所を埋めることにとどまるだろう。

しかし、構造が位置の移動や関係の変化を含むならば、現実的な事物の成立を理解するためには、構造そのものの作動を考察しなければならない。

ここでは、構造の第一性は、単に現実的な事物に先行するというだけではない。

構造の関係や位置の変化を理解することによって、現実的な事物の意味や位置づけが、改めて理解されるのである。

4. ドゥルーズにおける第一性の遡及的成立

ここまでの議論を整理しよう。

ドゥルーズの構造主義論では、個々の事物や主体が、それ自体で完結した意味をもっているわけではない。

それらの意味や位置づけは、差異的な関係の体系によって規定される。

したがって、現実的な事物を理解するためには、その事物だけを考察するのではなく、それが位置づけられている構造を考えなければならない。

この構造を理解することによって、最初に認識した事物の意味や位置づけが変化する。

この点で、ドゥルーズの構造主義論は、第一性の遡及的成立という仮説と接点をもつ。

ただし、ドゥルーズの場合、構造は、個々の事物を説明するための固定的な原因として理解されるべきではない。

構造の作動は、関係の変化や位置の移動を含んでいる。したがって、構造の第一性を認めることは、現実的な事物の成立を、完成済みの構造による一方向的な決定として理解することとは異なる。

ドゥルーズにおいては、構造的な関係を理解することによって、現実的な事物や主体の位置づけが遡及的に再規定される。

この命題は、スピノザやヘーゲルと同じ意味をもつわけではない。

それでも、三者を比較するうえで、重要な共通点を示している。


第五章 三者の比較――何が第一であるかは、どのように決まるのか

ここまで、スピノザ、ヘーゲル、ドゥルーズの哲学を個別に検討してきた。

三者のあいだには明確な違いがある。

スピノザは、自然の因果的必然性から出発し、有限な個物や目的の観念を、その必然性との関係において捉える。

ヘーゲルは、概念の内的な展開を通じて、始まりの正当性と意味が明らかになることを論じる。

ドゥルーズは、差異的な関係からなる構造が、現実的な事物や主体の意味や位置づけにどのように関わるのかを論じる。

したがって、三者が同じ存在論を共有していると主張することはできない。

それでも、比較を通じて、一つの共通した問題を抽出することができる。

それは、あるものを第一のものとして理解するためには、そのものだけでなく、それを成立させる条件や関係を考察しなければならないのではないかという問題である。

1. 三者に共通する構造

三者の議論を、次のように整理できる。

比較項目スピノザヘーゲルドゥルーズ
問い直される第一性目的や個物の自立性始まりの直接的な正当性個々の事物や主体の自立的な意味
成立条件自然の因果的必然性概念の内的な展開差異的な関係からなる構造
遡及的に明らかになるもの目的の観念や個物の因果的な位置づけ始まりの意味と正当性事物や主体の意味と位置
中心的な論理因果的必然性弁証法的展開構造的関係
遡及性の特徴説明原理の捉え直し始まりと結果の相互的な理解構造的関係による位置づけの再理解

この表が示しているのは、三者が同一の理論を主張しているということではない。

むしろ、三者は、それぞれ異なる対象と方法を通じて、第一のものとされるものの自立性を問い直している。

ここで共通しているのは、第一のものを、単に最初に与えられたものとして受け入れるのではなく、その成立条件との関係において理解しようとする方向性である。

2. 共通性は、同一の存在論を意味するのか

ここで、重要な反論が考えられる。

スピノザの因果論、ヘーゲルの弁証法、ドゥルーズの構造主義解釈は、そもそも異なる問題を扱っているのではないか。

スピノザの自然の因果連関を、ヘーゲルの概念の自己展開と同じものとして扱うことはできない。また、ドゥルーズの差異的な関係を、スピノザの自然の必然性やヘーゲルの概念の展開にそのまま還元することもできない。

この反論は妥当である。

したがって、本稿の仮説は、三者の存在論を一つの原理に還元することを目指すものではない。

むしろ、三者がそれぞれの哲学において、何を第一のものとして認め、どのような条件によってその第一性を説明しているのかを比較するための枠組みである。

この意味で、「第一性の遡及的成立」は、三者のあいだにある共通の教説を発見したという主張ではない。

それは、三者の相違を保持しながら、第一性の成立と再規定という問題を比較するための理論的仮説である。

この区別を明確にすることによって、三者を安易に同一視する危険を避けることができる。


第六章 「第一性の遡及的成立」は独自の哲学理論になりうるか

ここで、最も重要な問いに戻ろう。

「第一性の遡及的成立」は、独自の哲学理論として成立しうるのだろうか。

この問いに答えるためには、既存の哲学的概念との違いを明確にしなければならない。

1. 原因の発見との違い

ある事物の原因を発見することは、その事物の成立条件を明らかにすることである。

しかし、それだけで第一性の遡及的成立が生じるわけではない。

第一性の遡及的成立が問題となるのは、原因や成立条件を明らかにすることによって、何が第一のものなのかという理解そのものが変化する場合である。

たとえば、ある事物が何らかの原因によって生じたことを知っても、その事物を理解するための説明上の出発点が変化しないならば、それは通常の因果的説明にとどまる。

これに対して、最初に第一のものとして扱っていた事物が、その成立条件を理解することによって、もはや自立した説明原理ではないと判明する場合、第一性そのものが再規定されている。

この点で、第一性の遡及的成立は、単なる原因の発見とは区別される。

2. 解釈学的な理解との違い

また、ある対象を後から理解し直すという現象は、解釈学においても論じられてきた。

私たちは、部分を理解するために全体を参照し、全体を理解するために部分へと戻ることがある。

このような理解の循環は、第一性の遡及的成立と類似している。

しかし、両者をそのまま同一視することはできない。

第一性の遡及的成立が問題にするのは、単に理解が循環的に進むことではない。

何が存在論的、論理的、あるいは説明上の第一のものとして認められるのかという、その優先関係そのものが、探究を通じて捉え直されることである。

この意味で、本稿の概念は、理解の循環を含みうるが、それに限定されない。

スピノザの場合には、自然の因果的必然性が、人間の認識から独立して成立している。ヘーゲルの場合には、概念の展開が、単なる解釈の変化ではなく、論理的な必然性をもつ。ドゥルーズの場合には、構造的な関係が、現実的な事物や主体の位置づけに関わる。

したがって、第一性の遡及的成立は、単なる認識の循環としてではなく、存在論的・論理的・構造的な優先関係を捉え直す概念として提示される。

3. 弁証法的な遡及性との違い

さらに、第一性の遡及的成立は、ヘーゲルの弁証法的な展開と重なる部分がある。

しかし、それをヘーゲルの弁証法の別名として提示することはできない。

ヘーゲルでは、概念の展開そのものが問題となる。ある規定が別の規定へと移行することによって、始まりの意味が明らかになる。

これに対して、本稿の概念は、必ずしも概念の自己展開だけを対象としない。

スピノザの因果論や、ドゥルーズの構造的関係も、第一性の遡及的成立という観点から比較することができる。

したがって、この概念の独自性があるとすれば、それは特定の存在論や方法論を置き換えることではなく、異なる哲学的理論において、第一性の成立と再規定がどのように生じるのかを比較するための枠組みを提供する点にある。

ただし、これは現段階での可能性であって、独自性がすでに証明されたということではない。

そのためには、既存の哲学研究において類似の問題がどのように論じられてきたのかを調査し、本稿の概念が何を追加できるのかを明確にする必要がある。


第七章 この仮説への反論と応答

独自の哲学理論を提示するためには、自分の仮説に都合のよい事例を集めるだけでは不十分である。

仮説がどのような批判にさらされるのかを明らかにし、その批判に応答できなければならない。

ここでは、少なくとも四つの反論を検討する。

1. 反論一――あらゆる探究が第一性の遡及的成立になるのではないか

もし、後から得られた知識によって、最初に理解した対象の意味が変わることをすべて第一性の遡及的成立と呼ぶならば、この概念はあまりにも広すぎる。

歴史研究でも、自然科学でも、日常的な学習でも、私たちは何度も理解を修正する。

そのすべてを同じ概念で説明するならば、第一性の遡及的成立は、特定の哲学的問題を捉える概念としての有効性を失う。

この批判は重要である。

そのため、本稿では、第一性の遡及的成立が成立する条件を限定する。

必要なのは、単に知識が追加されることではない。

最初に第一のものとして扱われていた対象が、その成立条件を明らかにすることによって、存在論的、論理的、あるいは説明上の優先関係を捉え直されることである。

つまり、対象についての理解が変わるだけでは不十分であり、何を説明の第一のものと認めるかという判断が変化しなければならない。

この限定によって、通常の知識の更新と、第一性の遡及的成立とを区別できる。

2. 反論二――三者を結びつけるための恣意的な解釈ではないか

第二の反論は、本稿の比較そのものに向けられる。

スピノザ、ヘーゲル、ドゥルーズは、それぞれ異なる哲学的立場をもっている。

その三者を「第一性の遡及的成立」という一つの概念でまとめることは、原典の相違を無視した恣意的な解釈ではないか。

この反論に対しては、本稿の主張の範囲を限定する必要がある。

本稿は、三者が同じ理論を主張しているとは述べない。

また、「第一性の遡及的成立」が三者の哲学を完全に説明できるとも主張しない。

主張するのは、三者の哲学において、第一のものと見なされるものの位置づけが、その成立条件との関係において問い直されるという問題を比較できる、ということだけである。

したがって、この仮説は、三者を統一する最終原理ではなく、比較研究のための概念として理解されなければならない。

さらに、この仮説が有効であるためには、三者の違いを明確にする必要がある。

スピノザでは因果的必然性、ヘーゲルでは概念の内的展開、ドゥルーズでは構造的関係が中心となる。

これらを同一のものとして扱うのではなく、それぞれの第一性がどのような仕方で成立し、再規定されるのかを比較することが、本稿の課題である。

3. 反論三――遡及的に理解されるからといって、第一性が成立するわけではない

第三の反論は、存在論と認識論との区別に関わる。

あるものを後から理解し直したとしても、そのことによって、そのものの存在論的な第一性が成立するとは限らない。

たとえば、私たちが自然の因果連関を理解したとしても、それによって自然の因果連関そのものが初めて成立するわけではない。

同様に、構造を理解することによって、構造そのものが初めて成立するわけでもない。

この批判は、スピノザを考える場合に特に重要である。

スピノザでは、自然の必然性は人間の認識から独立している。

したがって、第一性の遡及的成立という概念が、私たちの認識の変化によって存在論的な秩序そのものが生み出されると主張するならば、それはスピノザの立場と両立しない。

この問題に対しては、存在論的な成立と、第一性の理解が成立することとを区別しなければならない。

本稿の概念が直接に説明するのは、第一性の存在論的な成立そのものではなく、第一のものとして認められる対象の認識論としての位置づけが、成立条件を理解することによって遡及的に再規定されるという関係である。

ただし、ヘーゲルのように、論理的な始まりと結果の関係そのものが問題となる場合には、単なる認識の変化を超えた論理的な問題が含まれる。

したがって、第一性の遡及的成立を三者に適用する際には、それぞれの哲学において、存在論的な優先性と説明上の優先性がどのように関係しているのかを個別に検討する必要がある。

4. 反論四――「第一性の遡及的成立」は既存の概念の言い換えではないか

最後に、最も厳しい反論を考えたい。

本稿の概念は、因果的説明、弁証法、構造主義、解釈学的循環など、既存の哲学的概念を別の言葉でまとめただけなのではないか。

もしそうであるならば、独自の哲学理論としての価値は限定的である。

この批判に答えるためには、既存の概念との詳細な比較研究が必要になる。

特に、ヘーゲルにおける始まりと結果の関係、スピノザにおける因果的秩序と認識の関係、ドゥルーズにおける構造と生成の関係について、既存の研究がどこまで同様の問題を扱っているのかを確認しなければならない。

現段階で、本稿の概念が既存の理論に対して明確な独自性をもつと断定することはできない。

しかし、独自性の可能性は、次の点にある。

第一性の遡及的成立は、異なる哲学体系において、何が第一のものとされ、その第一性がどのような成立条件との関係で正当化され、再規定されるのかを比較するための概念である。

この比較の枠組みが、既存の概念では捉えにくかった共通性や差異を明らかにできるならば、独自の理論的価値をもつ可能性がある。

ただし、その価値は、今後の原典研究と先行研究の検討によって示されなければならない。


第八章 結論――第一のものを問い直す哲学

本稿では、スピノザ、ヘーゲル、ドゥルーズの哲学を横断するための概念として、「第一性の遡及的成立」を提案した。

この概念は、あるものの成立条件を明らかにすることによって、そのものの第一性、意味、説明上の位置づけが遡及的に再規定されることを意味する。

スピノザにおいては、目的や個物の自立性が、自然の因果的必然性との関係において捉え直される。

ヘーゲルにおいては、哲学の始まりが、その後の概念の展開を通じて、その正当性と意味を明らかにする。

ドゥルーズにおいては、現実的な事物や主体の意味と位置づけが、差異的な関係からなる構造との関係において理解される。

三者のあいだにある違いは大きい。

スピノザの因果的必然性を、ヘーゲルの弁証法的展開と同一視することはできない。また、ドゥルーズの構造的関係を、両者の存在論にそのまま還元することもできない。

しかし、三者の哲学を比較することで、共通する問題を抽出することは可能である。

それは、私たちが第一のものとして認識しているものは、それ自体だけで十分に理解できるのか、それとも、そのものを成立させる条件との関係において初めて理解できるのかという問題である。

この問題は、単に原因を発見することとは異なる。

また、後から得られた知識によって、過去の理解を修正することとも異なる。

重要なのは、何を第一のものとして認めるのかという判断そのものが、成立条件を探究することによって変化するという点である。

この意味で、第一性の遡及的成立は、哲学的思考における一つの重要な構造を捉えるための概念として提案できる。

ただし、現段階では、これを確立した独自の哲学理論として断定することはできない。

そのためには、既存の研究との比較、原典のより詳細な検討、そして本稿の概念がどのような問題を独自に説明できるのかを示す必要がある。

しかし、少なくとも、三者の哲学を横断するための研究仮説としては、検討に値する。

今後の課題は、この概念を三者の哲学に適用することによって、どのような共通性と差異が明らかになるのかを、さらに具体的に示すことである。

そして、その作業を通じて、第一性の遡及的成立が単なる比較のための名称にとどまらず、哲学的な説明の順序そのものを問い直す概念として成立しうるかどうかを検証したい。

私たちが第一のものとして認識しているものは、本当に第一のものなのだろうか。

あるいは、それが何であるかは、その成立条件を理解した後で初めて明らかになるのだろうか。

この問いを、スピノザ、ヘーゲル、ドゥルーズの哲学を通じて考え続けること。それが、「第一性の遡及的成立」という仮説の出発点である。

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