自然と自由の哲学――スピノザからドゥルーズへ、そして私たちの思考のために

哲学全般
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はじめに――自然の外部に原理を求めない哲学

自然は何のために存在しているのだろうか。

人間は、自分の行為を目的によって説明する。水を飲むのは喉の渇きを癒やすためであり、哲学を研究するのは真理を理解するためである。しかし、この説明の仕方を自然全体にまで拡張してよいのだろうか。自然そのものが、あらかじめ定められた目的に向かって進んでいると考える根拠はあるのだろうか。

スピノザは『エチカ』第一部付録において、自然を目的論的に理解する態度を批判した。自然の事物は、何らかの目的を実現するために存在するのではない。自然の秩序は、人間の願望や期待を基準にして説明されるべきものではない。

しかし、ここからさらに重要な問題が生じる。

自然が目的を持たないとしても、それだけで自然が必然的であるとはいえない。目的が存在しないことと、偶然が存在しないことは、論理的には別の主張だからだ。

それでは、無目的性と必然性はどのように結びつくのか。また、自然の外部にある目的や原理を必要としない哲学は、人間の自由をどのように理解できるのか。

本稿では、スピノザの必然主義を出発点に、ヘーゲルの内在的な論理展開、ドゥルーズの存在の一義性と内在平面を横断し、次の五段階からなる独自の哲学的構想を提示したい。

無目的性 → 内在性 → 必然性 → 存在の一義性 → 自由。

ここで提案するのは、自然の外部にある原理によって世界を説明するのではなく、自然の内部における関係と生成から、存在・認識・自由を一貫して考える「無目的的内在生成論」である。

第一段階 無目的性――自然は何のために存在するのか

スピノザは『エチカ』第一部付録で、目的因を自然の実際の原因であるかのように扱うことを批判する。

人間は、自分が何かを欲求し、その欲求を実現するために行為する経験を持っている。そのため、自然の事物もまた、何らかの目的のために存在していると考えやすい。

しかし、目が見るために作られたとか、太陽が人間を照らすために存在するといった説明は、人間にとっての有用性を自然そのものの目的と取り違えている。

ここで重要なのは、目的を持つこと自体を否定する必要はないという点である。人間が目的を設定することも、自然の内部で生じる出来事として説明できる。

たとえば、私が哲学を研究するのは、真理を理解したいからかもしれない。しかし、その欲求も、身体の状態、過去の経験、出会った書物、他者との関係などから切り離されて存在するわけではない。

目的は因果性の外部にあるのではない。目的を設定するという行為そのものが、因果的な説明の対象になるのである。

この点で、スピノザの目的論批判は、単に「自然には目的がない」と主張するだけではない。それは、目的を自然の外部に置かれた説明原理として使用することを拒み、目的を持つ主体そのものを自然の内部に位置づけ直す試みでもある。

ただし、無目的性から必然性が直ちに導かれるわけではない。この移行には、自然の存在と作用をどのような原理で説明するかという、もう一つの問題が介在する。

第二段階 内在性――原因は自然の外部にあるのか

この問題に対して、スピノザは内在的因果性という考え方を提示する。

『エチカ』第一部定理18では、次のように述べられている。

Deus est omnium rerum causa immanens, non vero transiens.

「神はすべての事物の内在的原因であり、超越的原因ではない。」

神は、自然の外部から世界を制作した後、自らは世界から離れているような原因ではない。神は万物のうちに存在し、万物は神のうちに存在する。

このことは、自然の秩序を説明するために、自然とは別の領域に目的や設計者を想定する必要がないことを意味する。

ただし、内在性を単に「世界の外側に神がいない」という意味に限定してはならない。スピノザにおいて神は唯一の実体であり、有限な個物はその実体の様態である。神と個物の関係は、二つの独立した存在者のあいだの関係ではない。

ここで、ヘーゲルとの接点が見えてくる。

ヘーゲルは『精神現象学』序文で、次のように述べる。

Das Wahre ist das Ganze.

「真なるものは全体である。」

この命題は、個々の事物を、それだけで完結した孤立的なものとして理解することの限界を示している。あるものが何であるかは、それが成立する関係や、その関係が展開する全体から切り離しては十分に理解できない。

もっとも、スピノザの実体と様態の関係を、ヘーゲルの全体と諸契機の関係にそのまま置き換えることはできない。ヘーゲルにおいて全体は、諸契機の差異や否定性を通じて具体的に展開するからである。

それでも両者には、存在するものを外部から与えられた原理によって説明するのではなく、そのものが属する関係と秩序から理解しようとする共通の方向性がある。

ここで本稿の第二の主張を提示したい。

内在性とは、個々の存在者を孤立させず、それらを成立させる関係そのものを説明の内部に組み込むことである。

ただし、関係を説明の内部に組み込むことは、すべての事物が同じであることを意味しない。むしろ、差異を外部から与えられた分類によって説明するのではなく、関係の内部でどのように成立するかを問うことになる。

第三段階 必然性――無目的な自然はいかにして秩序を持つのか

内在性を認めるだけでは、自然の秩序が必然的であることはまだ証明されない。

スピノザは『エチカ』第一部定理29において、自然のうちには偶然的なものが存在しないと主張する。また、定理33では、事物は現実に生じているのとは別の仕方や別の秩序で神によって生み出されることはなかったと論じる。

その根拠は、神の本性の必然性にある。

『エチカ』第一部定理16によれば、神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じる。

したがって、自然は目的に向かって進むのではない。しかし、だからといって、自然が無秩序な出来事の集合であるわけでもない。自然の秩序は、あらかじめ設定された終着点ではなく、事物の存在と作用を規定する因果的な連関にある。

ここでヘーゲルの論理学を参照することができる。

ヘーゲルにとって、概念の展開は、外部から与えられた規則に単純に従う過程ではない。概念は、自らの規定に含まれる限界や矛盾を通じて、次の規定へと移行する。

この意味で、ヘーゲルの論理学もまた、論理の展開を外部から説明する原理を必要としない、内在的な運動を考察している。

しかし、スピノザとヘーゲルの違いは重要である。スピノザでは、自然の必然性は神の本性に根拠を持つ。これに対してヘーゲルでは、概念の自己展開と否定性が論理的運動の中心となる。

さらに、ヘーゲルの哲学には精神が自己を認識するという目的論的な構造がある。したがって、ヘーゲルをスピノザと同じ意味で無目的論者とみなすことはできない。

それでも、両者の比較から一つの問いを引き出せる。

それは、自然や思考の秩序は、外部から与えられた目的によって成立するのか、それとも、その内部にある関係や規定の展開によって成立するのかという問いである。

本稿では後者を重視する。ただし、そこから導かれる秩序が必然的であることを主張するには、スピノザのような存在論的な論証が別途必要となる。

第四段階 存在の一義性――差異を消さずに、存在を一つの平面で考える

ここでドゥルーズの存在の一義性という問題が登場する。

存在の一義性とは、存在が存在するものすべてについて同じ意味で語られるという考え方である。

ドゥルーズは『差異と反復』において、存在の一義性を、スコトゥス、スピノザ、ニーチェを通じて展開される重要な哲学的問題として扱う。

この議論の意義は、神と有限な事物、あるいは高次の存在と低次の存在を、存在そのものの意味が異なる階層として分割しないことにある。

ただし、存在の一義性は、すべての事物が同一の性質を持つという主張ではない。石と人間は異なり、神と有限な個物も同じ存在様式を持たない。問題なのは、こうした差異を認めながら、存在そのものを超越的な階層に分断せずに考えられるかどうかである。

ここで、内在性と存在の一義性を区別する必要がある。

内在性が、原因と結果、実体と様態、諸事物の関係を問うのに対して、存在の一義性は、存在がどのような意味で語られるのかを問う。両者は密接に結びつくが、同じ概念ではない。

ドゥルーズの内在平面という構想は、この問題をさらに発展させる。存在するものを、あらかじめ定められた超越的な尺度に従って序列化するのではなく、それぞれのものが持つ能力、関係、変化の可能性から考えるのである。

ただし、内在平面は、あらゆる差異が消滅した均質な空間ではない。むしろ、差異が超越的な原理に従属せず、内在的な関係のなかで成立する場として理解できる。

ここで本稿の独自の仮説を提示したい。

存在の一義性とは、すべてのものを同一化することではなく、差異を成立させるために、差異の外部にある超越的な尺度を必要としないという原理として読み直せるのではないか。

この解釈によれば、存在の一義性と内在性は、存在の差異をどのように理解するかという共通の問題に関わっている。

もっとも、この命題はドゥルーズ自身の主張をそのまま言い換えたものではない。存在の一義性と内在性の関係を、差異の内在的成立という観点から再構成する、本稿独自の提案である。

第五段階 自由――必然性の内部で、いかにして自由が成立するのか

最後に、自由の問題に戻ろう。

スピノザは『エチカ』第一部定義7で、自由なものを次のように定義する。

Ea res libera dicetur, quæ ex sola suæ naturæ necessitate existit, et a se sola ad agendum determinatur.

「ただ自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身によってのみ作用するように決定されるものは、自由なものと呼ばれる。」

ここでは、自由と必然性は対立していない。むしろ、自由とは、どのような原因によって存在し、作用するかという問題に関係している。

ただし、この定義が直接当てはまるのは、神のような意味で自由なものについてである。有限な人間は、外部の原因によっても規定されるため、神と同じ意味で自由なのではない。

それでは、人間の自由とは何か。

スピノザの第四部と第五部を踏まえるなら、自由の問題は、外部の原因に受動的に左右されるあり方から、事物の原因をより十全に理解し、自己の能力をより適切に発揮するあり方へと移行できるかという問題になる。

この点で、自由は因果性からの脱出ではない。因果性のうちで、自分がどのように規定されているのかを理解し、能動的に作用する能力を高めることなのである。

ここに、ヘーゲルとドゥルーズを接続する可能性もある。

ヘーゲルにおいて自由は、単に外的な制約が存在しない状態ではない。自由は、自己を規定する関係を認識し、その関係を通じて自己自身であることを実現する問題として展開される。

一方、ドゥルーズの哲学では、存在者の能力や関係、変化の可能性を捉えることが重要になる。自由を考える際にも、あらかじめ与えられた主体が無条件に選択するという図式ではなく、主体自身がどのような関係のなかで形成され、どのような変化を可能にするのかを問うことができる。

もちろん、三者の自由概念は同一ではない。スピノザの自由は必然性と十全な認識の問題に、ヘーゲルの自由は自己規定とその媒介の問題に、ドゥルーズの自由に関わる構想は差異や生成、能力の変化の問題に重点を置く。

それでも、これらを横断することで、自由を自然の外部に置かれた特権的な能力として理解しない道が開かれる。

自由とは、原因を持たないことではなく、自分を成立させている関係のなかで、自己の作用と変化の可能性を拡張することではないだろうか。

この命題を、本稿における自由の暫定的な定義としたい。

おわりに――無目的的内在生成論という仮説

ここまで、無目的性、内在性、必然性、存在の一義性、自由という五つの段階を通じて、スピノザ、ヘーゲル、ドゥルーズを横断してきた。

ここで提示した「無目的的内在生成論」は、三者の哲学を一つの体系に統合したものではない。むしろ、それぞれの哲学が異なる仕方で扱っている問題を、共通の問いのもとで再構成する試みである。

その基本的な主張は、次のようにまとめられる。

第一に、自然の秩序を説明するために、自然の外部にある目的を持ち出す必要はない。

第二に、自然の内部にある関係から存在を説明することは、自然が必然的であることを直ちに意味しない。必然性については、スピノザのような独自の論証が必要である。

第三に、存在の一義性は、差異を消去する原理ではなく、差異を超越的な階層に従属させずに考えるための原理として解釈できる。

第四に、自由は、自然の因果性から独立することではなく、因果的な関係の内部で自己の能力と作用の可能性を拡張することとして考えられる。

そして、最後に最も根本的な問題が残る。

自然の必然性や内在的な秩序は、私たちの認識とは無関係に成立しているのだろうか。それとも、私たちが自然を理解するために用いる論理的な枠組みそのものが、自然の秩序の把握に関与しているのだろうか。

スピノザは、自然の必然性を人間の認識によって作られるものとは考えない。しかし、私たちがその必然性を理解するときには、定義、公理、命題、証明という思考の形式を通じて理解する。

ヘーゲルは、思考の規定そのものがどのように展開するかを問う。ドゥルーズは、思考や存在を超越的な原理に従属させない内在性を探究する。

ここから、存在の秩序と思考の秩序の関係を、改めて問い直すことができる。

内在性とは、単に世界の内部にすべてが存在するという主張なのだろうか。それとも、世界を理解する思考そのものもまた、世界の外部に立つことなく成立しなければならないという要請なのだろうか。

もし後者だとすれば、哲学とは、世界の外部から世界全体を説明することではない。世界の内部に生じた思考が、自分自身をも含む存在の関係を理解し直していく営みである。

そして自由とは、その理解を通じて、私たちが自分自身と世界との関係を変化させていく可能性にほかならないのではないだろうか。

無目的性から内在性へ、内在性から必然性へ、必然性から存在の一義性へ、そして自由へ。

この五段階は、確立された演繹体系ではなく、今後さらに検証されるべき研究仮説である。しかし、スピノザ、ヘーゲル、ドゥルーズを横断しながら、自然の秩序、思考の可能性、自由の成立を一つの問題として考えるための出発点にはなるはずだ。

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