偶然と必然

スピノザ
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私の人生において何かほんの少しでも歯車が違う噛み合わせになっていたら今とは全く違う別の人生になっていただろう。

その「ほんの少し」というのは本当に「ほんの少し」で、それはある人のその日その時の気分であったり、私をとりまく状況の配置の微妙な差異によって私の人生そのものがまったく違うものになりうるということ。

いうなればそれは「偶然」であり誰かが意図してできるものではなく、本当に奇跡と言ってもいい。この偶然のことをスピノザは「必然」と呼んだのだろうと今は感じている。

すべての可能性は開かれていて他のどのような状況にもなりうる一つの事物が関係性や配置の複雑な絡み合いの末に現実という一つの状態となって現象している。私とは、まさに私個人の意志を超えて駆動している大きなひとつの運動体のちっぽけな歯車のひとつにすぎない。

そのような偶然的な事物とは裏を返せばもはやそうなるべくしてなった「必然」としか考えられない。そのことは私がスピノザの哲学を最初学んだ時に感じた違和感にも繋がっている。

その違和感は「すべての事物が偶然に左右されたまったくの必然なのだとしたら、この人生においての努力とか個人の意志のようなものをもつことに意味はないのではないだろうか。ならばすべてをあるがままにまかせた惰性的な生き方がスピノザ的な生き方ということになるのか」という疑問である。

もちろんそれは違う。

結果論としての今現在はスピノザ的必然によって支配されており、そこに個人の意志や自由はない。しかし裏返して考えると私の意志や努力や思考の結果として今現在が現象しており、それらの意志や努力や思考がほんの少しでも違っていたら、まったく別の今現在に到達していたことは間違いない、ということである。

過去の一時点においては、私が到達した今現在よりも良くも悪くも全く違う現実になりうる可能性が無限に開かれていたわけだ。

それら無限の可能性の中から、私の意志や努力や思考、その他私にはコントロールできない因果連関、関係性の渦のようなものの複雑な絡み合いの末に私の今現在が現象しているとすると、どうせすべては必然的に決まっているのだからと惰性的な生き方を選ぶことはまさしくスピノザのいう受動的な生であり、自分自身で能動的に未来を変えていくような生き方こそスピノザは意図しているのではないか。

結局、私の意志や努力や思考もまた因果の一部であり、未来を変えている因果の一部としてより十分な原因になるというただ一点においてのみ私の自由は存在するということだと思う。

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